《白夜城》の一角、《血まみれ侯爵》が愛する薔薇園には、枯れることのない不思議な薔薇が咲くという。
その薔薇を手に入れた者は永遠の命を手に入れることが出来る。
故に侯爵は何百年もの間、変わらぬ容姿を保ち続けているのだ――
「根拠のない与太話を信じて侵入する阿呆どもが絶えぬ」
大仰にぼやきつつ、慣れた手つきで剪定鋏を動かす作業着姿の男。彼こそが、《白夜城》の主こと《血まみれ侯爵》だ。
「大体、何百年とは何事か。余がこの《白夜城》の主となったのはつい五十年前の話ぞ」
「『つい』じゃねえんですよ」
これだから長命種は困る、と黒翼の配達人レイヴンは肩をすくめてみせた。
「五十年も経てば、『怪しげな異邦人』も立派な『怪異』の仲間入りだ」
街外れの古城に住み着いた、《侯爵》を名乗る謎の人物。廃墟と化した城の中で唯一、美しく整えられた庭園。月明かりの中で薔薇を愛でる彼の姿を目撃した者が、酒の席で誇張して触れ回れば、あっという間に尾ひれがついて『不思議な薔薇と永遠の命』の出来上がりだ。
「余は日差しに弱いのだから、夜に選定作業をするのは仕方あるまい?」
「夜中にでっけえ剪定鋏でジャキジャキやってたら不審極まりないでしょうが」
「むむ……。しかし、このあたりは人気も少ないし、第一この一帯は私有地である。己が居城で何をしようが勝手ではないか」
「そりゃそうなんですがね。ただでさえ怪しさ全開なんだから、少しは自覚してくださいよって話ですわ」
青白い肌に白銀の髪、紅い瞳の《血まみれ侯爵》。その容姿と日光を厭う体質のせいで、やれ不死人だの吸血鬼だのと噂されているが、本人はそれを真っ向から否定している。
「余は単に色素が薄いだけの長命種である。不死でもなければ血も吸わぬ」
というのが侯爵の主張だが、素性と生業が謎に包まれていることは紛れもない事実だ。おかげで裏家業の首領だとか、不死軍団を率いているだとか、胡乱な噂が絶えない。
「うむ、今年の薔薇は実に美しく咲いた。助言に従って肥料を替えてみた甲斐があった」
剪定作業を終えて満足げな侯爵は、何か言いたげなレイヴンに「言っておくが」と付け加えた。
「侵入者を殺して埋めたりなどしておらんからな」
あんなもの肥料にすらならぬわ、とプリプリ怒ってみせる侯爵に、だからそういうとこだよ、と溜息を吐く。
「いちいち発言が不穏なんですよ、おたくは」
古風な言い回しをするせいで侯爵などという渾名がついているが、彼は庭仕事が趣味の、ちょっとばかり顔の広い、ただの隠居爺である。――その『顔の広さ』が困りものではあるのだが。
「ところで、おたくんとこで匿ってる樹人族の家出娘についてなんですがね」
ずばりと本題に切り込んだレイヴンに、侯爵は澄まし顔で答えた。
「余が、『家のために、好きでもない男と結婚するなんて絶対にイヤ』と逃げ込んできた者を無下にするとでも?」
「思わないから聞いてるんですよ。この街が抗争に巻き込まれるのは御免被りたいんでね」
某盗賊団の後継者である樹人族の娘が結婚式の最中に逃走し、《白夜城》に匿われているらしい――。諜報部隊《黒翼》の元に寄せられた情報は正しかったようだ。
「心配せずとも、彼女と結婚するはずだった男は、近日中に捕縛される。度重なる悪行の数々に、とうとう地元の領主が動いたのでな」
「……なるほど」
結婚相手は街中の裏家業を取りまとめている一団の総領息子だと聞いていたが、これは相当な大捕物になるのではないだろうか。
「しかし、それだと芋づる式に家出娘の親父さんもしょっぴかれるんじゃ?」
「話はつけてある。全財産没収の上に国外追放くらいで済むだろうよ。彼女も『クソ親父にはいい薬だ』と言っておる。これを機に裏家業から足を洗って、田舎でのんびり暮らすのも良いだろう」
伯爵のことだ。ここまで話すということは、すでに一から十まで抜かりなく手を回してあるのだろう。
「で、肝心の娘さんはどうするんで?」
「ここの土が気に入ったというのでな。しばらくは我が城でのんびりするといい、と言ってある」
水が合う、とはよく言うが、土が気に入るとは、園芸好きの侯爵らしい言い回しだ――などと思っていたら、どこからか『そうそう』という声が聞こえてきた。
『よく手入れがされていて居心地が良いの』
「!!」
辺りを見回せば、生け垣で仕切られた迷路の向こう、円形に切り取られた広場にひっそりと佇む若木が、風もないのにふるふると枝を揺らしている。
鮮やかに生い茂る黄緑色の葉に、髪飾りのような白い花。すらりとした幹は根元が広がっていて、まるで白いドレスのようだ。
葉陰に埋もれた美しい横顔に気づいてしまったレイヴンは、えーっと、と頬を掻いた。
「この庭に根付いちゃったんですかい?」
「いいや。逃避行で疲弊しきっていたのでな。あの方法が体力回復に適しているというので、場所を提供している」
樹人族は限りなく人に近い姿をしているが、その性質は樹木に寄っている。定期的に根を下ろし、程よい日光と水を得ることで、健やかな体を保つことができるのだという。
「……あまりに無防備すぎやしませんかね」
『このお城に近寄る人なんて滅多にいないもの』
彼女の言うとおり、この《白夜城》に平気な顔をして上がり込めるのは、侯爵の知己くらいのものだ。その数少ない一人であるレイヴンは、複雑な表情で「確かに」と頷いた。
「彼女の助言は実に的確でな。おかげで我が薔薇園もより美しく整った。余としては永住してくれても構わんが、まだ若い彼女にこの庭は窮屈であろう」
顔に似合わず世話好きの侯爵は、よくこうして客人を招き入れるが、そのまま居着いてしまう者は滅多にいない。《白夜城》が廃墟同然で、まともな人間には住みづらい、という事情もあるだろうが、恐らくは彼の信条によるものだ。
「余は何者にも縛られぬし、何者も縛らない。来る者は拒まず、去る者は追わず。これこそが余の宿命であり、また矜持でもあるのだ」
傷ついた者には躊躇なく手を差し伸べ、去りゆく者には惜しみなく餞を送る。そんな振る舞いこそが、彼が『侯爵』と呼ばれる所以なのだろう。
『私はここが好きよ。おじさま』
何気ない言葉に、白皙の美貌がびくっと震えた。
「……その呼び方は止めてほしいと言ったはずだが」
『だってお名前を教えてくださらないんだもの』
「あー、そりゃ無理だ娘さん。この御仁、絶対に名乗らないんですわ」
そう。彼は決して自らの名を口にしない。故に周囲が適当に呼び始めた結果、ついた渾名が《血まみれ侯爵》だ。最初こそ《白夜公》や《白銀の貴公子》などと呼ばれていたらしいが、最終的に落ち着いたのが一番物騒な呼び名というのも、やはり日頃の行いのせいだろう。
「『侯爵』でも『血まみれさん』でも、好きに呼んだらいいと思いますよ」
「何故お前が許可を出す、黒鴉。しかも、なんだ『血まみれさん』とは。それではまるで安っぽい怪異のようではないか」
「怪異には間違いないと思いますがね」
「むう……」
『ふふ。仲が良いのね』
「否である!」
「誤解を招く表現は止めてもらえますかね!?」
夜の薔薇園に響き渡る、軽口の応酬と軽やかな笑い声。
『不死人の集う怪しげな廃墟』『ならず者の巣窟』などと噂される《白夜城》が、こんなにも美しく平穏な場所だというのは、限られた者だけが知る秘密、ということになっている。