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【6】

〜ノーイの手記 復活暦667年・初秋〜


「月雫の儀式?」
 その単語に私は眉をひそめ、隣にいたルシエラは小首を傾げる。
「……もう、そんな話が上がっているのですか?」
 思わず声を潜めたのには訳がある。
 月雫の儀式。それは、ヴェストア帝国の王位継承者を選ぶ儀式の呼び名だった。
 かつて、その儀式は帝王の座を巡る争いに決着をつけるべく編み出されたものだというが、現在では形だけの儀礼に成り下がっている。
 その儀式の話が上がるということは、帝位交代が近づいている証だ。
「ああ、ベルトラン陛下ももう高齢だ、そろそろ次の後継者を決定する時期だと、内々に話を受けた」
 そう話すのは王宮魔術士の長、レナルド。そして、本来ならばその話を聞くのは、私やルシエラのような平研究員ではなく、長をとりまく幹部連中のはずなのだが。
 なぜか、長に呼ばれたのは私達だった。いや、正確に言うなら、呼ばれたのはルシエラの方だけなのだろう。私はおまけでしかない。そう、確信していた。
「試練を受けるのは、リルヴァール殿下とミラベル殿下をはじめとする王位継承権を持つ方々だ」
 挙げられた名は予想通りのものだった。ベルトラン陛下と第一王妃の間に生まれ、すでに四十を過ぎているリルヴァール王子。そして第二王妃との間に生まれ、まだ二十代のミラベル王女。順当に行けば、帝位を継ぐのはリルヴァール王子に間違いない。人柄もよく、また外交手腕に長けたリルヴァール王子は、すでに政務の一部を高齢の陛下の代わりにこなしている。
 しかし、この儀式においては、王位継承権を持つものすべてがその試練を受けなければならない決まりとなっている。そして、それだけではない。
「魔術士ギルドの長、そして我ら宮廷魔術士から私と、そしてルシエラ。お主が試練を受けることとなる」
 レナルドの口から告げられたその言葉に、ルシエラは目を見開いた。
「わたしが、ですか?」
 予期せぬ事態に慌てる彼女を横目で見ながら、私はといえば、その言葉に静かに頷いていた。
「……なるほど」
 かつて。ヴェストア帝国を建国した王は、強大なる魔術を駆使したという。しかし、魔術士の資質は血の繋がりによって伝えられるものではなく、王の子供には一人として魔術士が生まれなかった。
 しかし王は、この国を統べる者には魔術の才が不可欠だと主張した。そして、居並ぶ後継者達を前に、とある魔具を使った儀式を行い、後継者を決定することを言い渡したのだ。
 その魔具は、初代の王が他国の王から譲り受けた代物で、強大なる魔力を持つものにのみ、秘めたる力を供与するという。事実、初代の王はその魔具を自在に操ることが出来たとされている。
 しかし、その代において魔具に選ばれる者はなかった。後継者だけにとどまらず、国中の魔術士達も集められて儀式は行われたが、誰一人として魔具に認められることはなかったのだ。
 仕方なしに初代の王は第一王子に王座を譲ったが、一つの宣誓を残した。
 それは、魔具に認められし者こそ、このヴェストア帝国の真なる王として玉座に君臨すべしという宣誓。
 魔具を操れた者は、たとえ王族に血の繋がりを持たぬ者であったとしても、王に据える。それを初代帝王の名の下に永劫の宣誓とし、王はこの世を去った。
 以降、強大な魔力を秘める者が出現した折に、度々儀式は行われたが、誰一人として魔具に選ばれる者は無かった。次第に儀式は形骸化し、王位継承の際の儀礼の一つと成り果てたのだ。
 現王ベルトランから三代遡る帝王は優れた魔術士であったが、その彼ですらこの魔具を操ることは出来なかった。初代の王がどれほどの魔術士であったのかを改めて知らされると同時に、すでにただのしきたりと化したこの「月雫の儀式」に、ルシエラを参加させるという決定に、私は驚愕した。
 近年では、儀式には王位継承者と魔術士ギルドの長、そして宮廷魔術士の長が参加することが定例となっていた。そして誰一人として魔具には選ばれず、事前協議で選考されていた者が次代の王として選ばれる。それからは、退位に際しての細々とした儀式から始まって、即位の儀式だお祝いだと、国中を上げての大騒ぎとなる。
 その慣習をあえて破り、儀式にルシエラを参加させるということ。恐らく言い出したのはこの長その人であろう。その真意は……
「長。ルシエラが、選ばれると?」
「……もしかしたら、ということもある」
「レナルド様? ノーイ様? その、儀式とは一体……」
 一人、自分の置かれた状況を理解していない彼女は、不安げな顔で私達を見つめている。
「ああ、お主は知ぬんのだな。それは……」
 レナルドが手短に儀式の説明をする。それを聞いた彼女の顔が、次第に硬く強張っていったのを、私は黙って見つめていた。
 レナルドがそう考えるのも無理はない。彼女の力は、恐らくこの国にいる、いや、この大陸にいる魔術士の誰よりも強大だ。そして、その力を制御する術も身に着けている。
 そんな彼女なら、魔具に選ばれるやもしれない。いや、彼女ほどの者を選ばずして、誰を選ぶというのか。
「……その魔具は額飾りの形をしていての。中央にはめ込まれた月長石からとって、月雫の額冠と呼ばれておる。それで、この儀式を月雫の儀式と呼ぶのじゃよ」
 まるで孫娘に昔話を聞かせているかのように、好々爺の表情を浮かべてレナルドはルシエラに話しかけている。その様子を見て、レナルドも冗談半分で彼女を推したのかもしれない、と思い直した。
 そうだ、いかにルシエラが稀代の魔女といえど、今はまだ、ようやく一人前になった程度でしかない。確かに魔力はけた外れに大きいが、それを完全に操るにはまだまだ修練を積む必要がある。
 しかし。
 もしも、彼女が魔具に選ばれ、女帝として玉座に昇ることになったら。
 そんなことになったら……。
(いや、何を考えている。そんなことは万が一にも……)
「分かりました。その儀式に参加すればよいのですね」
 全ての説明を聞き終えて、ルシエラはいつもの穏やかな表情で頷いてみせた。
「私が選ばれることなどありえないと思いますが、それがお役目なら、喜んでお引き受けします」
「おお、頼んだぞ、ルシエラよ。儀式用の衣装を誂えなければならん、お主によく似合うものを宮廷出入りの仕立て屋に頼むことにしような。折角の晴れの舞台だ、お主の美しい姿を、出来る限り多くの人間の目に焼きつけてやろうぞ」
 茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる長に、ルシエラがぱっと頬を赤らめる。
「そんな、私は……」
「何を謙遜する。お主ほどの美貌の持ち主はそうはおらぬよ。なあノーイよ」
「は? はぁ……」
 唐突に話を振られて、そんな曖昧な言葉しか出てこなかった。それを聞いたルシエラが、ほっとしたような、しかし少しだけ傷付いたような顔をしたように見えて、慌てて言葉を付け足す。
「人並み以上の容貌であるとは思いますが」
 私なりに精一杯褒めたつもりだったのだが、それを聞いた長はとたんにしかめっ面になった。
「ノーイよ、それではまるで誉めておらんぞ」
 おかしい。人並み以下というよりは余程マシだと思うのだが。
 いや。
 人並み以上などという生易しい表現では足りないほど彼女が美しいということを、私は勿論知っている。
 白く細い手足。華奢な体つき。まるで宝玉の如く煌く双眸に、艶やかな紫の髪。
 そしてその、常に穏やかな笑顔を浮かべた顔。すっと通った鼻筋に、形のいい顎の線。ふっくらとした頬や小さな唇は、思わず触れてみたくなるほどだ。
 しかし。
 そんなことをこの私が口にするというのは、似合わないにも程がある。
 まして、彼女を連れてきた時、「本当は妻にするつもりなのだ」とか「実はもうデキている」「そうか、年下が好みとは知らなかった」などと散々囁かれている。それが尚のこと、彼女を一人の女性として見ることを避けさせていたのかもしれない。
「お前はもう少し、女性への口の利き方を学ぶ必要があるのう」
 少し咎めるような口ぶりの長に、私はひょい、と肩をすくめて答えた。
「気をつけます」
 その答えがまたまた気に食わなかったのか、ふん、と鼻を鳴らした長は、再びルシエラに向き直る。
「さ、こんな朴念仁は放っておいて、お茶でも飲みに参ろうか」
「はい、レナルド様」
 私一人をその場に残して、さっさと部屋を出て行ってしまう二人。
 レナルドの背中を追うように去っていったルシエラの横顔が、どこか怒っていたように見えたのは、気のせいか。
(女心というものは、到底分からないものだな)
 誉められても誉められなくても機嫌を悪くするなどと、まさに理解しがたい。
 どうすれば良かったのだろう。歯が浮くような美辞麗句を並べれば良かったのか。それとも……。
「馬鹿正直に言えばよかったのか。とてもきれいだと」
 そんな言葉を吐けるほど、素直な人間だったなら。
 こんな思いを抱えずに済んだのだろうに。

 私の思い、それは。
 少しの嫉妬と、淡い憧憬と、穏やかな好感と、多大なる感謝と、小さな自責の念と……。
 しかし。
 妬むには、私は自分というものを弁えていたし、彼女は最初から、私のてなど手が届かない高みに達していた。
 恋をするには、私はひねくれており、彼女はあまりにも無垢な存在だった。
 なくてはならない片腕となった彼女には大いに感謝しているが、その反面、こんな気忙しい場所に連れて来て、果たしてよかったのかという、自責の気持ちがあることは否めない。
 そして最後に。
 この、胸の奥に湛えられた、奇妙な感情はなんだろう。
 例えて言うなら愛情に極めて似た形の、しかし全く異なる不可思議な気持ち。
 それは、恐らく私が彼女に望むもの。

 その思いが何なのか、その時の私はどうしても分からなかった。
 しかし、のちに私は気づく。

 私が彼女に望んだ関係は、恋愛関係でも、師弟関係でも、はたまた職場の同僚でもなくて。

 主従関係。
 敬愛する、偉大なる主君のために、全てを投げ出す覚悟を持った、忠実なる僕。
 彼女を見守り、時には諌め、力となり、そして彼女のために一生を捧げたい。
 まるで、女王に仕える臣下のように。

 そう。年下の、あどけない彼女に対して。
 私の抱いていた思いは、忠誠の心。
 馬鹿げてる。そう、なぜ年端も行かぬ娘に忠誠を誓おうとするのか。
 そう分かっているのに、思いは彼女へと向かう。
 どうか、高みへと進めと。そして、いつか我が忠誠を受けとめてほしい、と。
 だから、私はルシエラの儀式への参加に異を唱えることをしなかったのだろう。
 あの時、不相応すぎると反対していれば。おふざけにも程があると窘めておけば。
 後々、狂おしいまでの後悔に苛まれることはなかったのだ。

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