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【7】

〜ノーイの手記 復活暦667年・初秋〜


 運命の日は無情にもやってきた。
 それは雲ひとつない青空の広がる、爽やかな初秋の午後。
 王城ヴィルノイエの中枢、玉座の間にて、厳かなる儀式は執り行われていた。

 賢王ベルトランの手に煌く小さな額冠。それは額冠というよりも額飾りといった方が相応しい、不思議な意匠の魔具だった。数百年の年月を越えて輝き続ける月長石の額飾りは、見る者を魅了する不思議な力を備えている。
 額に固定するための紐も輪も何もない。選ばれし者の額にのみ、この飾りはその身を宿すのだと伝えられている。事実、城に残る初代帝王の肖像画には、この魔具を額に貼り付けた王の姿が描かれている。
 次々に王位継承者達の額にあてがわれ、しかしそこに宿ることなく額から滑り落ちる月雫の額冠。選ばれなかった事実に少しの落胆を見せつつも、こんな茶番に付き合うのは金輪際ごめんだ、という表情をありありと浮かべ、元の位置に戻って行く王子達の姿を、私は末席から見つめていた。
 まったく、時間の無駄だ。いい加減、こんな時代錯誤な儀式など廃止してしまえばいいものを。
 誰もが心の中でそう呟いているのは明白だ。しかしそれを口に出さないのは、初代帝王の遺した宣誓を無駄と言い切る勇気がないからだろう。
 王位継承者がすべて儀式を終え、元の席に戻ったところで、ベルトラン陛下はおもむろに口を開いた。
「我が血族に、月雫の主なし。よって、ここに国随一の魔術士らを召喚する」
 まず、一人の老人が呼ばれた。魔術士ギルドの長を務める老齢の魔術士は、恭しく王の前に跪く。
 その額に、額冠があてられる。しかし、やはりそこに宿ることなく、するりと陛下の手に落ちる額冠。
 少々残念そうな顔でその場を退く老人に代わって、今度は宮廷魔術士の長レナルドが王の前に進み出た。
「おお、レナルドよ。お前が選ばれたのなら、どんなに喜ばしいことだろう」
「恐れながら、私は陛下より十も年上でございます。こんな老いぼれに希望を抱かんで下され」
 公私ともども深い付き合いの二人はそんな会話を交わし、そして王が額冠をあてる。
「……残念だ」
「私はむしろ安堵しておりますぞ」
 額冠を額に宿すことなく、レナルドは笑顔で踵を返す。そして。
「最後に、宮廷魔術士、ルシエラ・エル=ルシリス」
 静かに玉座の前に進み出るのは、艶やかな衣装に身を包んだ魔女。
 真紅の衣装は体の線を際立たせ、紅をひいた唇はまるで濡れているかのように艶やかで、思わず息を飲む観衆の様子がありありと分かる。かく言う私ですらも、
(これほどの、ものとは……)
 思わず手にしていた杖を取り落としそうになったほど、それはまるで夢を見ているような美しさだった。
 普段は研究用の地味でゆったりとした長衣に身を包み、化粧などしようともしない彼女。勿論それでもなお、彼女は美しかった。
 それが、今はまるで別人であるかのように、どこまでも艶やかで、まるで大輪の薔薇の如く、見るもの全てを魅了していた。
 一体どうやったらこんな変身を遂げるのか。まるで、私が言うのもばかばかしいが、まるで魔法のようだ。
「暁の魔女よ、ここへ」
 王の声に小さく頷いて、ルシエラは玉座の前に跪く。紫の髪が揺れて、その白皙の顔を一瞬隠した。
 その小さな額に、王は額冠をそっとあてがう。

 その瞬間。

 眩い紫の閃光が、広間を覆いつくした。

 あまりの眩しさに目を開けていられない。何事かと考えるよりも、まずこの目を灼く光から逃れたくて、必死に両目を覆う。
 そんな私の耳に、なぜかルシエラの小さな叫びが響いてきた。
「……そんな……!!」
「ルシエラ!?」
 眩しさも忘れ、思わず目を開いた私の眼に飛び込んできたもの。

 それは、私の知らない人間だった。
 嫣然と微笑む一人の魔女。自信に満ちた表情、そして威厳を感じさせるその雰囲気に、ただただ圧倒される。
 その額に宿りしは、真紅に染まった月雫の額冠。それはまるで血の色であるかのように、私には見えた。
「ルシエラ……?」
 次の瞬間、ふっとその瞳が揺らぐ。そして、まるで仮面を脱いだかのように、その表情が変化した。
「私、は……」
 そう呟いたのは、まさしくいつもの、私の知る彼女だった。かつてルシィと呼ばれていた、あの娘の顔だった。
 気のせい、だったのか。
 あの、まるで気高い、生まれながらの女帝であるかのような表情は、錯覚であったのか、と自分に問う。
 いや、違う。
 つい先ほどそこにいたのは、間違いなく別人だった。
 このことに気づいている者は、他にいないのか。そう思って周りを見回すが、周囲の人間達はただ驚愕と喜びの声を上げるだけで、あの変化に気づいた人間はいないようだった。
 そして、その頃になってようやく、陛下が口を開いた。
「おお……そうか。お主が……」
 驚きに身体を震わせながら、目の前に佇む新たな王へと手を差し伸べる。そして、呆然とする彼女の手を半ば強引に取り、集まる者達の前に、高らかに宣言した。
「今ここに、新たなる王の誕生を宣言する! ヴェストア帝国は、今この瞬間よりそなたのものだ……魔女帝、ルシエラ・エル=ルシリスよ!」
 割れるような歓声。広間に集った総勢百数十人が、一斉に新王の誕生に沸き返る。
 居並ぶ王位継承者達はといえば、まるで夢でも見ているかのような瞳で、ただ目の前の魔女を見つめていたが、歓声に促されるままに手を叩き出した。どの口からも不平不満は出てこない。それほどまでに、先ほどの彼女は人々の心に焼きついていた。
 魔具に選ばれし者。まさに、玉座に相応しい人物であると、その時誰もが確信していた。
 選ばれた当のルシエラといえば、突然のことに言葉を失い、青ざめた顔で人々の歓声を浴びていたが、不意にその身体がぐらりと傾ぐ。
 まるで時間の流れが遅くなったかのように、彼女の華奢な体が床に倒れて行く様子が目に映る。
「ルシエラ!?」
 狼狽するベルトラン陛下。一瞬遅れて、周囲の人間達が一斉に彼女に走り寄る。その中に、私もいた。
「おいノーイ!」
 同僚の制止の声も聞かず、私は飛び出していた。猛然と人を掻き分け、息を切らして彼女の元にたどり着く。これまで生きてきた中で、こんなに体力を使ったのは初めてかもしれない。
「ルシエラ!!」
 後から聞いたところによると、この時の私は、まるで別人かと思うほどに取り乱していたらしい。倒れた彼女の肩を掴んで揺すりながら、私は大声で叫んでいた。
「目を開けるのだ! ルシエラ!! ルシィ!」
 その瞬間、赤い瞳が大きく開いた。そして、なぜかほっとしたような顔で私を見上げてくる。
「ノーイ、様……?」
「そうだ」
 答えながら、彼女が身を起こすのを手伝う。大理石の床に半身を起こして、ルシエラは集った人々に怯えるような表情を浮かべ、私の腕をぎゅっと掴んできた。
 そんな彼女に、すぐ横で心配そうに見守っていたベルトラン陛下が優しく声をかける。
「突然のことで驚いたのだろう。すぐに医者を呼ぶ。しばし、休むといい」
「陛下……」
「違うぞ。今は、そなたがそう呼ばれる身じゃ」
 その言葉に、再びルシエラの顔から一気に血の気が引いて行く。
「ノーイ様……」
 困惑した瞳で見上げてくる彼女の側に膝をつき、私は務めて優しく聞こえるように囁いた。
「お前はこの国の女王だ。私をそう呼んではいけない。むしろ私がお前をそう呼ぶべきなのだが、今だけはこのまま言わせて欲しい」
 そうして、私はずっと心の中にしまいこんでいた言葉を、ゆっくりと紡いだ。彼女にだけ聞こえるように小さく。彼女にだけ届くように古の言葉で。
「ノーイ・アルト・リーク=ウィルシディウスの名において、ここに誓う。私は、お前の側にいる。我が全てをお前に捧げよう。だから何も恐れることはない。 黎明の空と暁の星の名を冠した魔女(ルシエラ・エル=ルリシス)よ」
 真紅の瞳が見開かれる。そして、ゆっくりと、和らいでいった。
「ずっと側に、いて下さいますか」
「ああ。約束しよう」
 心のどこかで、ずっとこの瞬間を待ちわびていた。
 出会った時から、今日この日まで、ずっと。
「それなら、何も心配はいりませんね」
 そう言ってかすかに微笑んでみせる彼女の額に輝く月雫の額冠。今もなお真紅に染まるその月長石の輝きに、なぜか心が騒ぐ。
 そう。先ほど見た、あの別人のような雰囲気は何だったのか。そして、あの時の叫び声は一体……。
 しかし、私はすぐにそのことを忘れてしまっていた。その時の私は彼女に仕えることの出来る喜びに浮かれ、他のことになど目が行かなくなっていたのだと思う。
 
 運命の歯車は終末に向けて回り続け、その動きを止めることは最早誰にも出来なかった。

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