[TOP] [HOME]

 大通りから一本奥に入った閑静な住宅街に、その建物はあった。
 板塀に囲まれた一角。屋根のついた立派な門扉には、これまた立派な松の木が彫り込まれている。
 あえてそちらは使わず、少し離れたところにある古めかしい通用門を潜り抜ければ、聞こえてくるのは軽やかな箒の音。
「あら香澄(かすみ)さん。お帰りなさいませ」
 艶やかな黒髪を翻して振り返る着物姿の女性。その背後に半ば隠れた木の看板には、墨痕鮮やかに記された『松和荘(しょうわそう)』の文字。

 そう、ここは『松和荘』。レトロな雰囲気漂う木造二階建ての元下宿・現賃貸アパートだ。

「ただいま、(ふみ)さん。精が出るねえ」
「今日は絶好のお掃除日和ですから!」
 紅葉柄の着物に割烹着をまとい、せっせと竹箒を動かして庭を掃き清めている文さんは、ここ『松和荘』のマドンナ的存在だ。
 楚々とした立ち居振る舞い。鈴を転がすような笑い声。時々ちょっとしたドジをして、顔を真っ赤にして恥らっている姿など、同性から見ても非常に可愛らしい。久しく聞かなくなった『大和撫子』という言葉がこれほど似合う女性を、私は他に知らない。
「香澄さん、今日は随分とお早いお戻りでしたね」
 そう問われて、ああと肩をすくめてみせる。
「まさかの休講。教授が風邪ひいたらしくて。仕方ないから図書館で自習してたんだけど、捗らないんで帰ってきちゃった」
「そうでしたか。香澄さんご自身が体調を崩されたのではなくて良うございました」
 ホッとした様子でそう言ってもらえると、なんだかくすぐったい。……実は図書館での自習に飽きて、小一時間ほどファストフード店でだらだら過ごしていたのだけど、それは言わないでおこう。
「今日は何かあった?」
 若干の決まり悪さを隠すように、毎度お決まりの文句を紡ぐ。
 高齢を理由に突如隠居を宣言した祖母から『松和荘』の管理を引継いで一年。大学生という肩書きのほかに大家という肩書きまで背負うことになってしまった私を支えてくれたのは、文さんをはじめとする『松和荘』の住人達だ。特に文さんは今時珍しい『住み込みのお手伝いさん』で、掃除洗濯のほか、日中は留守にすることが多い私の代わりに来客や電話対応までも引き受けてくれている。
「回覧板が回ってきたくらいですわ」
 靴箱の上に置いてありますから、と母屋を指し示したところで、あらいけないと口を押える文さん。
「私ったら、玄関を開け放ったままでした!」
 回覧板を置きにいって、そのままにしてしまったのだろう。走り出そうとする彼女を「いいよ」と押しとどめて、大股歩きで母屋へと向かう。
「ああ、あったあった」
 半端に開け放たれたままの引き戸から玄関に入り、靴箱の上にちょこんと載った回覧板を取り上げれば、挟まれていた秋祭りのチラシがひらりと落ちた。

[TOP] [HOME]

© 2016-2018 seeds/小田島静流