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【9】

〜マースヴァルト魔術士ギルド 復活暦705年・秋〜


 不意に灯りが消えて、ディオは一気に現実に引き戻された。
 見れば、机の上に置かれた燭台の蝋燭が燃え尽きている。そして、すっかり真っ暗になった部屋の窓の向こうには、一面の星空が広がっていた。
「もう、こんな時間か……」
 時間を忘れて本にのめり込むなど、随分と久しぶりだった。かといって、さほど読み進んだわけでもない。
 一言一句見落とさないように、綴られた文章を丹念に辿っていった。まるで、そこに隠されたものを見つけ出そうとしているように、じっくりと読み進めて、ようやく半分ほどだ。
(一旦、息抜きするか……)
 小さくため息をついて、ディオは手近にあった紙を栞代わりに挟んで頁を閉じた。ついでにぱちん、と指を鳴らして、部屋に張り巡らせた結界を解く。
「さて、と」
 今は一体、何時なのだろうか。この部屋には時計などなく、集中していた彼の耳に時計台の鐘の音は全く届いていなかった。しかし、まあ夕飯を取るべき時間はすでに過ぎているだろうことは確かだろう。
(腹、減ったなあ……)
 さっきまでは感じなかった空腹感が急に襲ってきて、ディオは情けない顔で腹を押さえる。考えてみれば、首都にたどり着いたのが昼前で、昼食も取らずにここに来てしまった為、半日も食事を取っていない。
(仕方ねえ、外に食いに行くか)
 ようやく核心に迫る部分に来たところだが、空腹にはかえられない。ギルドのあるこの首都マースヴァルトは田舎の町と違って、深夜を過ぎても営業している店がいくらでもある。いくつか馴染みの店も知っているから、食いっぱぐれることはないはずだ。
 そうと決まればさっさと動くのがディオだ。外套を羽織り部屋を出ようとした矢先、控えめに扉を叩く音がした。
「誰だ?」
 尋ねつつ扉を開けると、そこには手にお盆を持った老人の姿があった。誰であろう、この魔術士ギルドの長その人である。手にしたお盆の上には簡単な食事と、換えの蝋燭が乗っていた。
「随分と気が利くな」
 まるでディオの様子を見ていたかのような彼の登場ぶりに、思わず口調が皮肉めいたものになるが、老人は穏やかな瞳で
「そろそろ、蝋燭が切れる頃と思いましてな」
 と答え、部屋の応接卓にお盆を置いた。皿からたちこめるいい匂いに、ディオはとっとと外套を脱ぎ捨て、椅子についてその食事を胃袋に収め始める。
 その様子をしばし見つめていた老人だったが、ふと口を開いた。
「……すべてお読みになられましたかな」
「いや、まだ途中だ。ようやく半分くらいか」
 食べ物を飲み込んでそう答えたディオは、ふと老人を見上げる。
 マースヴァスト魔術士ギルド長は、御年六十四歳の老魔術士だ。すっかり真っ白になった髪と髭を長く伸ばし、その顔に刻まれた深い皺は、彼の過ごした過酷で長い人生を雄弁に物語っている。
「あんたは確か、ルシエラの時代からずっとこのギルドにいたはずだな」
 かつての帝国が倒れたのは五年前。苛烈を極めた帝政に民衆が革命を起こし、壮絶な戦いの末に帝国は崩壊した。魔女帝によって解体された魔術士ギルドも再建され、今では東大陸随一の規模を誇るまでになっている。そんなギルドの代表として数多の魔術士を束ねる立場にある老人は、ディオの問いかけに然り、と頷き、茶目っ気たっぷりの瞳でこう付け足した。
「当時はただの、うだつの上がらない平構成員でしたがな。いやはや、このワシが今やギルド長とは、世の中どう転ぶか分からんものです」
「じゃあ、あんたはもしかして、即位する前のルシエラを知ってるんじゃないか?」
 ふと思いついて尋ねただけだったのだが、老人は少し考えて、小さく頷いてみせた。
「彼女が宮廷に上がってすぐのことでしたかな。ギルドの所用で宮廷に出向いた折に廊下ですれ違いまして、言葉を交わしたことがありました。その程度ですな」
 それは美しく聡明な娘だったと、彼は懐かしそうに呟いた。それだけに、後の暴君ぶりには目を疑うものがあった、と。
(一体、何があったってんだ……?)
 強大な魔力により帝国を手中に納めた魔女帝ルシエラ。彼女が即位してから事実上の王として君臨するまでには、十数年という空白の時間が存在する。その間に、彼女は変わってしまった。
 一体、彼女の身に何が起きたというのか――。それを知る唯一の手がかりとなる手記は、今ディオの傍らにあって、読み手が食事を終えるのをじっと待っている。
 いつもなら食べながら読み進めているところだが、さすがにギルド長の前でそんな行儀の悪い真似は出来ない。つい手を伸ばしそうになるのをぐっと堪え、皿を次々と空にしていくディオ。お代わりは、と尋ねる老人に首を横に振って、ディオは締めくくりとばかりに果実酒の入った杯を一気に傾けた。
「ごちそうさん」
 すっかり空になった食事の盆をぐいと老人の方に押しやって、傍らの手記を取り上げる。栞の挟んであった頁に指を差し入れ、次の頁を捲ろうとして、ふと指が止まった。
「いかがされた?」
「……なんだ、こりゃ」
 破り取られた頁。優に十数頁はあるだろう、茶色く変色した切れ端に眉をひそめつつ先の頁に目をやれば、そこには何事もなかったかのように淡々と文章が綴られている。前後の脈絡がきちんとしていることから、ここまでの頁はノーイ本人が破ったのだろう。
「書き損じた……ってわけじゃないな」
 続く文章を一行読んだだけで、ディオはその理由がなんとなく分かってしまった。
(恋人達の甘〜い日々なんて、とてもじゃないけど書いてらんないよなあ)
 ルシエラがフレイと出会い、ディオを身ごもるまで約五年。その間二人は人目を忍んで逢瀬を重ね、愛を深めていったのだとノーイは記している。
 それまでの細やかな描写はどこへやら、ただその一行だけで五年間を著したノーイ。この一行に至るまで何頁も書いては破り、破っては書いてを繰り返していたのだろう彼の複雑な思いが、頁の切れ端からひしひしと伝わってくるようだ。
「……では、ごゆっくり」
 再び本に没頭し始めたディオにそう告げて、老人は盆を手に部屋を後にする。扉を見ようともせずに、片手を挙げて答えたディオは、結界を張り直すことすら忘れ、ただひたすらに頁を繰った。人の数だけ存在する『真実』を、一つでも多く手繰り寄せるために。

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