コンコン コンコン
「うっせー……」
夢の中まで響いてきたノックの音に飛び起きたものの、部屋はまだとっぷりと暗く、まだ夜も明けきっていないと悟って溜息を吐く。
独身寮から越してきて
こんな時間の来客など、ろくなものではあるまい。そう思いつつも、寝ぼけ眼で扉を開ければ、そこには予想外の人物が手を振っていた。
「おはよー」
黎明の空を背に佇むのは、《垂れ耳エルフ》のユージーン。
あまりにも意外な来客に、先程までの眠気が一気に吹き飛んだ。
「おっさん、なんでここに!?」
十二番街の外れで骨董店を営む彼とは長い付き合いになるが、こうして訪ねてきたのは今日が初めてだ。そも、彼は『ぐうたらエルフ』の綽名が示す通り『怠惰』を形にしたような人物であり、少なくとも朝っぱらから他人の家までやってくるような気概を持ち合わせているような男ではない。
「分かった。夢だろこれ」
「ひどいなあ、オルト君は。僕を何だと思ってるのさ」
「看板娘に開店準備その他もろもろ全部押し付けて昼まで寝てるぐうたら店主」
一息で言い放ち、扉を閉めようとして、にゅっと伸びてきた手に阻止される。
「待って待って。ちゃんと用があるから来たんだってば」
「こんな朝早くに用事だなんて、ますます怪しい。やっぱり夢だろ。間違いない」
「疑り深いんだから。ちゃんと本物、正真正銘の僕だってば」
そう憤慨してみせた男は、何やら空を気にしているようだった。あっ、と呟いたかと思えば、唐突に手を掴まれて、扉の外に引っ張り出される。
「おい、何だってんだ!」
「いいから」
エルフの細腕は思いのほか力強く、がっちりと手首を握られてしまうと振りほどくことは困難だ。
仕方なく、ほとんど引き摺られるようにして明け方の街を歩くこと数分。問答無用で連れて来られたのは、彼が営む骨董店の裏――世界樹の根元だった。
表通りからは板塀で仕切られ、もっぱら店主の昼寝場所となっている、通称『裏庭』。傍らには井戸があり、晴れた日は洗濯物を干す場所にもなっているので、オルトにとっても馴染みの場所だ。
「一体、何なんだよ?」
「ほら、あそこ」
見上げれば、朝日を浴びた枝の先に一つ、また一つとほころぶ花。
常緑から薄紅色へと一気に染まりゆく大樹。息を飲むような光景に、瞬きを忘れて立ち尽くす。
「この花はね、百年に一度しか咲かないんだ」
独り言のように呟いて、楽しそうに笑うユージーン。
「――だから、お花見をしよう」
「準備万端なのです!」
軽やかな声に振り返れば、敷物を抱えて微笑む看板娘。呆気にとられるオルトの前で、二人はせっせと敷物を広げ、大きな籠から茶器や焼き菓子を取り出して、手際よく並べていく。
「昔ね、知り合いに教わったんだ。彼の故郷では春になると、こうやって木の下に集まって、満開の花を眺めながら語り合うんだって」
花の命は短くて。だからこそ人々は、刹那の美しさに永遠を見るのだと。
「この花もね、夜明けと共に咲いて、小一時間で散ってしまうんだ」
だから『幻の花』なんて呼ばれてるんだよ、と教えられて、やれやれと肩をすくめる。
「壮大な花見だな、おい」
百年に一度。それは長命な彼にとっても待ち遠しいものなのだろう。
その瞬間を共に過ごそうと声を掛けてくれたのはきっと――『次』がないことを知っているからだ。
翼人の寿命は短い。道が交わるのは今、この一瞬だけ。
そう、花も人も同じだ。百年に一度だけ咲く幻の花。時の流れが異なる者達の、刹那の邂逅。それはまさに、奇跡としか言いようがなくて。
「――百年の刹那、か」
口を衝いて出た言葉に、看板娘がまあ、と手を打ち合わせた。
「とてもロマンチックです! オルトは詩人ですね」
「なに、『永遠の十四歳』には敵わないさ」
茶化さないでください、とぽかすか叩かれて、悪い悪いと謝ってみせる。
「まったくもう。折角のお花見なのですよ。もっと雰囲気を大事にしてください」
むくれながらも優雅な手つきで茶を淹れてくれた看板娘ことリリル・マリルは、自身のカップにもなみなみと紅茶を注ぐと、零さぬよう慎重な手つきで持ち上げた。
「それじゃあ――この善き日に、乾杯!」
「かんぱーい!」
三人の声に唱和するように、ざあ、と梢が揺れて、春風に花が踊る。
遥か頭上からゆっくりと降りてくる薄紅色の花びら――巨木に咲く花にしては驚くくらいに小ぶりだ――は、ひらひらと舞い降りるうちに色と重みを失い、風にとけて消えていく。
「なんて幻想的なんでしょう」
カップを片手に、舞い散る花吹雪に手を伸ばす少女。その手を掠めた花びらが、ひらりと紅茶に飛び込んだ。
それこそ「あっ」という間もなく、半透明の花びらはシュン、と溶けて見えなくなってしまったので、少女と二人で顔を見合わせる。
「消えてしまったのです!」
「これ、飲んで大丈夫なのか?」
「平気だよ。世界樹の開花現象は単に《マナ》循環の副産物だからね。花びらは《マナ》の欠片みたいなものだから、飲んでも害はないし、むしろ魔力が上がるかもよ」
さらりと答えるユージーンだったが、その物言いはあまりに直截的すぎて、それこそ雰囲気が台無しだ。
「百年に一度の奇跡を便利なマジックアイテム扱いするなよ」
「えー。それこそ滅多にない奇跡なんだから、そのくらいのご褒美はあってしかるべきだと思うけど」
あっけらかんと笑う彼を見ていたら、それ以上突っ込む気は失せた。
「……ま、おっさんが頑張って早起きするくらいだもんな。それだけで奇跡だ」
ひどいなあ、と笑いながら、パイを頬張る店主。その横では看板娘が、紅茶のお供にクッキーをかじって、幸せそうに微笑んでいる。
見れば籠の中身はすでに半分以下に減っており、きちんと三人分用意されていたはずのパイやケーキの類は、いつの間にか綺麗さっぱり消えていた。
「……おい。花見じゃないのか。さっきから食ってばっかじゃないか!」
「ちゃんと花も楽しんでるよー」
「こんな美しい光景だからこそ、食が進むのです!」
二度と見られない、奇跡の瞬間。それがどんなに特別な時間であっても、結局はいつも通りの『賑やかな日常』になってしまうのか。
(まあ、この方がオレ達らしい、か)
同じ日は二度とやってこないから、特別でない日などないわけで。
刹那と永遠、日常と非日常は表裏一体で、それをパタパタとひっくり返しながら、時は流れていくのだろう。
やれやれ、と息を吐き、負けじと籠に手を伸ばす。
「誰だよ、オレの分のパイを食ったやつ!」
「わわ、私ではありません! ……ケーキは食べましたが」
「こういうのは早い者勝ちだよー」
悠久の時を経て 咲き誇る花
百年の刹那を 胸に刻んで