風が、吹いていた。
遥か上空を吹く風。茜色の雲をぐんぐんと遠くへ運び、輝く夕陽の姿を明らかにする。
地上を吹く風。梢を揺らし、夕陽に照り輝く草原を波のようにざわめかせて、そして遠ざかる。
そうして取り残されたのは、草原に埋もれた小さな村。今にも倒れそうな木の門には『黄昏の村ランカ』と刻まれている。
その門柱に寄りかかるようにして、エルクは遠く、草原の彼方を見つめていた。
頭に巻かれた色とりどりの布からはみ出した薄茶色の髪。華奢な体は何枚もの布を重ねた、この地方独特の衣装に包まれている。
夜の気配が混じり始めた風に身を委ねるように、エルクは古びた門の傍らに立ち尽くしていた。
門の向こうには一面の大草原。その青々とした草の海原を切り裂くように、一本の細い道が続いている。道はそのまま丘を上り、エルクの脇をすり抜けて広場へと続く。
ここは日常と非日常の境目だ。見えない壁で仕切られたように、この囲いの中には緩慢で変化のない時が流れている。
美しい、しかし変わらない風景。
その穏やかな暮らしに不満があるわけではない。しかし、エルクは暇さえあればこの場所にやってくる。
自分自身にも、それが何故かは分からない。
――それは、小さな好奇心。大人になれば心の隅に埋もれてしまうだろう、新たな世界を追い求める心。
そんな心に戸惑いながら、それでもエルクは見つめ続けた。
遥かな道の、その先を。
(今日も来訪者なし、かぁ……)
夕焼けが夜の闇と入れ替わった頃になって、ようやくエルクは門柱から背中を離した。
風に煽られてずり落ちていた肩布を掛け直し、急ぎ足で歩き出そうとして、ふと耳元を掠めた一陣の風に足を止める。
(……?)
ただの風かと思ったが、何かいつもと違うような気がして振り返った、その瞬間。
「……わあああああああああ!! げっ! ……いでええええ!!」
――空から人が降ってきた。
「いでででで……。くっそお、どうして今日はこんなんばっかりなんだよぉぉぉ!!」
目の前に突如として落ちてきた青年は、尻を押さえながら喚き続けている。どこかで盛大に転びでもしたのか、土埃にまみれた姿はかなり異様だ。
「困ったものですねえ……。しっかりつかまれと言ったのに……」
呆れ声に驚いて空を見上げれば、金の髪を風になびかせた魔術士がそこに浮かんでいた。
「うっせえ! 手が滑ったんだよ!!」
頭上へと怒鳴り返したところで、青年はようやく、目の前で固まっているエルクの存在に気づいたらしい。
「あれ? お前、誰?」
「ラーン、失礼ですよ! この村の方ですね? 驚かせてしまってすいません」
ふわり、とエルクの横に降り立った金髪の魔術士が話し掛ける。そこでようやく硬直から解けたエルクは、おずおずと口を開いた。
「いえっ! えっと、あの……」
そこから先がどうにもまとまらない。こういう場合、何を言ったものか考えていると、ようやく尻の痛みが引いてきたらしい赤毛の青年が、にかっと笑って見せた。
「驚かせてごめんな! 俺はラーン。こいつは相棒のリファ。旅の途中なんだ。この村って宿屋ある? あーもぉ、腹減っちまったよ~……」
矢継ぎ早に繰り出される言葉に戸惑いながらも、エルクはこくこくと頷いた。
「は、はい! 宿屋はないけど、泊めて差し上げられると思います。あ、その前に村長のところに挨拶に行った方が……あ、えっと……」
エルクはそこまで一気に喋ると、一旦息を整えて、そして満面の笑みでこう告げた。
「僕はエルクっていいます。黄昏の村ランカへようこそ!」