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【10】
〜ノーイの手記 復活暦676年・初春〜


 最初にそのことに気付いたのは、”ばあや”こと女官長ハンナだった。
 即位から親身になってルシエラに仕えてくれた老齢の女官長は、二人の逢瀬に自宅を提供したり、様々なお膳立てをしたりと、秘密の交際を影から支えた立役者だったから、気付くのも早かったのだろう。もちろん、同性ならではの勘や経験も物を言ったのであろうが。
 そんな彼女が珍しくも焦った様子で私の部屋を訪ねてきたのは、まだ春も浅い、三日月の夜のことだった。
「ノーイ様! またこんな時間まで夜更かしをなさって、体に良くありませんよ!」
「……すみません」
 開口一番のお小言に、思わず素直に謝ってしまったら、女官長は鼻息も荒くずかずかと部屋に乗り込んできて、荒れた部屋の中を「またこんなに散らかして!」とか「洗濯物はちゃんと出してくださいと申し上げましたでしょう!」などと、些かわざとらしく声を上げる。
 夜分なので声が響いてはいけないだろうと扉を閉め、まだ何やかやと文句をつけている女官長に向き直ると、途端にぴたりと口を閉ざした彼女はずずいとこちらに詰め寄ってきて、ちょいちょいと手招きをした。
「なにか?」
「屈んでくださいな。あなたは背が高すぎて、耳打ちが出来ません」
「はあ……」
 訳も分からず、言われた通りに腰を屈めると、女官長は待ってましたとばかりに口に手をあてがい、そして――。
「ルシエラ様は、身篭られております」
 その衝撃を、どう表現したらよいのだろうか。
 冷静に考えれば、惹かれあう男女が逢瀬を重ねているのだから当然の結果であり、いつかはこの日が来ることなど分かりきったことだ。
 それなのに、わざとその可能性から目を背けていた自分への怒りと呆れ、戸惑い、そして――これは、嫉妬なのか?
 なぜ嫉妬などする。私は彼女と恋仲になろうなどと考えたことはない。一度たりとてだ。
「ここ三月ほど、月の障りがないようでしたので心配していたのですが、今日の昼過ぎに気分が優れないと仰られて……。すぐに治まったようですが、経験から申しまして――」
 極めて冷静に事のあらましを説明してくれている女官長の声が、遠くに聞こえる。それほどに私は混乱し、焦燥していた。
「――というわけですの。いかがいたします?」
 その言葉ではっと我に返り、目の前の女官長を見る。
 彼女は、穏やかに微笑んでいた。慈愛と、そして決意の秘められた瞳。その力強さに気圧されて、大きく息を吐く。
「女性とは、なんとも強いものだ」
「勿論ですとも。母ですから」
 女官長は城勤めをしながら三人の息子を育て上げた、歴戦の勇士である。結婚どころか女性経験さえ皆無の私が敵うわけもない。
「他の者には……」
「ここしばらくは、体調が優れないと離宮に籠もっておられましたから、お世話をさせていただいているのは私一人です。まだ誰にも悟られておりません」
 王宮の外れに建てられた離宮は、気鬱に沈む彼女のためにと、三年ほど前にリルヴァール殿下が贈られたものだ。これを幸いと、私と女官長はあの手この手で離宮を外界から隔絶し、二人が気兼ねなく過ごせるように心を配った。
 フレイも心得たもので、それこそ風のように現れては風のように消えていく。いくらお膳立てをしているとはいえ、これほど易々と侵入されては、王宮の警備体制を考え直した方がいいのではないかと思うほどだった。
「……前に奴が来たのは、三月ほど前でしたな」
「ええ。計算が合いますわね」
「次はいつ来ると言っていましたか」
「しばらくは他大陸を回るので、早くて四月後、とか仰っておりましたか」
 奴がいる間はルシエラの気鬱も治まるが、いなくなった途端に沈み込むのは相変わらずで、それを思うといっそのこと離宮に閉じ込めてやろうかと思うこともあった。いや、実際、そうしようと画策したこともあったのだが、女官長に「あなた方が真っ向から対決したら離宮が壊れます!」と叱られ、ルシエラにも「あの人は風です。私の我侭でここに縛りつけてしまったら、彼はもう彼ではなくなってしまいます」と説得されて、渋々思いとどまった。
 しかし、あの時、強攻策に出ていれば、今すぐに飛んでいって奴に一発お見舞いできたのに、と思うと悔しくて仕方がない。
 そう憤慨する私に、女官長はくすくすと楽しそうな笑い声を上げた。
「ノーイ様はまるで、ルシエラ様のお父様のようですわね」
 その一言に、思わず固まってしまってから、そうかと溜息をつく。
「私は、彼女の保護者気取りだったというわけか」
 類稀なる才を持った、黎明の魔女。この身が滅するまで、彼女に仕えようと思っていた。その気持ちに偽りはない。
 それでも、心のどこかで、この娘を守らなければ、と思っていたのか。
 出会った頃の、ルシィと呼ばれていたあどけない少女を、まるで雛鳥を見守る親鳥の心境で。
 心の奥底にそんな思いがあったからこそ、今、こんなにも腹が立つのだ。
 ずっと守っていたものを、どこの馬の骨とも知らぬ奴に掻っ攫われる悔しさ。心からの信頼を独占されることへの妬み。なるほど、花嫁の父の心境とはまさにこういうものかと、痛烈に思い知らされる。
 いっそ――いっそ、彼女に恋をしていたならば、話はもっと単純明快だっただろうに。
「気取りも何も、保護者でいらっしゃるでしょう?」
 勿論、私もですけれど、と微笑む女官長の肩を掴んで、どうにか声を絞り出す。
「私は――私達は、何をしてやれるでしょう」
 そんな問いかけに、女官長は私の背中をぽんぽんと叩きながら、実に明快な答えをくれた。
「何も変わりませんよ。今まで通り、二人を見守り続けましょう」
 私達に出来ることは、それだけだ。
 しかし、それだけだからこそ、全力を尽くそう。
 ルシエラと、そして生まれてくる子供を、命に代えても守ってみせよう。
 フレイは――守ってやらないでもないが、その前に一発殴らせてもらおう。
 それくらいは、許されるだろう?

 
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