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 樫木文(かしきふみ)は幽霊歴百年ほどのベテラン幽霊である。
 いわゆる地縛霊なので、屋敷の敷地内からは出られない。かつ、屋敷周辺は高い塀で取り囲まれており、外から覗くことは出来ない。
 つまり外部の人間が彼女を目撃できるはずはないのに、ここが『幽霊屋敷』として噂になっているのは些か妙ではないだろうか。
 この素朴な疑問に答えてくれたのは、なぜか当人や大家ではなく、松和荘に入り浸っている不動産屋だった。
「ああ、その噂。あれは厳密に言うと、文さんの噂じゃないんですよね」
 平日の日中に、平然と応接間で茶を飲んでいる彼は、侑斗にこの松和荘を紹介した不動産屋の平社員、道端(みちばた)だ。暇さえあれば顔を出して世間話に花を咲かせているぐうたら社員ぶりからは想像できないが、彼はかなりの情報通で、このあたりのことなら彼に聞けば間違いない。
「文さんじゃないなら、誰の噂なんです?」
 こう聞いたのは、この敷地内に住まう幽霊が文一人ではないことを知っているからだ。
 なにせここは幽霊つきアパート。一部屋につき一人の幽霊が住んでいる。彼らとの同居が条件だからこそ、八畳のワンルームで月四万という破格の賃料が設定されているのだ。
 大家である松来家は昔から霊感の強い人間を数多く輩出しており、その体質を生かして悪霊退治を生業としていたこともあった。香澄の祖母の代で廃業したものの、霊感の強さは未だ健在で、それを生かしてあちこちから霊をスカウトし、アパートに住まわせつつ未練を解消する手伝いをしているわけだ。
「さあ、誰でしょう?」
 当ててみてくださいよ、と言わんばかりのどや顔に若干イラッとしつつ、思いつく人物を列挙する。
「うーん、貴子さんは昔からいるわけじゃないし、(あたる)先生はそもそも外に出たがらないし……」
 『貴子さん』は侑斗の同居人で心優しき髭面のオネエ、『中先生』は駆け出しラノベ作家と同居している(文字通りの)ゴーストライターだ。そのほかにも付喪神や座敷童など、厳密には幽霊でないものも暮らしているが、彼らは基本的に松来家の敷地から外に出ることはない。文のように土地や建物に縛られているわけではないが、むやみに外へ出て世間を騒がせるのは本意ではない、ということで、なるべく控えているらしい。
「ヒントを差し上げましょうか。噂は松和荘ではなくて、母屋の方なんですよ」
 その言葉に、改めて少年の発言を思い出す。
 彼は『松のお屋敷』と言った。入り口に松が植わっているのも、お屋敷と呼んで差し支えない門構えなのも、ここ松和荘ではなく母屋――香澄と文が暮らしている平屋建ての建物の方だ。
「つまり、母屋に文さん以外の幽霊がいる、と?」
「噂ではね。僕が聞いた話では、丑三つ時に母屋の方からすすり泣く声が聞こえるとか、井戸端で呻き声を上げている人影があるとか……。ああ、最近じゃないんですよ。戦前からずっと、そういう噂が流れてるんです。まあ、近年はめっきり聞かなくなりましたけどね」
 あの少年も「おばあちゃんに聞いた」と言っていたから、昔の噂が親から子、孫へと伝わっているのだろう。
 先日はつい不安になって大家に陳情してしまったが、近年はオカルトブームも下火になり、心霊スポットに食いつく輩も減ってきた。それならば、このまま静かに噂が消えるのを待つのが吉なのかもしれない。
「文さんは夜中にわざわざ外に聞こえるような声で啜り泣いたり、井戸端で呻くような方じゃありませんし、生きた人間を幽霊と見間違えることもありますからね。ここはなんたって、ロケーションがそれっぽいですし」
 ひどい言われようだが、松来家は戦前の趣を色濃く残す純和風の邸宅で、仏間もあれば茶室もある。庭には池もあるし、何なら柳も植わっている。確かに、夏場に肝試しするには最高のロケーションだ。
 実際、香澄の祖母にあたる薫子が一人で暮らしていた頃には、廃屋と勘違いし、肝試しと称して侵入してきた不届き者もいたという。
「ただまあ、生きた人間を見間違えたにしては、目撃証言が多すぎるので、僕は実際、いるんじゃないかと思ってるんですよ」
 となると、やはりお屋敷の方に文以外の幽霊がいる、ということになるが、しかしそれにしては、幽霊話の噂を聞いた彼女の反応が気になった。
「でも……文さんは自分の噂だと思ってたみたいですよ。それに、もし他に幽霊がいるなら、あの家のことに一番詳しいはずの文さんが知らないっていうのも、なんか不思議な話ですよね」
 文は元々、百年ほど前に松来家で働いていた住み込みの使用人だ。若くして病に倒れて以来、幽霊になってもなお、この地で奉公を続けている。
 とはいえ、現在母屋に暮らしているのは香澄だけだから、家事は最小限で済んでしまう。故に暇を持て余した彼女は母屋だけに留まらず、離れである松和荘や広大な庭までも、日々ピカピカに磨き上げているわけだ。
「そう、そこなんですよ!」
 ぐぐっと身を乗り出した道端は、わざとらしく周囲を見回して、他に誰もいないことを確認すると、おもむろに語り出した。
「僕も詳しくは知らないんですが、あのお屋敷には当主以外の立ち入りを禁じている部屋があるらしいんですよ。そこだけは文さんも入れないそうで」
 当主しか入れない部屋。普通に考えるなら、貴重品を入れる金庫があるとか、何か一族の秘密が隠されているとか、そんな感じだろうか。この家には倉もあるが、あそこは雛人形やら五月人形、はたまた謎の葛籠(つづら)や箪笥がしまい込まれており、足の踏み場もない状況だ。いざという時に持ち出さなければならないものを保管するには適していない。
「ただね。僕が聞いた話では、そこはかつて書斎として使われていて、誰でも利用することが出来たそうなんです。まだ松和荘が下宿だった頃は、課題に追われた学生達が頻繁に出入りしていたそうでね」
 ところがある時期を境に、書斎は立ち入り禁止となり、別の部屋が書庫として使われるようになった。書斎にあった本のほとんどは書庫に移したため不便はなかったそうだが、書斎を封鎖した理由がはっきりしない。
「なので僕は、そこに(くだん)の幽霊が住み着いてるんじゃないかと思ってるんですよねえ」
 笑顔で締めくくった彼に、思わず胡乱な目を向ける。
「つまり、俺にその部屋を調べてこい、と?」
「いえいえ。ただ、気になるならご自身の目で確かめた方がすっきりしますよ、ということですよ。怪談ってそういうものでしょう?」
 確かに、『幽霊の正体見たり、枯れ尾花』ではないけれど、怪談の多くは『目撃者が想像力を働かせすぎた結果』というパターンが多い。
 この想像力というのは実に厄介で――そう、今まさに、『白黒つけないことには、むしろ想像が広がってモヤモヤする』という状況を作り出してしまっている。
 なぜなら――。
「文さんと一つ屋根の下なんてうらやま――じゃなかった、香澄さんと文さんしか住んでないお屋敷に得体の知れない幽霊がいるなんて、何かあったら大変ですもんね!」
「うーん本音がだだ漏れですね」
 爽やかな笑顔でそう評した道端は、表情を崩すことなく「ちなみに」と釘を刺しにきた。
「くれぐれも、文さんには内密に願います。彼女、幽霊が怖いそうなので」
 なんだそれ。
「正確には、知らない人は幽霊だろうが人間だろうが怖い、ということみたいですけどね。ああ見えて彼女、結構な人見知りですから。僕も気さくに挨拶してもらえるまで、随分と時間がかかったんですよ」
 それに関しては完全に、彼の人徳によるものなのではないだろうか、と思ったが、ひとまずスルーしよう。
「ですので、松来家の皆さん――松和荘の住人もですが、母屋の幽霊話に関しては、文さんに一切伝えてないらしいんですよ」
 ああ、だからあんな反応だったのか。皆がオブラートに包んで誤魔化しているから、文は『幽霊の噂』と聞くと、一番よく知っている幽霊、つまりは自分のことだろうと思ってしまうわけだ。
 しかし、そうなると調査のハードルが一気に上がってしまう。なぜなら、彼女は基本的に母屋にいて、しかも壁や床をすり抜けられるので死角がない。
 彼女に見つからないように母屋の調査をしようというのは、最新鋭の防犯システムを掻い潜って銀行へ侵入しようとしているようなものだ。
 残念ながら、侑斗は怪盗の孫でもなければ諜報機関のベテラン工作員でもない。更に言えば、普段から母屋に出入りしているわけでもないから、出向くには何か『もっともらしい理由』が必要だ。
 腕組みをして考え込む侑斗を尻目に、道端は涼やかに冷茶を飲み干すと、「さあて」と席を立った。
「長い夏休みを満喫できる、絶好の課題になりましたかね。いやあ人助けって気持ちいいなあ」
「……まさかとは思いますが、夏休みがない社会人の腹いせじゃないでしょうね」
 そういやテストが終わった頃に「学生さんは二ヶ月も夏休みで羨ましい」とか何とか言われた気がする。
「とんでもない! 僕はただ、担当地域で囁かれ続ける不穏な噂話が解明されるなら、それに越したことはないと思っただけですよ」
 つまり、気にはなっているが自分で解明するのは面倒だから、こっちに押しつけてきたというわけか。
 道端の口車に乗せられるのは癪だが、これも乗りかかった船だ。
「分かりましたよ。やれるだけやってみます」
 かくして、桐崎侑斗の個人的『夏休みの自由研究』こと『緊急ミッション・松の屋敷に住み着いた幽霊の正体を突き止めろ!』がスタートしたわけである。

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