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【8】

〜ノーイの手記 復活暦670年・冬〜


 廊下に響き渡る悲鳴に、私は足を止めた。
 まもなく近くの扉が勢いよく開き、中から転げ出るように数人の侍女が廊下へと姿を現す。彼女らの顔は一様に引きつり、中には泣いているものまでいた。恐らくは城に上がって間もない者なのだろう。
 やがて侍女達は私の姿に気づき、おどおどと頭を下げてくる。そんな彼女らの出てきた扉を一瞥して、私はそっと、気づかれぬように息をついた。
「あ、あの、ノーイ様……」
 年長で顔なじみでもある侍女の言葉をしまいまで聞かずに、小さく頷いて扉へと向かう。そんな私を固唾を呑んで見守っている侍女達に手を振って下がらせると、私は少しだけ間を置いてから豪奢な細工の施された扉を叩いた。
「陛下」
 返ってこない答えに嘆息し、取っ手に手をかける。僅かな軋みとともに開いた扉の隙間からは、まだ日も高いというのに薄暗い部屋の中を覗くことが出来た。
 窓の垂れ幕を全て閉ざし、明かりすら灯さずに、彼女は部屋の片隅で椅子に腰掛け、こちらに背を向けている。その肩が小刻みに震えているのを見て、私は一歩部屋の中に足を踏み入れた。
 途端に、あちこちに置かれていた燭台の蝋燭へと火が灯る。ようやく僅かながら明るくなった部屋で、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
「ノーイ……?」
 かすれた声が、あまりにも痛々しい。後ろ手に扉を閉め、私はそっと口を開いた。
「侍女達が怯えていたぞ」
 小さく頷き、そしてうなだれる彼女。
「私……また……?」
 震える声で言ってくる彼女に、私はただ頷くことしか出来なかった。それを見て、彼女は首を振る。
「私……わたし……」
 言葉を詰まらせ、小さな手で顔を覆う彼女。その指の隙間から、かすかな嗚咽が漏れる。
 この姿を見て、誰が彼女をこの国の最高権力者であると思うだろうか。
 そこにいるのは、繊細な心を持った一人の娘に過ぎなかった。

 格式ばった宮廷での暮らしが、いつしか彼女の瞳を翳らせていたことに気づいたのは、彼女が即位してすぐのことだ。
 とはいえ、即位してからも、彼女の暮らしぶりはさほど変わっていなかった。ただ寝所が王宮の奥深くに移り、女帝としての執務が加わり、その分魔術士として研究に費やす時間が減った。
 人々に傅かれ、何一つ不自由のない生活をしているように見える彼女。
 しかし、彼女が失ったものが一つだけあった。それは、彼女を「女帝」ではなく「ルシエラ」として見てくれる人間の存在。かつての先輩や同僚からも傅かれる毎日。それまでは彼女を「田舎者の魔女」としか見ていなかった人間が、手の平を返したように媚を売ってくる。自分より遥かに年長の者が恭しく意見を求めてくる。そんな暮らしが彼女から笑みを奪っていった。そして――。
 彼女の様子がおかしいことに気づいたのは、一年ほど前のことだったろうか。最初は時折いやに落ち込んでいるな、と思っていただけだったが、時を重ねるごとに回数が増え、徐々に様子が変わっていった。
 最近では突如として泣き叫んだり、感情の高ぶりによって魔力を暴走させてしまうこともある彼女。典医はそれを、気鬱による一時的なものだと診断した。心を落ち着かせる薬や香が用意されたものの気休めにもならず、何の解決策も見出せぬまま時だけが過ぎていき、そして今日もまた同じ会話が繰り返される。
「ノーイ、私は……」
「疲れているのだろう。散歩でもして、気を紛らわすといい」
 今日はどうやら、侍女達に髪を結ってもらっている最中だったようだ。鏡台には大きなひびが走り、投げ出された櫛やらかんざしやらが床に散乱していた。足元に転がってきた香水の瓶を取り上げながら言う私に、彼女は小さく頷きを返す。
「はい……」
 虚ろな言葉を残し、椅子を立つ彼女。そんな彼女の顔を直視できず、私はそっと視線を落とす。
 小さな足音が目の前を通り過ぎていき、扉が閉まる音がして、部屋中の燭台からふっと光が消え失せる。
 主のいなくなった部屋は、冬の寒さ以上に冷え切っていた。

 魔女帝ルシエラ・エル=ルシリスが即位して、すでに三年。魔具に選ばれし真なるヴェストア帝国の王ということで、その即位の儀式は極めて盛大に行われたが、魔具に選ばれたといって、彼女には女帝として振舞うための知識もなければ手腕もない。ついこの間までただの魔女でしかなかったルシエラに、急に国の頂点に立って政を取り仕切れというのはあまりにも無理な話だ。
 結果、摂政として第一王位継承者だったリルヴァール殿下が立ち、ルシエラに代わって全てを取り仕切ることとなった。いうなれば、彼女は象徴としての王座についただけで、その実は何の権力もないただの魔女でしかなかったわけだ。
 魔術の研究の傍ら帝王学を学び、ゆくゆくは自らの手で政を動かすように、と周囲は張り切っているが、彼女にはそんな気はないらしく、以前とさして変わらぬつつましやかな日々を送っている。
 とはいえ、王としての責務を全く行っていないわけではない。象徴としての王とはいえ、謁見や宮中行事には出席が義務付けられている。全てが以前のままとはいかない。
 彼女は女帝として祭り上げられてからも、周囲の決定に口出しすることなく、ただ唯々諾々と従っていた。そんな彼女が御しやすいと感じたのか、次第に摂政であるリルヴァール殿下の過ぎた行いが目立つようになってきていたが、彼女はそれを咎めることはしなかった。
 そんな彼女が一つだけ我侭を通したのが、この私の存在だった。
 ただの宮廷魔術士だった私を、自らの側近としておくこと。当然のことながら周囲は猛反対し、私も勿論それをやめさせようと必死だった。しかし、
「ずっと側にいて下さると、おっしゃいました」
 彼女はそう言って頑として譲らず、結局はその意見が通った。そんな訳で、今の私はといえば、魔女帝ルシエラの補佐官という微妙な立場にいる。その役目といえば、せいぜいが秘書か使い走りのようなものだ。それでも、二十三才の年若い魔術士にしてみれば大出世である。大分やっかみの声も上がっていたが、そんなことを気にする私でもない。
 しかし、そんな唯一の側近である私にも、彼女は何も打ち明けてはくれなかった。せめて「辛い」と告げてくれた方が、まだ気が楽だった。そうでなければ、「あなたが私を村から連れ出さなければ、こんなことにはならなかったのに」となじってくれてもいい。
 そう、思えば私はこの時から、後悔の念に駆られていたのだ。私があの時、彼女を連れてこなければ。いや、宮廷魔術士に推さず、魔術士ギルドに委ねていたら。
 せめて、彼女を儀式に参加させるという宮廷魔術士長レナルドの提案を却下していれば……。
 「おお、ノーイではないか」
 廊下の向こうからかけられた声に顔を上げると、そこには誰であろう宮廷魔術士長レナルドの姿があった。立ち止まって会釈をする私に、レナルドはゆっくりと近寄ってくると、辺りに人のいないことを確認してそっと声を潜める。
「侍女から聞いたのだが、陛下がまた……」
「はい。今は落ち着いて、恐らく中庭辺りを散策していると思います」
 いつものことなので、尋ねる方も訪ねられる方も落ち着いたものだ。しかし、レナルドはすっかり真っ白になったひげに手をやりながら、眉根を寄せる。
「陛下の心労をどうにかして拭い去ってさし上げることは出来ぬのかのう」
 彼もまた、同じ後悔の念を抱えているのかもしれなかった。しかしその時の私は自分の気持ちだけで精一杯で、人を思いやる余裕など微塵もなかったから、レナルドの言葉にひどく冷酷な返事しか出来なかった。
「残念ながら、それは不可能かと。全ては陛下のお心次第、我らにできることなどありますまい」
 突き放した言い方に自嘲めいた笑みを浮かべ、レナルドはそうじゃな、と相槌を打つ。そして、ふと思い出したように続けてきた。
「そうじゃ。先ほど兵士から聞いたのだが、今日の晩餐会に、何でも旅の吟遊詩人が呼ばれているらしい」
 ルシエラの気鬱に心を痛めているのは、なにも我らだけではない。事実上はこの国を取り仕切っているリルヴァール殿下も彼女に細やかな気配りを見せ、贈り物をしたり催し物を開いたりと、何かと彼女を元気付けようとしている。それが単に象徴としての王の機嫌を取ろうとしているのか、それとも純粋に心配してのことかは分からなかったが、唯一分かっているのは、どんな心配りも彼女の憂い顔を癒す特効薬にはなり得なかったという事実だけだ。
 しかし、ただ部屋にこもっているよりは、吟遊詩人の歌声でも聞いた方がよほど心安らぐことだろう。そう思い、その吟遊詩人についてつらつらと語るレナルドに相槌を打つ。やがて、遠くから響く鐘の音にレナルドは話を打ち切り、では、と杖を握り直した。
「後ほど、晩餐会で会おう」
「失礼いたします」
 一礼して、老体とすれ違ったその刹那。
「……ワシらの罪は、重いな……」
 その囁きが、いつまでも耳の奥から離れなかった。


 晴れ渡った冬空を、鳥達が行き交う。
 穏やかな午後。冬枯れの中庭に、彼女はいた。
 春になれば色鮮やかな花々が咲き乱れるそこも、今はまるで光の中に色を失ったかのように、ただ眩しいばかり。
 そんな中、水の止まった噴水の縁に腰掛けて、パンくずを小鳥達に投げる彼女の姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
「ノーイ」
 思わず見とれてしまっていたのか、そんな呼び声にはっとして声の方を見る。そこには、その白い指に小鳥を止まらせたままこちらを見ているルシエラの顔があった。その瞳はどこか哀しげで、まるでこのまま冬の眩い日差しの中に融けていってしまいそうな儚さを感じる。
「先ほどは、失礼をいたしました」
 申し訳なさそうにそう言ってくる彼女の額には、あの儀式の日から変わることない月雫の額冠。赤く染まったままの月長石は、最高級の紅玉であるかのように艶やかな血の色を湛えてそこに輝いている。
 十八にもなって、今だに普段は質素な長衣に身を包み、化粧のけの字も見えないルシエラだが、その額冠が充分に彼女の美しさを引き立てていた。式典となれば侍従達が腕によりをかけて、この美貌に更なる磨きをかけることとなる。
 そんな美しい顔も、この時ばかりは、まるで輝きを失った月のように翳っていた。
「……自分の力を制御できないなんて、本当に情けなく思います。お叱りにいらしたのでしょう?」
「いや、そういうわけではない」
 立ち上がろうとした彼女をそう言って制し、私は苦笑を浮かべる。
「私に敬語を使わずともいいと、あれほど言っているのに」
「ノーイが私を「陛下」と呼ぶのをやめたら考えます」
 澄ました顔で言い返してくるルシエラに、この頑固者め、と口の中で呟く。
「それは出来ない相談だ」
「でしたら、私も出来ません」
 こんな会話を、もう三年も続けている。その度に負けるのは私の方だ。やれやれ、いつの間にこんな口が立つようになったのやら。そう思いつつ、私は彼女へと近づいていた。
「今日の晩餐会に、旅の吟遊詩人が呼ばれているらしい」
「まあ、吟遊詩人ですか。それは楽しみですね」
 それまでどこか青ざめていたルシエラの顔がぱぁ、と明るくなる。それを見て、やはり伝えにきてよかった、と胸を撫で下ろした。
「何でも西大陸から渡ってきたという森人の吟遊詩人で、その妙なる歌声と巧みな竪琴の腕前は、あちこちで人々を魅了しているという。名前はなんと言ったか……」
「フレイです」
 不意に、美声が耳を打った。
「ハーツォの森、リゼルの村のフレイと申します。どうぞお見知りおきを」
 振り返ったそこに、まるで燃え上がるような赤い髪をなびかせた男が立っていた。こちらを見て優雅に一礼したその手には、精緻な装飾の施された竪琴が大切そうに握り締められている。
「まあ……あなたが」
 のんびりと言う彼女の言葉を遮って、私は青年と彼女の間に立ちはだかった。
「ここは立ち入り禁止の庭だ。途中には警備の者もいたはずだが、どうやってここまで来た」
 両手で杖を構え、厳しい口調で問いただす。答え次第では実力行使も厭わない構えだったが、相手は極めて穏やかに言葉を返してきた。
「失礼、こちらに美しい人がいると風が教えてくれたものですから、つい好奇心を押さえきれずに、やってきてしまいました」
 風が、と男は言った。それが言葉どおりの意味ならば、この男はただの吟遊詩人ではなく、精霊と意思を交わせる精霊使いでもあるということになる。
「美しい人、ですか? そんな方がどちらにいらっしゃるのでしょう」
 一方、相変わらず自分の容姿について分かっていない彼女の的外れな言葉に、青年は呆れる風でもなく答えを返す。
「私の目の前に。いやなに、風の乙女の審美眼を疑うわけではありませんが、実際にこの目で確かめるまでは信じられませんでした。しかし、こんなに美しい方に巡り会えるとは、盗賊まがいのことをしてここまで来た甲斐があるというものです」
 しらっととんでもないことを言ってのける青年もまた、世間一般には「美男子」と称されるだろう整った風貌をしていた。細身で長身のその体は、ただ痩せているのではなく程よく引き締まっている。そんな体を濃紺の外套に包み、まるで燃えているかのような真紅の髪は腰ほどまで長く、風にたなびいていた。白皙の顔を彩るのは、まるで深い海を思わせる青い双眸。しかしそこに浮かんでいるのは、まるで子供のような、どこか楽しげな輝きだ。
「まあ……」
 ようやく事態を理解し、頬を染めるルシエラ。そして、フレイと名乗った吟遊詩人は手にした竪琴の弦をポン、ポンと爪弾きながら、私と彼女に屈託のない笑顔を向けてくる。
「ここには穏やかな時が流れている。私の存在が、それを乱したのでなければ嬉しいのですが」
 充分乱しておいて何を言う、と抗議しかけた私の袖をぎゅっと掴んで、ルシエラは首を横に振った。そして、静かに佇む青年へと瞳を向ける。
「あなたの歌声は、この美しいお庭に更なる彩りを添えてくれることでしょう。よろしければ一曲、お聞かせ願えませんか」
 承知、と一礼して、竪琴を構える吟遊詩人。美しい旋律を爪弾きはじめた彼は、ふと思い出したかのように手を止めた。
「お名前を聞かせてはいただけませんか、美しい人」
 歌を捧げる相手の名を知らぬというのは、あまりにも間が抜けていますから。そう促されて、躊躇いがちに彼女は自らの名を紡ぐ。
「私は……ルシエラ。ルシエラ・エル=ルシリス」
 それは私が名付けた、彼女に最も相応しいはずの名前。それなのに、その名は今や彼女にとって苦痛を伴う鎖でしかない。彼女がそれを口にするたびに、彼女の顔から笑顔が失われていく。そして、私の胸の奥には遣り場のない思いが蓄積していくのだ。
 しかし。その唇からもたらされた事実に、吟遊詩人は顔色ひとつ変えることはなかった。ただ小さく息をついて、独り言のように呟いてみせる。
「なるほど、噂は本当だったようだ」
「噂?」
「女帝ルシエラは絶大なる力を持っていると」
 わざとらしく言葉を区切って、きらりと瞳を輝かせる吟遊詩人。
「誰もが心奪われてしまう、彼女はきっと魅了の魔法を使えるのに違いない、とね」
「まあ」
 目を丸くして、次の瞬間ぷっと吹き出すルシエラ。心をいじくる類の魔法が禁呪だというのは幼い子供でも知っていることだったし、吟遊詩人の顔にはありありと、冗談です、と書かれていた。
「それが本当なら、あなたはもはや私の虜ということになりますね」
 くすくすと笑うルシエラに、吟遊詩人はからかうような口調で答える。
「おや、お気づきでない? あなたの姿を目にしたその瞬間から、私の心はあなたに囚われてしまったのですよ」
 軽口を、と怒鳴りかけて、私はぐっと言葉を飲み込んだ。
「まあ、お上手ですね」
 そう答えた彼女の横顔。そこに讃えられた笑みは、かつて「ルシィ」と呼ばれていた娘のもので――。
 透き通る笑顔、屈託のない笑い声に、改めて彼女がこれまでどれだけ苦しんでいたのかを思い知らされる。それと同時に、凍えきった彼女の心を暖かな笑みと軽やかな言葉で溶かしてみせた男に対し、感謝の気持ちと、そして何故か正反対の感情までが心の奥底からこみ上げてくる。
 そして彼女に笑顔を取り戻させた張本人はといえば、私の葛藤など知る由もなく、彼女の手をするりと取って、その滑らかな甲に唇を寄せた。
 「私の言葉を疑っておられるのですね? それでは、歌に思いを託すといたしましょう。歌は心の言葉。嘘偽りは申せません」
 弦の上をしなやかな指が滑る。途端に溢れ出る華やかな調べ。楽しげに竪琴を爪弾きながら、吟遊詩人は朗々と歌い出した。
 そう、彼は確かに素晴らしい歌い手だった。歌っているのはごくありふれた恋の歌。それなのにその深みのある声、そして流麗な竪琴の調べは、聞く者の心を鷲掴みにして離さない。
 あっという間に一曲を歌い終えて、男はうっとりと聞き惚れていた彼女へと問いかける。
「いかがです。私の言葉に、一片の偽りもなかったことを分かっていただけましたか」
 はにかんで、それでも小さく頷きを返す彼女の、その幸せそうな笑顔と言ったら――!
「どうぞ、もっと聞かせて下さい。あなたの歌を」
「あなたが望むのなら、この命果てるまで――覚悟して下さい、私は長生きですからね」
「まあ……!」
 陽気な歌と、他愛もない会話。ただそれだけのことが、彼女の笑みを深めていく。無邪気な笑い声が響き、冬枯れの庭はにわかに夏の輝きを取り戻したかのようだった。

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