<<  >>
[4]


 懐かしい匂いがした。
 鼻を突く消毒薬の匂いと、どこか埃臭い薬草の匂い。
 聞こえてくるのは薬缶から立ち上る蒸気と、微かな衣擦れの音。足音もなく歩くのは、彼の悪い癖だ。
「―――気がついたか?」
 穏やかな声に、重い瞼を持ち上げる。飛び込んできたのは石造りの天井と、そこから吊るされた紫色の花束。数年前、見飽きるほどに眺めた光景だ。
(そうだ、屋根から落ちたんだ……)
 だからこんな場所に寝かされているのか、とようやく自分の置かれた状況を理解して、はたと思い出す。
「―――ねこ、は?」
 乾いた唇から紡がれた言葉は、自分でもびっくりするほどに掠れていた。そんな彼に、枕元へとやってきた養父はわざとらしく首を傾げる。
「なんのことだ?」
「そっか……」
 何も言ってこないところを見ると、最悪の事態だけは避けられたようだ。
 ほっと息を吐き、何気なく身体を起こそうとして、ようやく体のあちこちから伝わってくる鈍い痛みに顔をしかめる。特にひどいのは頭で、恐る恐る手をやればそこには包帯が巻かれていた。
「しばらくは大人しくしていることだな。……一時は本当に危なかったんだぞ」
 珍しく、咎めるような口調の養父に、渋々寝台に身を沈めるラウル。養父はこう見えて、医者としての腕も一流だ。その彼が「危なかった」というのだから、よほど深刻な状態に陥っていたのだろう。
「……俺、どのくらい寝てたんだ?」
「五日、といったところか」
 欠伸をかみ殺しながら答えるダリス。恐らく、その五日間ずっと付き添っていたのだろう、目の下には隈が浮かび、いつもはきちんと剃り落とされている髭が伸びっぱなしになっている。
「ずっとついてたのかよ?」
「悪いか?」
「……」
 あっさりと切り替えされて、ぐっと詰まる。しかし何か言ってやらなければ気が済まなくて、ぶっきらぼうに言い放った。
「ったく……年を考えろよな」
「なに、ここにいれば口やかましい年寄り共の相手をせずに済むからな。いや、実にいい口実になった」
 あっけらかんと言い返して、ダリスはにやり、と口の端を引き上げてみせる。
「それにしても、お前にしては随分とへまをやらかしたな?」
「うっせえ」
 ふい、とそっぽを向くラウル。そんな彼に、ダリスはふと真顔に戻って呟いた。
「殿下に感謝するんだな。あの方が知らせてくれなかったら、どうなっていたことか」
「殿下?」
 一瞬、何を言われているのか分からなかった。そんな彼の様子に、ダリスはおや、と眉を動かす。
「なんだ、気づいてなかったのか? プリムラ・ロージィ殿下、年は四つだったかな。王位継承権は確か二十二位とか……。あの日は墓参りにいらしてな」
 へぇ、と気のない相槌を打ちつつ、脳裏に浮かび上がった少女の泣き顔に思わず苦笑いを浮かべるラウル。
(あのチビがお姫様、ねえ……)
 ぐしゃぐしゃの頭といい、よれよれの服といい、とても帝国の皇女には見えなかったが、噂のプリムラ皇女だというなら納得が行く。
 時の皇帝ラルス八世は、正妃三人の他に十数人もの側室を囲っている。その中でも最も身分の低い、かつては場末の酒場で踊り子をしていた女が産んだ皇女。それがプリムラ・ロージィ。御年四歳になる末の皇女は一年前に母を亡くし、王宮の片隅で不遇の日々を送っているという。
「礼拝が終わるまで待っていただくように、と応接室にご案内したらしいんだが、いつの間にかいなくなってしまってな。神官総出で探していたら、彼女の方から神殿に飛び込んできて、お前が屋根から落ちたと知らせてくれたんだ。全く、肝を冷やしたぞ」
 そう言いながら、思い出したように懐を探るダリス。ほどなくして一枚の紙切れを取り出した彼は、くしゃくしゃのそれを丁寧に伸ばしてから、ほらと差し出した。
「忘れるところだった。殿下からお前にだ」
「俺に?」
 痛む腕を伸ばして紙切れを受け取る。四つ折にされたそれは、どうやら手紙のようだった。しかし封筒にも入っておらず、紙もよく見れば何かの帳面を破り取ったものらしい。
「何だってんだ……?」
 恐る恐る開いてみれば、そこにはたどたどしい筆跡でこう記されていた。
『ぱうらたすけくれた、ありがと。 ぷりむら』
 誤字脱字も甚だしいその手紙に、思わず笑いが込み上げてくる。
「何度か見舞いにいらしたんだが、お前がいつまで経っても目を覚まさないから、それを残していかれたんだ」
 自由の利かない身で、何度も見舞いに訪れたという皇女。たかが神殿の雑用係に何故そこまで、と訝る者も多かったが、ただ一人ダリスだけは訳知り顔で皇女を出迎えていた。そんな事実をラウルが知るのは、大分後になってからのことだ。
「ったく、人騒がせなお姫様だ」
 手紙を元通りに折りたたみ、ぐいと突き返すラウル。どこか照れくさそうな顔に気づかない振りをして、ダリスはそれを受け取った。
「今、薬湯を用意するからな」
 くるり、と踵を返し、作業台に向かうダリス。狭い部屋に、薬草をすり潰す音と薬缶から立ち上る蒸気の音だけが響く。
 鼻歌交じりに調合を続ける養父の背中をぼんやりと眺めていたラウルは、ふとあることを思い出して、ぼそっと呟いた。
「……馬鹿で悪かったな」
 唐突な言葉に、不思議そうな顔で振り返るダリス。
「なんのことだ?」
「……あんたじゃないのか?」
 眠りの中で聞いた声。もっともらしく、それでいて人を小馬鹿にしたようなあの響きには聞き覚えがあった。しかし養父はむっとした顔で、
「いくら私でも、土気色の顔でうんうん呻いている奴に向かって、追い討ちをかけるようなことは言わん」
 それじゃあ、あれは夢だったのか、と呟くラウルに薬湯を渡そうとして、ふと眉を顰めるダリス。
「―――何を聞いた?」
 つかつかと歩み寄り、そう真顔で尋ねて来る養父に驚きつつ、夢の内容を簡単に語る。光に満ちた場所を延々と歩いたこと。いい加減飽きて立ち止まったその時、どこからか聞こえてきた声―――
「『起きんか、馬鹿者』って言われて……そこで目が覚めたんだ」
「なるほど……」
 腕を組み、しばし考え込んでいたダリスだったが、ふと辺りを見回したかと思うと、机の上から紙とペンを掴み取った。
「? 何だよ?」
「ちょっと待て。……よし、出来た。読んでみろ」
 さらさらとペンを走らせ、インクも乾き切らぬうちにぐい、と差し出す。渋々それを受け取ったラウルは、綴られた文章を目にした途端に呻き声を上げた。
「げっ……神聖文字かよ」
 聖なる言葉とされる神聖語は、神官のみが使用する特別な言語だ。それは複雑な音韻で構成され、その文法も独特のものとなっている。
「もうあらかたは読めるだろう? この私が直々に教え込んだんだからな」
 神官以外の人間には馴染みのない神聖語を『覚えておいても損はなかろう』という理由でラウルに教え込んだダリスは、口の中でぶつぶつと呟きながら文章を「解読」する我が子をじっと見つめていた。
「えっと……そうか」
 ようやく納得のいく答えに辿り着き、ラウルはすう、と大きく息を吸い込むと、恐る恐る唇を動かす。

―――闇を統べる者よ、我に安寧をもたらしたまえ―――

 歌うように紡がれた聖句。固唾を呑んで見守るダリスの前で、ラウルはゆっくりと目を瞬かせる。
「なん、だ……?」
 急速に押し寄せる、心地良い波動。それは穏やかな眠気となって、ラウルの体を包み込む。
 冷たいような、それでいて暖かいような不思議な感覚に、全身の痛みがすぅ、と引いて行く。
 感じたのは、深い闇。それは命を眠らせ、明日へと導く力。
「……これっ……どう、……」
 驚きの混じった呟きは、最後まで紡がれることなく消えていった。安らかな寝息を立てる息子の横顔に、深い溜め息を漏らすダリス。
「選ばれた、か」
 印も結ばず、呪文も略式。それにも関わらず、あっさりと闇の力を引き寄せたラウル。しかもこれほどの効力を発揮するとは、さしものダリスも予想だにしなかった。
「お前、よほどユーク様に気に入られたようだな」
 くすくすと笑いながら、乱れた上掛けを直そうと手を伸ばす。その指先を掠めた、ほのかに暖かい金属の手触り。
 かつてダリスが誕生祝にと贈った聖印。他に思いつかず、せめてもお守り代わりにと持たせたものが、よもや実用を伴う日が来るとは―――。
「……ユーク様も、随分と粋な計らいをして下さる」
 しかし、それが波乱を呼ぶだろうこともまた、容易に想像がついた。
 それでもダリスは、さも楽しそうに笑ってみせる。
「お前はきっと、いい神官になるだろう」
(そう……きっと―――私をも凌ぐ存在に……)

<<  >>