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【5】

〜ノーイの手記 復活暦667年・初秋〜


 あっという間に、半年の歳月が流れた。
 一人前の魔術士として杖を授けられ、私の推挙で宮廷魔術士として日々を過ごしていた彼女は、私の助手として欠かせない存在となっていた。
 その卓越した魔術の才もさることながら、穏やかな微笑みは殺風景な研究室をたちまち明るい雰囲気に変え、柔らかな声は研究に行き詰る私や他の研究員の心を解きほぐした。
「ルシィが来てくれて、本当に助かるよ」
 今日も、雑務の合間を縫って午後の茶を淹れていた彼女に、そんな声がかかる。この細やかな気遣いもまた、彼女が好かれる理由だったのだろう。なにしろここには寝食を忘れて研究に没頭する輩が大勢いる。そんな中で彼女が用意する茶や食事、また眠ってしまった者にそっとかけられる毛布が、どれだけありがたいことか。
「先輩。もうその名前で呼んじゃ駄目だって言われてるでしょ」
 古株の研究員が何気なく投げかけた言葉を、若い研究員の一人がたしなめる。
「おお、そうだったな。ルシエラ。まったく、いい名をもらったな」
 言われて、彼女は嬉しそうに頷きを返す。
「はい」

 彼女には、「ルシィ」という極めて短い名しかなかった。名字がないのは田舎では珍しいことではないし、呼びやすい短めの名前をつけるのはよくあることだ。
 しかし、宮廷魔術士たるものがそんな名前だけでは些か不釣合いだろうと、魔術士の杖を与えられた彼女には新たな名が付けられることになった。
 ところがこれがなかなかに難航した。
 この国では、魔術士は大抵二つないし三つの名を持つ。「本名」「通り名」「魔術士名」の三つがそれだ。
 本名はそのまま、通り名は、仕事をする際に自らを現す簡単な名前。そして一番重要なのは、「魔術士名」だ。これは魔術に使われる「古代ルーン語」を用いて命名されるもので、公式の場でしか使われない。しかもやたら長い場合が多く、自分のものはともかく、他人の魔術士名など、恐らくみんな覚えていない。
 はてさて、ルシィの魔術士名をつけるにあたり、なぜか宮廷魔術士達がこぞって、ああでもないこうでもないと色々な単語を引っ張り出し、何度も話し合いが行われた。みんな彼女を気に入っていたから、いい名前をつけたかったのだと言うが、普段はしかめっ面で文献や実験器具と睨めっこをしている人間達が、まるで生まれてくる子供の名前に頭を悩ませる親であるかのように、しかもいたく真面目な顔で討論を繰り返しているのだ。はたから見ればかなり滑稽な様子だった。
 当の本人や私などは当初、冷めた目でそれを見ていたのだが、結局は意見がまとまらず、なぜか私に最終決定権が委ねられた。
「お前が連れてきたのだから、お前が名づけるべきだ」
 などとしたり顔で言って来る先輩研究員に、それなら今まであなた達のしていた話し合いは何だったんだ、と突っかかろうかとも思ったが、当のルシィが期待に満ちた瞳でこちらを見ていたので、しかたなく、机の上に書き散らかされた数々の単語の中から拾い集め、そして組み立ててやった。
「ルシエラ・エル=ルシリス」
 本人の名前からも音をとった名前。黎明の空と暁の星を意味する古代の言葉。
「もったいない名前です」
 本人はそう恐縮していたが、周りはその名前に賛同をしてくれた。
「まさにぴったりじゃないか」
「響きもいいしな。良かったな、ルシィ。じゃなかった、ルシエラ」
「ルシエラ、なるほど、明け行く空とはなかなか言いえて妙だな、ノーイ」
 寄ってたかって新しい名を呼ぶ彼らに、なんだかムッとしてしまったのは何故だろう。名付け親よりも先にその名を紡ぐなんて、などというくだらない感情が一瞬、脳裏を掠めてしまったからか。
 戸惑う彼女は、そっとこちらを見つめてくる。その宝石のように輝く赤い瞳に見つめられると、なぜか心が騒いだ。
「ノーイ様……」
「気に入らないか?」
 わざとそう聞いてやると、彼女は首を横に振った。
「ならば、それが今日からお前の名だ。ルシエラ・エル=ルシリス」
 そう呼んでやると、彼女の顔が、まるで光を帯びているかのように輝いた。
「大切にいたします」
 それはもう、宝物を胸に抱えた子供のように、零れんばかりの笑顔で見上げてくる彼女。そんなに嬉しいものなのか、いまいち分からなかったが、彼女が喜んでいるならそれでいい、と思った。

「…ーイ様? ノーイ様」
 ふと、そんな呼び声に、私は机から顔を上げた。
 すぐ横に、大量の書物を抱えたルシエラの姿があった。そういえば、地下の資料室からいくつかの文献を探して来いと頼んでいたのだったとすぐに思い出して、慌てて机の上を空ける。
「失礼しますね」
 山積にされる書物。この細腕でよく運んできたものだと思ったが、儚げに見える彼女が意外にたくましいことを、この半年で充分思い知らされた。
 唐突に連れてこられた田舎の少女。それが、いきなり宮廷魔術士に抜擢されたのだ、やっかみの声も最初はかなり上がっていた。私の見えないところでは陰湿な嫌がらせも受けていたようだったが、彼女はそれらをものともせず、笑顔と、そして実力を知らしめることで乗り切ってきた。
 あとから分かったことだが、彼女は生まれ故郷の村でも、よくいじめや嫌がらせにあっていたらしい。それに屈せず、かといって反撃したりもせず、ただ穏やかにそれを受け流していたのだという。
 今では、彼女をやっかむ声はほとんど聞こえてこない。むしろ、彼女に好意を寄せるものの方が多くなって、それが彼女と、そして何故か私の悩みの種だった。
 それは、私が彼女に対して恋慕の情を持っていたからというわけでは、ない。
 いや、勿論好ましく思っていることは事実だ。しかしそれは、どうにも異性としてというよりも、保護者として、つまりは父親として愛情を抱いているのに近い、と、ある研究員はおせっかいにも分析してくれた。
 なるほど、私は心配なのだ。彼女に妙な虫がつかないかと。そして、それが彼女をいつか不幸にするのではないかと。
 しかしルシエラは、年頃の娘でありながら、そんな恋愛沙汰にはあまり興味がないようで、もっぱら誘いを断り続け、暇さえあれば魔術の研鑽と研究に時間を費やしていた。
 その溢れんばかりの魔力は、宮廷魔術士を束ねている長、レナルドさえも凌駕するのではないかと噂されていた。あまつさえ、次代の長は彼女だなどいう噂まで囁かれるようになり、彼女も、そして長も苦笑を禁じなかったほどだ。
「やれやれ、おいぼれはとっとと引退しろという勧告なのかね?」
「レナルド様、そのような……」
「なに、確かにルシエラは膨大な魔力を備えた、優れた魔女だ。それは私も認めよう。しかし、この私の後に据えるにはまだまだ若すぎる。それに本人も、そのようなことを望んでなどいないだろう。違うかな?」
 そう。彼女は地位など望んでいなかった。いや、興味がなかったといった方が正しい。
「私は、ここでこうやって穏やかな日々を過ごせることだけで、充分幸せです。これ以上のことなど、望みません」
 いつも、彼女はそう言っていた。そして、その言葉は偽りなどではなかった。
 彼女はずっと、ただそんな日々を過ごしたかっただけなのだ。そして、その望みは叶えられるはずだったのだ。
 あの、忌まわしき儀式の日さえやってこなければ。

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