第六章[6]
「あー、疲れた!」
 執務室に誰もいないのをいいことに、盛大に喚きながら椅子の背もたれにどっかりと体重を預ける。
 かなりの勢いがついていたのにも拘らず、椅子が僅かにきしむ程度で済んだのは、声の主が非常に小柄だからだ。
 肩口で切り揃えられた紫紺の髪。紫水晶を磨いたような瞳。特級魔術士にのみ許された紫の長衣は、明らかに丈が余っている。
 見た目だけで言うなら、年の頃は十代前半の利発そうな少女。重厚な家具に囲まれた執務室にはおよそ似つかわしくない姿だが、彼女はれっきとした『三賢人』の一人――『北の魔女』の異名を持つ凄腕の魔術士だ。
「朝から晩まで会議、会議! いい加減飽きるっての!」
 誰もいないのをいいことに、不満をぶちまける彼女の名は、アルメイア・ミラ=ロスマリヌス。歴代賢人の中でも一、二を争う実力の持ち主で、特に魔術理論と術式構築に関しては、かつて世界中を放浪し、各地で伝説を生み出した『鍍金の魔術士』を凌ぐとまで言われている。
 そんな彼女は散らかった机の上にどっかりと足を投げ出すと、その勢いで床になだれ落ちた『重要書類』には目もくれず、大きな溜息を吐いた。
「こんなのがあと三日も続くなんて拷問だわ。やっぱり、全部ユラに押し付けて逃げちゃえば良かったかしら」
 普段から会議三昧の三賢人だが、ここ数日のそれは、日常行われている会議とは異なるものだ。
  『賢人会議』と呼ばれるこの会議は五年に一度、五大陸にそれぞれ一つずつある『魔術士の塔』の賢人達が集結して行うもので、情報交換のほか、禁呪についての取り決め、また新しく開発された術式の承認などを行う重要な会議である。
 五つの塔を順番に回る形で毎回開催地が変わるのだが、巡り巡って今年は『北の塔』の番で、準備や何やらで年明けからずっとバタバタしっぱなしだった。
 まして、今回はアルと妹のユラが『賢人』となってから初めての『賢人会議』である。他塔の賢人への顔見せも兼ねているためすっぽかすわけにもいかず、仕方なく真面目に出席している訳だが、三日目ともなるとそろそろ限界だ。
「リファが私に変身して代わりに出てくれたらよかったのに、こういう時に限ってどっかいっちゃうなんて!」
 変身魔術に長けたお目付け役は、この事態を想定してか、会議が始まる前に適当な理由をつけて姿をくらましてしまい、未だに戻ってこない。
「あー、もう!! 魔法薬の研究も途中だし、書きかけの論文もあるし、ハルの昇進試験も考えなきゃいけないってのに、こんなくだらないことで貴重な時間を浪費させられるなんて!」
 会議で溜まった鬱憤を晴らすように怒鳴り散らすアルメイア。その駄々っ子のような姿を克明に映し出していた大きな鏡が、不意にきらりと光を帯びたかと思うと、縁飾りの宝石がちかちかと赤い光を放つ。
「呼び出し? ……誰よ、こんな時にもう!」
 苛つきながらも手短に合言葉を唱えると、ぶん、と低い音を立てて鏡が鈍い輝きを放ち、続いて年若い魔術士の姿が浮かび上がった。アルメイアの一番弟子――『不肖の弟子』ことハルだ。
『ししょー。エルドナの魔術士ギルドから緊急連絡っすよ。なんか、ししょーに至急連絡を取りたいって客が来たって』
 どうやら今日の『魔鏡』当番だったらしい弟子からの報告に、思わず眉根を寄せるアルメイア。軽薄な口調のせいで今一つ緊迫感に欠けるが、隣国の一支部から三賢人宛てに緊急連絡とは穏やかではない。
「エルドナから? ……相手は誰?」
『なんか、『竜の巣の番人』って名乗ったらしいっすけど、心当たりあります? なんつーか、怪しさ全開でしょ』
「竜の巣の……番人……?」
 そう口に出した瞬間、脳裏を過ったいくつもの幻影が重なり合って、ある人物の姿を紡ぎ上げる。
「ああ……、そういうこと」
 思わず呆れ顔になったアルメイアは、だらしなく上げていた足を降ろすと、澄ました顔を取り繕った。
「大丈夫、知り合いよ。すぐに繋げて」
『了解っすー』
 鏡からハルの姿が消え、代わりに全く別の部屋が映し出される。
 薄暗く、窓どころか調度品の一つもない部屋は、確かに隣国ローラの中央部に位置する町エルドナの魔術士ギルドだ。何度か訪れたことがあるから間違いない。
 そんな部屋に立ち尽くす人物は、着古した旅装束をまとい、目深に頭巾を被っていた。加えて、舞い踊る埃を吸わないようにしているのか、口元を手で覆っているため、顔を一切窺うことが出来ない。
 弟子の言葉を借りれば「怪しさ全開」の出で立ちだったが、アルメイアは気にせず話しかけた。
「どうしたのよ、有名人。またどっかで面倒事に首を突っ込んだみたいじゃない? 笑っちゃうったら」
『……好き好んで首を突っ込んだわけじゃない!』
 魔鏡の調子が悪いのか、雑音交じりで不明瞭な声だったが、その口調には聞き覚えがあったから、上機嫌で言葉を続ける。
「――で? 事の顛末すら報告してこなかったあんたが、今更この私をご指名だなんて、一体どんな風の吹き回し? ……っていうか、貸した手鏡はどうしたのよ!」
 うっ、と一瞬言葉を詰まらせ、そう言えば、と嘯く旅人。
『そんなもんがあったな。いやあ、すっかり忘れてた』
「……そんなことだろうと思った。まあいいわ、その件はあとでじっくり問い詰めるとして」
『問い詰めるなよ』
「問い詰めるわよ!! 言っとくけど、貴重品なのよ、あれ! 作るの大変だったんだからね!」
 ひとしきり文句を言って、ようやく気が済んだアルメイアは、こほんと咳払いをすると、改めて椅子にふんぞり返った。
「……で? 用件はなによ? 手短に頼むわよ。こちとら賢人会議の真っ最中で忙しいんだから」
 そうは言ったものの、アルメイアの表情は実に朗らかだった。退屈な会議漬けの日々を忘れさせてくれるようなネタが、わざわざ向こうから飛び込んできたのだから、無理もない。
『――魔族について、あと変身魔術に詳しい奴に心当たりはないか。ちょっと……厄介なことになってな』
 おやまあと目を見開き、そしてすぐに喉を鳴らして笑ってみせる。
「ちょっと、どころで済む話じゃないでしょうが。……まあいいわ。魔族と変身魔術についてね。知りたいことは一通り教えてあげるけど……とりあえず、それ。脱いだら?」
 真冬でもないのに、部屋の中でいつまでも頭巾を被ったままなのは見ていて暑苦しいし、何より不自然だ。
『――笑うなよ』
 怨念すら感じさせる声でそう念を押されて、ぱたぱたと手を振るアルメイア。
「笑わないから。ほら早く」
『絶対! 笑うなよ!』
 くどいくらいに念を押して、渋々といった様子で頭巾を後ろに落とす。
 途端に零れ落ちる、金色の滝。新緑の森を閉じ込めたような双眸は叡智の輝きを湛え、白磁の如く滑らかな肌にはうっすらと赤みがさしている。
 そうして、鏡の向こうの麗人は艶やかな唇を震わせ、玲瓏たる声を響かせた。
『つまり……こういうことだ』

 途端、執務室に響き渡る笑声に、苦虫を噛み潰したような顔で抗議の声を上げる『絶世の美女』。
『笑うなって言ったのに……!!』
 屈辱に震える様までもが美しく、それがかえって憐れみを増す。
「あんたってば、ホント最高だわ……!!」
 涙を流して笑い転げるアルメイア。その弾けるような笑声は、防音結界を突き破って部屋の外まで漏れ響いたという。