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[4]


 うっそうと茂る森の中、その洞窟は岩肌にぽっかりと不気味な口を空けていた。
 まだ日は高いというのに、辺りはかなり薄暗い。シュトゥルム公国の南部に広がるこの森林は、樹齢数百年を超える大樹が織り成す広大な森だ。普段は狩人以外、この森にやってくる者はない。
 その広大な森の片隅に足を踏み入れて半刻ほど、大地の隆起によって生み出された丘の裾にその洞窟はあった。辺りは奇妙なほどに静まり返っており、時折聞こえる鳥の鳴き声がいやに耳につく。
 ―――そして。
「……刀傷じゃないな」
「どうみても、爪による裂傷ですね。となれば、これはさっきの彼らが襲われたという妖獣の仕業でしょう」
 洞窟の入り口付近に転がった無残な死体に、二人は顔をしかめていた。
 死体は計五体。赤褐色の皮膚に尖った耳、醜悪な顔には大きな目玉がぎょろりと二つ、そして頭髪のない頭には二本の角。間違いない。この洞窟に巣食い、このところ村の畑を襲っていたという土鬼達だろう。
 その土鬼らの死体は見るも無残に切り裂かれ、息絶えていた。血の乾き具合からして、まだ半日も経っていないだろうと推測し、首を傾げるカイト。
「おかしいですね。さっきの二人は『洞窟の中には土鬼なんていなかった』って言ってませんでしたっけ?」
「ああ。森では何度か出くわしたとも言ってたがな」
 村で依頼を受けた新米冒険者三人組が洞窟に向かったのは今から三日前。しかし彼らは森で迷い、洞窟に入ったのは一昨日の昼頃だったらしい。中は複雑に入り組んでおり、奥の方で獣に襲われて這う這うの体で逃げ出したのが昨日の夕方だというから、洞窟の広さが伺える。まあ、彼らが単に洞窟探索に慣れておらず、時間がかかっただけかもしれないが。
「ってことは、何者かに洞窟を追われて森に散った土鬼が様子を見に来て、あっさり返り討ちにあったと、そんな感じでしょうかね」
「そんなところだろうな。入り口にはこいつらの足跡もないし」
 こういった探索では、いかに情報を集めるかが鍵となる。二人はその後も入念に辺りを調べ、他に手がかりがない事を確認すると、ようやく洞窟へ入るための準備に取り掛かった。
「あいつらの話じゃ結構入り組んでるみたいだから、今回はお前の出番だな」
 火口箱を取り出しながら、エスタスはカイトに頼んだぞ、と念を押す。荷物の中から帳面と筆記用具を取り出したカイトは、任せてくださいと自信たっぷりに頷きを返した。
 入り組んだ洞窟では、簡単な地図を書きながら進むのが望ましい。何も考えずに突き進んで迷っては元も子もないし、余計な体力の損耗はなるべく避けるべきだ。そしてカイトの所属するルース神殿では、地図作成の技術を教えている。
 色々な意味で問題児のカイトではあるが、こと地図作成に関してはエスタスもその腕前を認めていた。欠点があるとすれば、正確さにこだわるために、中々先へと進めない事くらいか。
「分かってるよな。道筋さえ分かれば充分なんだからな」
 そう釘を刺すと、カイトは渋々といった様子で頷いた。それを見て、エスタスは松明に火を灯す。薄暗い洞窟では、この灯りだけが頼りだ。
「よし、行くぞ」
「はいっ」
 そうして二人は、闇の中へとその身を投じた。

* * * * *

 洞窟に足を踏み入れて、どれほどの時が経過しただろうか。
 じめついた地面を避け、岩の上に腰を降ろして、エスタスはやれやれ、と天井を仰いだ。
「ほんっと、入り組んでるな」
「ですねえ。いやはや、こんなに書きごたえのある洞窟は初めてですよ」
 同じように近くの岩の上に腰を下ろして、カイトはこれまでに書き溜めた地図をぱらぱらとめくっていた。小さな帳面とはいえ、すでに十頁を越えているのだ。流石のカイトも疲れた顔をして、入り口からここまでの経路を指で辿りながらため息をつく。
「人の手が入っていないから、罠の類がないのだけが救いですね」
「だな」
 洞窟が隠れ家や財産の隠し場所になっている事も多々ある。そういう場合、往々にしてそこには罠やら隠し扉やらが設けてあり、そうなれば彼らだけでは探索は不可能だ。たちの悪い罠にかかれば命を落とす事もある。
「これじゃ、あいつらが中で時間食ったのも頷けるな」
 小腹が空いたので荷物の中から携帯食料を取り出し、半分をカイトに放る。それをようやっと受け取ったカイトは、そういえば、と小首を傾げた。
「ここまでで、置き去りにされた精霊使いさんの形跡は全然ありませんでしたけど、一体どこへ行っちゃったんでしょうねえ」
「もしかしたら、自力で洞窟を抜けてるかもしれないな」
 それならそれでいいんだが、と呟きながら、干し肉を噛み千切る。無事であるならそれに越した事はない。最悪なのは、この洞窟のどこかで物言わぬ躯に成り果てている事だ。
「それはそうと、結局その「見慣れない獣」ってのは土狼だの水豹だの、そんな物騒な奴らなのか?」
 ふと尋ねると、カイトはうーん、と顎を掴む。
「入り口の死体や、洞窟内のところどころに転がっていた死体の状況からして、相手が中型獣の形態を取る妖獣だということは分かります。あとはこの……」
 そう言って彼が懐から取り出したのは、丁寧に折りたたまれた木綿布だった。それを膝の上に乗せ、慎重に開いていく。やがて現れたのは艶やかな黒い毛。ここへ来る途中、幾度か遭遇した土鬼の死体のそばに落ちていたものだ。
「さっき拾ってた奴か。で、何の毛か分かるのか?」
「図鑑を持ってきてないんで、断言は出来ませんけどね。この色や長さからして、土狼で間違いないんじゃないかと」
「曖昧だなあ」
「仕方ないでしょう、僕だって本物を見たことないんですから」
「そりゃそうか……さ、そろそろ行くぞ」
 そう言って立ち上がるエスタスに、カイトも渋々ながら腰を上げた。
「もうちょっとゆっくりしたかったんですけどぉ」
「あとでな。夜までには村に戻りたいだろ?とっとと進もうぜ」
 岩の間に立てかけておいた松明を取り、スタスタと通路へ向かう。置いていかれては大変と、カイトは帳面と鉛筆を手にエスタスの背中を追った。
「待って下さいって」
「早く来っ……」
 カイトを振り返ろうとした瞬間、耳元を鋭い風の唸りが通り過ぎていった。
 ―――キケン!―――
 そんな声が聞こえた気がして、はっと前を見る。薄暗い通路の向こうで何か動いたと思った途端に、「それ」は通路に立つ二人目掛けて跳躍してきた。
「げっ」
「どうしました、って、うわあああっ!!」
 慌てて大きく後ろに飛びのいたエスタスにぶつかりそうになって、のけぞるカイト。つい先ほどまで彼が立っていた場所には、冷たい輝きがあった。獲物を仕留め損ねた狩人は、低い唸り声を上げながら二人を見つめている。
 それは、まるで澄んだ水のような、透き通った毛並みを持つ妖獣。狼に似たしなやかな体は驚くほどに大きく、その体を覆う毛は唸り声を上げるたびに漣が立つようにざわめいて、その美しさに一瞬目を奪われる。
 その瞬間、獣は再びしなやかに床を蹴ると、エスタスへと踊りかかってきた。
「このっ……!」
 咄嗟に持っていた松明を投げつけると、獣は耳をつんざくような鋭い鳴き声を上げてばっと後ずさる。
「カイト、こいつ一体何モンだ?!」
 地面に落ちた松明を挟んで対峙する獣を睨みつけたまま、振り返らずにエスタスはそう尋ねた。一瞬でも気を抜いたら、獣はたちどころに炎を飛び越えて襲い掛かってくるだろう。そんな緊迫した空気が漂う中、カイトは興奮した口調で答える。
「こ、これは珍しい! 水妖ですよ、間違いありません! 相手に応じていかなる姿にも変化するという妖獣で、澄んだ水のあるところにしか生息していないんです。いやぁ、実物にお目にかかれるなんて、なんて幸運なんでしょう!」
「喜んでる場合か!」
 こんな状況でなければ拳骨の一発でもお見舞いしているところだが、今はそうも行かない。腰の剣を引き抜き、獣の出方を伺う。相手は一匹、こっちは二人。一見して彼らに分があるように思えるが、戦闘においてカイトはほとんど役に立たない。しかもここの通路は狭く、また天井が低いとあっては、長剣を使うエスタスと自前の爪と牙を武器にする獣とでは圧倒的にエスタスが不利だった。
「強いんだよな」
「ええ、強いですよ。しかも剣は通用しませんからね」
「やっぱりか」
 小さく舌打ちをして剣を鞘に戻す。剣が通用しないとなれば、他の手を考えるしかあるまい。一番有効なのは逃げる事だろうが、どう見てもあちらの方が足が速そうだった。
 さてどうするもんか、と思案に暮れるエスタスに、カイトが思い出したように叫ぶ。
「エスタス、火です! 松明を使って下さい!」
 その言葉になるほど、と呟いて、エスタスは床に落ちたまま燃え続ける松明に視線を向ける。その向こうに佇む獣は、ぴくりとも動かずにこちらを見つめていた。水に属するものらしく、やはり炎が弱点のようだ。
 これならいける、と慎重に身を屈め、松明へと手を伸ばした次の瞬間。
 一陣の風が、松明の炎をものの見事にかき消した。
「げっ」
 当然の事ながら辺りは一気に暗くなり、慌てふためく二人を尻目に、水妖はその体をざわり、と揺らめかせ、力強く床を蹴る。
「うわっ!」
「ひぃぃっ……!」
 薄闇の中、慌てて身をよじるエスタスのすぐ脇を、水の煌きが過ぎていった。そしてエスタスとカイトの間に着地した水妖は、今度はカイトを目標と定めたのか、まるで値踏みをするようにゆっくりとカイトを眺め回す。
「ぅわあああ」
「カイトッ!!」
 引きつった顔で叫ぶカイトに、エスタスは仕方なく剣を引き抜き、その勢いのまま獣の背に切りかかった。しかし手ごたえはなく、暗闇の中てらてらと光るその体の一部が、まるで剣を避けるかのようにへこんでいるのが辛うじて見て取れる。
「やっぱ効かないか」
「そう言ったでしょう?!」
 とはいえ、攻撃は効かなかったものの、カイトから気を逸らす事には成功したようだ。水妖はぐにゃり、と体を歪ませ、体の向きを入れ替える。まるで粘液生物のようなその動きにぞっとしながらも、エスタスは剣を構えた。
「くそ、何とかなんないのかよ、これっ!」
「えっとえっと、ああそうです! ちょっと待ってて下さいね」
 何か思いついたのか、カイトが不思議な言葉を紡ぎ出した。神聖語と呼ばれるそれは、神へと祈りを届ける《力ある言葉》。つまり、神聖術を発動させようとしているわけだ。
 しかし、独特なその響きを聞いた途端、エスタスは顔を思い切り歪めて叫んでいた。
「やめろカイト! お前が術を使うと、いつもロクでもな……」
 気が逸れたその瞬間を、目の前の水妖は見逃さなかった。その前足が三度地面を蹴り、その姿が消えたと思った時には、鋭い鉤爪が目の前に迫っている。
「しまっ……!」
 白刃に似た煌きが左肩に食い込んだ、その瞬間。

 目の前に、巨大な火柱が立ち上がった。

「なっ……」
 唐突に訪れた熱さに目を瞬かせているエスタスの前で、水妖は見る見るうちに半分ほどの体積まで縮んだかと思うと、鋭い鳴き声を上げながら一目散に走り去っていく。そして水妖を襲った炎はといえば、あれほどの火力であったにもかかわらず、あっという間に掻き消え、ただ空間に火の粉と熱気だけを残していった。
 水妖の姿が見えなくなり、舞い散っていた火の粉も消え失せて、ようやく辺りに静寂が戻ってくる。何が起こったのかさっぱり分からないエスタスに、カイトが駆け寄ってきた。
「エスタス! 大丈夫ですか?!」
「あ、ああ……。なんとかな」
 呆然と答えながら、鈍い痛みが走る左肩を押さえる。暗いのでよくは見えないが、大した傷ではない。
「すぐに手当てしますから、待ってて下さいね」
 そう言って、カイトは背負い袋の中から松明と火口箱を取り出し、灯りをつける。少々手間取ったが、すぐに辺りは松明の暖かな光に包まれた。それを壁に立てかけておいて、今度は応急手当の道具を取り出しているカイトに、エスタスはふと問いかける。
「さっきの火、お前が?」
「まさか。僕は大地に関する呪文しか使えませんよ。はい、ちょっとしゃがんで、傷見せて下さい」
「ああ。……しかし、それじゃあ……」
 手当てを受けながら、首を傾げるエスタス。そう言えば謎の助太刀は炎だけではなかった。水妖が現れる直前、何か声を聞かなかったか。
「なあ、カイ」
 問いかけようとしたエスタスの目の前で、突如としてひゅん、と風が踊った。
 言葉の途中で口をあんぐりと空けたまま、エスタスは目の前でくるくると回るつむじ風を見つめる。
「……なんなんだ?」
「わあ、なんですか、これ」
 手当てを終えたカイトも、物珍しそうに小さな風の渦へと視線を向けた。こんな洞窟の奥深くで不自然に舞うつむじ風。これはおかしい。いかにも怪しい。
 二人の注意を引いたと悟った(らしい)つむじ風は、ふい、と動き出す。先ほど水妖が現れた通路の奥へと向かって進むつむじ風に、二人は思わず顔を見合わせた。
「どういうことだ?」
「来いって言うんじゃないですか? やっぱり」
「……だよなあ」
 呆然と見つめてくる二人に、つむじ風はくいくいっと招くような動きをして、更に先へと進んでいった。その姿は闇の中へと溶け込んでいき、今にも見えなくなりそうだ。
「どうします?」
「……行ってみよう」
 敵ではないと判断するには早計だが、かといって無視するわけにもいかないだろう。
「よし、行くぞ」
 カイトが巻いてくれた包帯の具合を確かめて、ゆっくりと立ち上がるエスタス。腰の剣を確かめ、荷物を担ぎ直す。
「ゆっくりめにお願いしますよ」
 帳面と鉛筆を再び手にし、そんな注文をつけてくるカイトに肩をすくめて、エスタスは要望通りゆっくりと通路を進み始めた。

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