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Lieder ohne Worte 《Glockenklang》

intermezzo
 
36 etude」 07:「優しい嘘」


 隙間風に身を震わせながら、暖炉の火に両手を翳す。
 室内だというのに、吐く息ははっきりと白い。締め切った雨戸の向こうには見事な銀世界。低く垂れこめた雲から落ちてくる雪は、ここ数日間ずっと降り続いている。
 ここ北大陸の冬は長く、厳しい。雪に閉ざされた村は静寂に包まれ、まるで村全体が眠りについているようだ。
 狭い小屋に響くのは、薬缶から立ち昇る湯気の音。暖炉にかけられたそれを慎重に降ろし、沸いた湯で薬湯をこしらえながら、青年は背後の寝台を振り返った。
 粗末な寝台に眠るのは、一人の老婆。すっかり白くなった髪を丁寧にまとめ、深いしわの刻まれた頬は抜けるように白い。
 出来上がった薬湯をそっと枕元に置き、煙の途切れた香炉を取り上げる。すっかり燃え尽きてしまった練り香を交換して火をつけると、鎮静効果のある穏やかな香りが再び辺りに立ち込めていった。
 そのかすかな音に気づいてか、老婆の瞼がうっすらと開かれる。青灰色の瞳に見つめられて、青年はそっと口を開いた。
「悪い、起こしちまったな」
「いいんだよ」
 冷たい空気が喉を刺激したのか、途端に小さく咳をする老婆。心配そうに見つめる青年に、彼女は微笑を浮かべながらゆっくりと唇を動かした。
「来てくれてたのかい、ラウルさん。あんただってまだ傷が治っちゃいないんだろうに」
 自分の体をさておいてこちらを気遣ってくる老婆に、青年は口の端を引き上げる。
「こんなの怪我のうちにも入らねえよ」
 短くなった黒髪が鬱陶しいらしく、しきりと髪に手をやりながら答える青年。しかしその黒い神官衣の袖口や襟元から覗く包帯が、その言葉を真っ向から否定していた。
 闇の神官ラウル=エバストとその仲間達が、影の神殿との戦いを終えてエストに戻ってきたのはつい三日前。その時の彼らはまさに満身創痍という言葉でしか表せないほどに傷つき、疲弊していた。一人も欠けることなく戻ってきたのは快挙だったが、中にはかなりの重傷を負っている人間もいた。そんな彼らの手当てを一手に引き受け、忙しく動き回っているこの青年もまた、本当ならしばらくは安静にしていなければならない状態のはずだった。
 それなのに、彼は怪我人ばかりでなく、冬前から伏せりがちになっていたこの老婆の所へも度々顔を出しては、色々と世話を焼いていく。以前に負った傷すらまだ完治していないはずなのに、彼はなんでもないような顔をして人の心配ばかりしているのだ。
「まだ若いからって、無理はおよしよ。あたしなら大丈夫なんだから」
「無理が祟ってるのはあんたの方だろ、タマラ婆さん。どうせまた、ちょっと調子が良くなったからって動き回ったか何かしたんだろうが。ったく、年寄りの冷や水っていうだろ? 大人しくしてろよな」
 とんでもない口を叩かれて、しかし老婆はしわがれた笑い声を上げる。
「性分ってやつだねえ。じっとしてるのが苦手なのさ」
 薬湯の入った器を取り上げ、ゆっくりと飲み干す。そうして老婆はふと、雨戸の向こうから響いてくる風の唸り声に目を細めた。
「今日もひどい天気だねえ。でも、不思議とお祭の五日間は晴れるんだよ。面白いだろう」
 嬉しそうに言ってくる老婆に、へぇ、と相槌を打つラウル。もうじきやってくる新しい年。その幕開けとなるのが、五日間続く新年祭だ。祭まではあと四日。村人達はその準備に余念がない。
「ああ、楽しみだねえ。あたしゃ、昔から新年祭が大好きなのさ。夏祭や収穫祭もいいけど、やっぱり新年祭が一番だね」
 今年の春にやってきたラウルは、その祭がどんなものか知らない。彼の故郷では国を挙げての大々的な祭が開かれるのだが、そう話すと彼女は、村人達が広場に食事や酒を持ち寄って、踊りを踊ったり歌ったりする程度のささやかなお祭だよ、と教えてくれた。
「それでね、新年祭の時にだけ焼く、おとっときのお菓子があるのさ。そりゃあもうおいしくて、子供の頃は新年祭が待ち遠しくて仕方なかったもんだよ。今度はあんたやあのおちびちゃんにも食べさせてあげられるねぇ。今から腕が鳴るよ」
 再び咳き込み、口を閉ざす老婆。そんな彼女に穏やかな瞳を向けて、ラウルは頷いてみせる。
「ああ、楽しみにしてるよ」
 言葉に反して、彼の顔色は冴えない。しかし老婆はそれに気づく様子もなく、楽しそうに話を続けている。菓子には干しぶどうや胡桃を砕いたものを練り込んで、隠し味にさくらんぼから作った蒸留酒をたらすのだとか、中に一つだけ硬貨を混ぜておいて、それを引き当てた人間には幸運が舞い込むのだとか、まるで若い娘のようにうきうきと話す老婆に付き合っていると、不意に扉を叩く音が聞こえてきた。
「開いてるよ」
 老婆の声に、扉が開く。途端に吹き込んでくる冷たい風。思わず体を強張らせたラウルは、扉の隙間から顔を覗かせた少女に顔をしかめた。
 その背後からぐい、と扉を押し開けて、頭のてっぺんからつま先まで雪にまみれた村長が現れる。その後ろにはなんと、村の名物と化している"頑固爺"ゲルクの姿まであって、ラウルはおろか老婆も目を見開いた。
『らうっ』
 入ってくるなり、ラウル目掛けて飛びついてくる少女。その体を咄嗟に受け止め、渋面を作る。
「おまえ、来るなってあれほど言ったのに……!」
 それは、ラウルがつい半刻ほど前に村の酒場に預けていった少女だった。兎角やかましいこの少女を連れての見舞いなどもってのほかだと、その場に居合わせた村長に『出て行こうとしたら何が何でも引き止めろ』と念を押しておいたのだが、どうやら無駄だったようだ。そんな少女にラウルが眉を吊り上げている一方、老婆は嬉しそうに少女へと笑顔を向けていた。
「おやおや、おちびちゃん。見舞いに来てくれたのかい? 嬉しいねえ」
『らうっ』
 途端にラウルから離れ、老婆へと駆け寄る少女。そのしわだらけの手をそっと取り、優しく撫でている様子に安堵しつつ、ラウルは一緒にやってきた二人に目を向ける。
 暖炉の前で雪を払っていた二人は、ラウルの非難めいた視線を受けて首をすくめてみせた。
「すみません、止めようとしたんですが、どうしても行くといって飛び出してしまって……」
「ったく、しっかり見張っててくれってあれほど言ったのに……」
「面目ありません」
 もともと細い目を更に細めて謝る村長に、横からゲルクがむすっとした顔で口を挟む。
「こやつを責めている暇があったら、もう少し自分の体を労わらんか。ちびすけはお前が心配だと言って飛び出していったんじゃぞ」
「う……」
 少女にまで心配されているとあって、流石にばつが悪くなったのか口を閉ざすラウル。そんな彼の横で、老婆と少女は新年を告げる鐘の音がどうの、お祭で振舞われる特別な料理がどうのと楽しげに話している。
「おちびちゃんも楽しみにしておいで。ほっぺたが落っこちるくらいにおいしいお菓子をたんと食べられるよ」
『おかし!』
 途端に顔をほころばせる少女。そんな様子に苦笑するラウルをひょい、と見つめて、老婆は頬を染める。
「ラウルさんや。新年祭でも一緒に踊ってくれるかね?」
 夏祭を思い出し、げっと顔を歪めるラウル。しかしすぐに引きつった口元を押し戻して、ああそうだな、と答えた。
「また足踏んじまうかもしれないけどな」
「なに、構うもんかね」
 朗らかに笑う老婆をよそに、少女は何やらむっと黙り込んでラウルを睨みつけていた。その唇から抗議の言葉が飛び出す寸前に、ラウルは傍らの外套を取り上げて促す。
「ほら、帰るぞ」
『らうっ!』
 再び飛びついてくる少女を抱え直し、老婆を振り返る。二人が帰ると分かって寂しげな表情を浮かべる老婆に、ラウルは笑顔で告げた。
「それじゃ婆さん、また明日来るよ。ちゃんと暖かくして寝るんだぞ」
「ああ、分かってるさ。ありがとうよラウルさん。あんたこそ、ゆっくり体を休めるんだよ」
 心配そうな声に手を振って、踵を返すラウル。その後ろを村長が追う。
「すみません、祭の準備がありますので、私もこれで」
 そう言って出て行く村長の背中を見送って、ゲルクは近くの椅子を引き寄せてどっかりと腰を下ろした。一気に静まり返った小屋の中、薪のはぜる音が静かに響き渡る。
「タマラ、具合はどうじゃ」
 そっと問いかけると、老婆はなぁに、と嘯いた。
「なぁに、いつもの通りさ」
 小さな咳を繰り返しながら、どこか嬉しそうな彼女。不思議そうに見つめてくるゲルクに、老婆は小さく息をついて呟く。
「あの子達が無事に戻ってきて、本当に良かったねえ」
「ああ、そうじゃな」
 感慨深げに相槌を打つゲルクを見て、くすくすと笑う老婆。
「誰よりもやきもきしてたのは、あんただったっけね、ゲルク」
「ぬ、何を言うか。ワシは信じておったぞ、あやつらは必ず帰ってくるとな」
 そうかい、と呟いて、老婆はそっと、寝台の片隅に片付けてあった籠に目をやった。使い込まれた裁縫箱と縫いかけの布。丁寧な刺繍が施されたそれにそっと手を伸ばす老婆を制して、ゲルクが立ち上がる。
「おぬし、安静にしておれと言ったのに、こんなものを作っておったのか」
 取り上げた布を広げて、ゲルクは呆れたとばかりに老婆を睨みつけた。老婆は小さく笑いながら、ゲルクが広げたそれを眺めて呟く。
「もうちょっとなんだよ」
 それは、男物の晴れ着だった。この地方に伝わる伝統的な衣装で、襟から胸元にかけて施される刺繍が特徴的だ。これにゆったりとした脚衣と幅広の腰帯をつけ、毛皮の帽子を被るのが正式な着方だった。この衣装を着ることが出来るのは未婚の男のみ。故に、ゲルクはすぐに誰のための衣装か気づき、顔をしかめてみせる。
「あの小僧にか」
 タマラには身寄りがない。亭主とはとうの昔に死に別れ、子供も小さい時に病気で亡くして、長いことこの小屋で一人暮らしをしていた。六十年前の『惨事』を体験した数少ない人間であり、村ではゲルクに次ぐ高齢でもあったが、夏頃に体調を崩す前までは誰の手も借りずに一人で家事を行い、細々とした暮らしを送っていた。
 そんな彼女も床に伏して長い。最近では食も細り、起きている時間が大分短くなっていた。そんな貴重な時間を、彼女はこの縫い物に費やしているというのだ。
「あたしからの、せめてもの贈り物さ。もっと時間があったら、あのおちびちゃんにも何か作ってあげられたんだけどねえ」
 現在、ラウルと共に暮らしている少女。荒野から戻ってきた彼らの中にちゃっかり混じっていた一人の少女に、最初村人達は首を傾げていた。その後、正体を聞かされて、それはもう腰を抜かさんばかりに驚いたものだ。
 光の竜ルフィーリ。春先に村はずれの小屋に落ちてきて、騒動の種となった謎の卵、そこから生まれ出でた『大いなる存在』こそが、少女の正体。
 そしてその大いなる存在はどういうわけかラウルのそばを離れようとせず、そのまま村の住人となってしまった。それからというものの、ラウルの怒声と少女の笑い声が村のあちこちで響くようになり、人々の笑いを誘っている。
 人懐こい少女は誰にでも屈託ない笑顔を見せた。勿論、この老婆にも然りだ。
「もうちょっと、あの子達を見ていたかったけどねえ」
 糸と針を取り上げ、刺繍の続きに取り掛かった老婆の呟きに、ゲルクはむっとした顔で答える。
「何を言うておるか。『憎まれっ子世に憚る』と言うじゃろうが」
 ゆっくりと首を振り、そして茶目っ気たっぷりに言い返す老婆。
「その言葉はそっくりそのままあんたに返すとするよ、ゲルク」
「悪かったの」
 子供のようにそっぽを向くゲルクに、楽しそうな笑い声を上げてみせてから、老婆はふと目を細める。
「この村で生まれて、色々なことがあって……。あんたが来て、ラウルさんが来て、あのおちびちゃんまで加わって……。楽しかったねえ」
 戦いの日々。復興に明け暮れた年月。そして、六十余年を経て、再び訪れた『影』の恐怖。『影の神殿』に脅かされ続けた人生を、それでも彼女は楽しかったと振り返る。
「そうじゃな……」
 丁寧な針の運びを眺めながら、ゲルクは咳交じりに続けられる老婆の話に相槌を打つ。
 香炉から流れる煙が再び途絶えるまで、二人は昔話に花を咲かせていた。



 燭台に明かりを灯し、暖炉に火を入れると、冷え切っていた小屋の中に暖かさが戻ってきた。
 外套の雪を丁寧に払い、暖炉の周りに広げる。そして台所で暖かい飲み物を二つこしらえて戻ってくると、いつもなら暖炉の前でぬくぬくと温まっているはずの少女が、扉の前で待ち構えていた。
「なんだよ」
 ひょいと少女の脇をすり抜け、食卓に器を置いてから、どうやらまだ怒っているらしい少女へと問いかける。てっきり、『らう、おどる、るふぃーりと!』などという抗議が飛び出してくるのかと思っていたら、彼女は思いがけない言葉を口にした。
『らう、うそ、ついてる』
 ラウルの顔から、すっと表情が消える。そんな様子に気づいているのか、尚も続ける少女。
『らう、ずっと、うそついてる!』
 たどたどしい言葉は、唇から紡がれたものではない。精霊と呼ばれる彼女達はしばしば、心から心へと直接意志を投げかけてくる。それだけに、その言葉には嘘偽りは存在しない。
『うそつく、だめ!』
 怒りに彩られた瞳に見つめられて、ラウルは小さく息を吐いた。
「ああ、もう……」
 卵であった頃から、少女はラウルの心を読むことがあった。最初は驚いたものの、慣れというのは恐ろしいもので、今ではすっかり何とも思わないようになってしまっている。しかし――
「昨日も怒ったばかりじゃないか。人の心を覗き見ちゃいけない。まして、それを口に出すなんてもってのほかだって、あれほど言っただろう?」
 村に迎え入れられて三日、事あるごとに村人達の心を読み、またそれをごく当たり前のように口にしては人々に驚愕を与えてきた少女。中でも、悪戯をした我が子を叱っていた酒場の女将レオーナとその子供ロイに対し『おにばばあ、なに?』とやった時には、まさに顔から火が出る思いだった。レオーナはかんかんに怒るわロイは逃げるわ、レオーナが抱いていた赤ん坊は険悪な雰囲気に怯えて泣き出すわと、とんだ騒ぎになってしまい、その後ラウルがレオーナにこってり絞られたのは言うまでもない。
 しかし、あれほどこっぴどく叱りつけたというのに、少女には未だ反省の色が見られない。そもそも、彼女ら竜族にしてみれば、それはごく自然な会話方法なのだという。
『だってぇ』
「だってじゃない! お前にとってはそれが普通でも、俺達にはそんなことは出来ないんだ。それなのに一方的に心を読まれて、しかもそれをぺらぺらと喋られたら、誰だって気分が悪いだろうが」
 ラウルから事情を説明された村人達は、少女の力に驚きながらも笑って許してくれた。しかし、それ以降少女への態度がぎこちなくなったことも事実だ。
「いいな。もうやめろ。もし、うっかり読んじまったとしても、それを口にするな。分かったな!?」
 真剣な顔で諭すラウルに、少女は納得いかない表情で、それでも渋々頷いてみせる。
『でも』
「あ?」
『らう、こえ、ずっと、きこえる』
 深いため息をつくラウル。卵から孵った後も、二人の間には見えない繋がりが残っていた。ラウルの考えは少女に、少女の気持ちはラウルに、それぞれ通じ合う。とはいえ状況によって精度が異なる上に、ほとんどは少女からラウルへの一方通行だ。故に普段はさして気にも留めていなかったが、今はそれがこの上なく恨めしかった。
『うそつく、だめ』
 責めるような少女の言葉に、ラウルの瞳に一瞬、激しい怒りが奔る。感情のままに口を開きかけて、ラウルはぐっと、迸りそうになった怒声を飲み込み、代わりに呻くような声で答えた。
「……それじゃあ、何か? 「あんたの命はもってあと数日だ。もしかしたら、年は越せないかもしれない」って、馬鹿正直に言えっていうのか!?」
 口にした途端に抑え切れなかった感情が爆発して、後半の台詞を吐き捨てたラウルは、目の前の少女を睨みつける。その瞳には深い悲しみと、怒りと、そして苦しみが入り混じった複雑な感情が渦巻いていた。
『……らう』
「あんたはもう死ぬって、あんなに楽しみにしていた新年の祭には参加できないんだって、言えっていうのか……!」
 倒れこむように椅子に腰を下ろすラウルに、少女は怯えたように両手を胸の前で握り締めながらも、尚も言葉を投げかける。
『らう、かなしい。つらい。くやしい。かくす、なぜ?』
 目を見張り、ラウルは憮然とした表情で答える。
「俺はユークの使徒だ。死なんて見慣れてる。生まれた以上、誰だっていつかは死ぬんだ。それをいちいち悲しんだりしてたら、ユークの神官なんて務まるか」
 しかし、そんな言葉とは裏腹に、ラウルの瞳は揺らめいていた。それを見逃さず、少女は言い募る。
『うそつく、だめ! るふぃーり、わかる。らう、ないてる!』
 驚愕の表情で、少女をまじまじと見つめる。勿論、その瞳に涙など浮かんではいない。しかし、少女は自分の左胸をぎゅっと押さえ、呟くように続けた。
『らう、こころ、ないてる』
 そう、この少女の前では、一切の偽りは通用しない。少女の言葉に打ちのめされたように、ラウルはのろのろと椅子の上に足を引き上げると、まるで子供のように膝を抱え込んでしまった。
「そうだよ……。死んで欲しくない。もっともっと、長く生きてて欲しいんだ。せっかく穏やかな日常が戻ってきたっていうのに、なんでこんなところで死ななきゃなんないんだ」
 最初は、ただの腰痛やら関節痛を訴えていたタマラ。痛みよりも、どちらかと言えば話し相手が欲しくて呼ばれていた節もある。それが夏頃に風邪を患ってからというもの、めっきり伏せりがちになり、一進一退するうちにとうとう厳しい冬が到来してしまった。
 寿命さね、と冗談めかして言ったタマラ。医療が発達した現代でも、八十を越える者はまだそう多くはない。多くは七十代、早ければ六十代で死を迎える者もいる。八十を過ぎた彼女は、確かに長く生きた方だろう。
「何がユークの使徒だ、死と安らぎを司る神に仕えちゃいても、俺達には死を遠ざけることも、命を永らえさせることだって出来やしない! あんなに必死こいて医術を学んだのに、婆さんの命をたったの数日延ばすことさえ、俺には……!」
 膝小僧に頭を押し付け、喚くように言葉を続ける黒髪の青年。いつもは自信に満ち溢れ、不敵な笑みを浮かべている彼が、今は激情に身を任せ、まるで自分を責め立てるかのように言葉を吐き捨てている。
 ユークは闇と死を司る神。その神に仕える者達は人々の最期を看取り、またその魂を輪廻の輪へと導く役割を担う。死せる魂の叫びを聞き、荒ぶるそれらを鎮め、または不当に地上へと留められた者達を天上へと送り返すのもまた彼らの使命。
 そんな、多くの死に関わる彼らもまた、一人の人間であることに変わりはない。
「……何が、ユークの使徒だ……」
 くぐもった声はかすかに震え、膝を抱いた肩もまた小刻みに上下していた。そんなラウルに近づいて、少女はその頭をそっと撫でる。小さな手のひらが髪を滑るその感触に、乱れていた心が次第に穏やかになっていくのを感じて、ラウルはようやく顔を上げた。
 僅かに赤くなった瞳で、目の前に立つ少女を見据える。そして、その肩に手を置いたラウルは、まだどこか上ずった声で少女へと語りかけた。
「お前は俺をうそつきだと言う。でもな、時には伝えられない真実ってものもあるんだ」
 口をへの字に曲げる少女を見て、ラウルは尚も言葉を重ねる。
「俺達はお前のように、心を通わせる力をもたない。だからこそ言葉を使い、少しでも自分の想いを相手に伝えようとする。それは必ずしも真実とは限らない。だが、真実ばかりが正しいわけじゃない。それを、分かってくれ」
 まっすぐに見つめてくる黒い瞳に、少女はそれでもまだ、でも、と返す。
『うそ、いけない、ちがう?』
「確かに、嘘をつくのはいけないことだ。でも……諦めて欲しくないんだ。希望を持って、生き続けて欲しいんだ。……真実を告げることで、婆さんの生きる意志を摘み取ってしまいたくないんだ……!」
 諦めれば、そこでお終いになる。絶望の淵に立つ心に、死は甘美な響きを伴って忍び寄ってくる。
 しかし、希望は人々に生きる力を与え、時に奇跡を呼ぶ。だから、彼はひたすらに希望を口にした。真実の刃が老婆の胸を切り裂き、その命を縮めてしまわぬように。
『でも……うそ、つく。あとで、ほんとう、しる。もっと、かなしい』
「分かってるさ。でも……あと、たったの四日じゃないか。頑張れば、もつかもしれない……だから」
 少女から手を離し、椅子から立ち上がって、ラウルは少女を見ようとせずに呟く。
「だから……もう見舞いにはついてくるな」
 分かったな、と念を押し、書斎へと消えていくラウルを見送って、少女はとぼとぼと暖炉の前に移動する。
『らう……』
 暖炉の前にぺたん、と座り込み、膝を抱えた少女は、窓の外から聞こえてくる風の音に不安げな表情を浮かべる。
『かぜ。つめたい、かぜ』
 全てを覆い尽くさんばかりに降り積もる雪。吹きすさぶ風は、この村全てを吹き飛ばそうと躍起になっているようにも聞こえる。
 凍てつく寒さは命の炎を脅かし、そしてもうじき彼女を連れ去ってしまうだろう。
『るふぃーり、なにも、できない』
 ラウルのように嘘をつくことは出来ない。そして、消えかかった命の炎を再び燃え上がらせることも、少女には許されていない。
『らう……』
 少女は長い間、ただじっと暖炉の炎を見つめ続けていた。



 そして。
 新年を二日後に控えた雪の夜。粗末な小屋に、村中の人間が集まっていた。
 暖炉には炎が赤々と燃えているというのに、部屋の空気は何故かひんやりと凍りついている。佇む人々の吐息がそれに拍車をかけていた。目を腫らした女性。沈痛な面持ちの老人。まだ年若い娘などは、今にも泣き出しそうな様子で老婆を見つめている。
 そんな彼らをゆっくりと見渡して、老婆はにっこりと笑みを浮かべた。その、あまりにも穏やかな笑顔に、そばについていたラウルはぐっと拳を握り締める。
 少女の姿はなかった。今頃は、あの三人組や村の子供達と一緒にレオーナの酒場で遊んでいるはずだ。子供達には何も知らされていない。恐らく、大人達はただタマラの見舞いに行っているのだと思っていることだろう。
 一人事情を知る少女は今頃、どんな思いでいるのだろうか。そんなことを考えていたラウルの手の甲に、ふと冷たいものが触れる。はっとして、ラウルは触れてきた老婆の手に自らの手を重ねた。
「婆さん……」
 何も言えず、ただその手をぎゅっと握り締める。そんなラウルに、老婆は穏やかな表情で囁いてくる。
「……新年の鐘を、もう一度聞きたかったねえ」
「何を弱気なこと言ってるんだ。あともうちょっとじゃないか」
 新年までは、あと二日。いや、もう少しであと一日だ。
 たったの一日。それなのに、死の神はそんな僅かな時をも待ってはくれないというのか。
(なんでだよ。いいじゃないか、あと一日くらい! なんで、今なんだ! なんで……)
 握られた手がかすかに震えていることに気づいて、老婆はゆっくりと首を横に振った。
「いいんだよ。優しいねえ、ラウルさん……」
 すう、と息を吐く。そうして、静かに、ひそやかに閉じられていく灰青の瞳。人々が息を呑み、たまらずラウルは叫んだ。
「婆さん!」
 ――と。

 カーン カーン カーン ……

 高らかに鳴り響く鐘の音に、ラウルは目を瞬かせた。
 エストの村に時を告げる鐘。それが今は、華やかな音色と共に新しい年の幕開けを告げている。
 どよめく人々。それもそのはずだった。何故なら、鐘つき堂には今、誰もいない。
 エストに時を知らせるのは時の神に仕える神官コーネルの役目。そのコーネルは驚きの声を上げる人々の中にいて、やはり目を丸くして響き渡る鐘の音を聞いている。
「一体……」
 呆然と呟くラウルは、ふと老婆を振り返った。
 透明な笑みを浮かべた老婆。その穏やかな瞳に映るのは、晴れ渡った空と白い雲。そして、どこまでも澄んだ青空に響き渡る、軽やかな鐘の音――。
「ああ……新しい年の始まりだ……」
 嬉しそうにそう呟いて、老婆は静かに息を引き取った。


 悲しみが支配する小屋に、人々の嗚咽だけが響く。
 そんな中、老婆の傍らで立ち尽くしていたラウルは、突如目の前に差し出されたものに怪訝な顔をした。
「なんだ……?」
「タマラから、お前さんにじゃ」 
 短くそうとだけ告げて、手にしていた包みをラウルに押し付ける。老婆からだという言葉に首を傾げながらも、ラウルはその包みをそっと広げて、そして目を見開いた。
「これ……」
 見事な刺繍が施された赤い上着をおずおずと取り上げ、広げてみる。丁寧な縫い目、細やかな縫い取り。その全てから、老婆の心が伝わってくるようで。
「婆さん、人の目盗んでこんなこと……」
 ぐっと上着を握り締め、俯くラウル。その背中を静かに叩いて、ゲルクは集まった村人へと向き直る。悲しみに暮れていた人々も、ようやく徐々にではあるが落ち着きを取り戻していた。そんな中、しきりに首を捻っている村人達の会話がラウルの耳に飛び込んでくる。
「一体、誰があの鐘を鳴らしたんだ?」
「んだなあ、まさか風のせいってわけじゃあるまいに」
 鐘の音はすでに途絶え、今はただ風の唸りだけがごうごうと響いてくる。
 まるで幻のように響き渡った鐘の音。しかし、ここに集う全員が幻聴を聞くなど、ありえないことだ。
「コーネルさんじゃないのか?」
「いいえ、私なら、ずっとここにいましたよ」
 そう、鐘つき堂に務めるコーネルは、一刻ほど前からこの小屋にいた。それどころか、村中の大人のほとんどが今、この小屋に集っている。誰も鐘を鳴らせるはずがない。
「子供達のいたずらじゃないかね。前にもあったじゃないか、妙な時間に鐘が鳴って、おかしいと思ったら悪ガキどもの仕業だったってこと」
 鐘つき堂と言っても、その実態は鐘楼つきの粗末な小屋といったところだ。入り口の鍵はとうの昔に壊れていて、入ろうと思えば誰でも入ることが出来る。
「しかし、子供達はレオーナが見ているはずですしねえ」
 おかしいですねえ、と首を傾げた村長は、次の瞬間、目の前を通り過ぎていった黒い影に目を瞬かせた。
「おや?」
 見れば、血相を変えたラウルが外套も着ずに、外へ飛び出していこうとしているではないか。
「こりゃ小僧! どこへ行く気だっ!」
 祈りの準備をしていたゲルクの怒鳴り声に、すでに扉の前まで辿りついていたラウルは振り返らずに答える。
「後は任せた!」
 だたそうとだけ答えて、雪の中に飛び出していくラウル。呆気に取られて見送る村人達の中、村長だけはもしや、と呟いて、ラウルの消えていった扉の向こうを見つめていた。


 雪に埋もれた広場。その一角に佇む鐘つき堂の前に辿りついた頃には、ラウルの体はすっかり冷え切っていた。黒い神官衣は雪にまみれ、むき出しの顔や指先は氷のように冷たくなっている。辺りは睫毛も凍るほどの寒さ。雪は、相変わらず深々と降り続いていた。
「ああ、ラウルさん!」
 不意に声をかけられて、伸ばしかけた手を止める。そうして振り返ったそこに、同じく雪まみれのレオーナの姿を認め、ラウルは目を細めた。
「ごめんなさい、ちょっと目を離した隙に、おちびちゃんが……!」
「ああ、分かってる」
 そう答え、鐘つき堂の扉に手をかける。扉はあっさりと開いたが、入ってすぐの壁から垂らされた綱の辺りには誰もいなかった。この綱の先に鐘が取り付けられていて、通常コーネルはここで操作を行っている。ラウルも一度だけ試させてもらったことがあったが、うまく鳴らすにはコツがあって、ただ綱を引っ張ればいいというものではないらしい。
「さっきの鐘は……?」
 問いかけてくるレオーナに頷いて、ラウルは狭苦しい建物の中を見渡す。そうしてすぐに、濡れた足跡が階段へと続いていることに気づくと、心配そうに見つめてくるレオーナにすまない、と呟いた。
「先に戻っててくれないか」
「……分かったわ。風邪ひかないようにね」
 そうとだけ答えて、くるりと踵を返す彼女。それを見送る時間すら惜しんで、ラウルはぎしぎしと軋む螺旋階段を登っていく。
やがて頭上に現れた木戸を押し上げて、ラウルは呟いた。
「……やっぱり、お前か」
 吹雪の中、かすかに揺れる鐘。その下に座り込んだ小さな人影。
『らう』
 やってきたラウルを見て、少女はよいしょと立ち上がる。これだけの吹雪に晒されながら、不思議と少女の体には雪が積もっていない。よくよく見れば、少女の体は僅かに光を帯びていて、手を伸ばすとほのかに暖かかった。
「お前……」
 まじまじと見つめてくるラウルに、少女はこくん、と頷く。
 そう。
 少女は鐘を鳴らした。老婆の願いをかなえるために。
 叶わぬ明日を、せめても鐘の音で届けようと、少女は鐘を鳴らしたのだ。
 それは、優しい嘘。偽れない心の代わりに、鐘の音は響き渡った。雪に埋もれた村に、人々の胸に、そして、老婆の心に――。
「そうか」
 何も聞かず、何も言わずに、少女を抱き上げる。伝わってくる暖かさが凍え切った体に染み渡っていくのを感じながら、ラウルは空を見上げた。
(……婆さん……)
 雪の舞う夜空。そこに老婆の笑顔が見えた気がして、目を細める。最後まで嘘をつき続けた彼を、老婆は許してくれただろうか。
 雪が見せた錯覚はすでに消え失せ、ただ闇が広がるのみ。それでも、空の彼方には輪廻の輪が巡り、魂はそこへと還りつく。全ての命が還っていく空に舞い踊る雪は眩しいほどに白く光り輝いていて、目に、そして心に染みた。
 黙って空を見上げているラウルの腕の中で、ふと少女は目を瞬かせる。
――ありがとうよ――
 心に響く声。伝わってくる暖かな思い。それは確かに老婆のもので、少女は両手をぎゅっと握り締めて、小さく頷いた。
『らう……』
「ああ。聞こえた」
 きっと彼女は何もかもお見通しだったに違いない。まだまだ修行が足りないな、と心の中で嘯いて、ふとラウルは少女に呼びかける。
(……なあ、ルフィーリ)
 驚いたように見つめてくる少女。彼がその名を呼ぶのは、極めて珍しいことだ。
(俺の声、聞こえてるよな)
 返事をしない少女に、尚も語りかける。その穏やかな問いかけに、少女はこくん、と頷いた。
『らう。でも、よむ、だめ、いった』
(ほんとはな。でも……)
 嘘は、辛い。誰にも言えぬ真実は、もっと辛い。だから。
(……俺のは、いいさ)
 この世の中に一人くらい、ありのままの心を知る相手がいてもいい。
 それは時に彼を傷つけ、苦しめるだろう。それでも、偽ることのない少女の心はきっと、暗闇を照らす一条の光となる。
『らうっ!』
 嬉しそうに答える少女の頭上に、ふわりと舞い落ちてくる雪。気づけば、あれほど吹き荒んでいた吹雪は、いつの間にか淡い粉雪へと変わっていた。
 風に吹かれ、くるくると舞う雪。きっと、タマラが踊っているのだ。雪や風の精霊達と、一足早い新年の踊りを披露しているのだろう。この世界全てを祝福するように、ひそやかに、軽やかに、輝いて――。
『たまら、わらってる』
「ああ。そうだな」
 そうして、二人はいつまでも、雪の舞い散る夜空を見つめ続けていた。


 雪は、新年を迎える朝まで降り続いた。
 そして、高らかに響き渡る鐘の音と共に、新しい年の幕が開く――


「おい、そうがっつくなよ」
 呆れ顔でたしなめるラウルの横で、焼き菓子を口いっぱい頬張った少女は、尚も籠の中へと手を伸ばそうとしていた。
 寒空の下に出された雑多な机や椅子。それぞれに村人が持ち寄ったご馳走や酒が並べられ、人々はそれらに舌鼓を打ちながら、陽気に歌い、踊り、喜びを分かち合う。
 色とりどりの晴れ着をまとった子供達がはしゃぎ、娘らは頬を染めながら輪を描いて踊る。時々拍子の狂う演奏をしているのは、村長をはじめとする村の男達だ。
「こぉら、お行儀が悪いわよ」
 通りかかったレオーナにその手をぴしゃりとやられて、途端にふくれっつらになる少女。口の周りは菓子の欠片や果物の果汁でべとべとになっており、ラウルはそれを拭ってやりながら、やれやれ、と肩をすくめた。
 タマラの死後、随分と塞ぎ込んでいた少女。ろくに口も利かず、食事すら忘れて一人部屋の隅でうずくまっていた彼女に気を揉んだものだったが、今日になってみればすっかりいつも通りの少女に戻っていた。それはそれで一安心だったが、いつもの元気を取り戻した彼女は朝から菓子に食らいついている。
 これで幾つ目だろうか、後で腹でも壊しはしないかと心配するラウルをよそに、今もまた一つをぺろりと平らげて、満足げな笑みを浮かべている少女。
(ったく、これが偉大なる竜族の姿かと思うと涙が出るぜ)
 思わず心の中で呟いた次の瞬間、はっと隣の少女を見る。
「……お?」
 これまでなら、ここで何かしら文句をつけてきただろう彼女は、ただ無言で次の菓子に手を伸ばそうとしていた。思わずその顔を覗き込むと、少女は少し怒ったような顔をしながらも、得意げに
「らうっ。るふぃーり、いいこ、だもん」
 と言ってくる。
「へーへー、そうか、よ……?」
 そんな少女を軽くあしらおうとして、ラウルはふと、目を見開いた。
「お前、今……?」
「らうっ!」
 そう。いままで唇こそ動かしてはいたものの、心の声をただ届けていただけの少女が、きちんと肉体から紡がれた言葉で話している。それは心の声と同様、たどたどしいものではあったが、紛れもなく彼女自身の『声』だった。
「お前……」
 目を丸くするラウルに、少女は照れたように微笑んで、ゆっくりと続ける。
「るふぃーり、ことば、つかう。たのしい、うれしい、いっぱい、つたえる、できる」
 自らの唇で言葉を紡ぎ、想いを伝える。それは、彼女が自分で出した結論。
(ってことは、まさか……)
 一人部屋の隅で何をやっていたのかと思えば、こそこそと発声の練習をしていたというわけか。そのほほえましい光景が目に浮かんで、たまらず苦笑を漏らすラウル。
(お前も日々、成長してるってわけだ……)
「らうっ、るふぃーり、すごい? すごい?」
 きらきらした目で見つめてくる少女の頭を、がしがしと乱暴に撫でる。そして、嬉しそうに笑い声を上げる少女を横目に、ラウルは再び近くを通りかかったレオーナを呼び止めると、上機嫌で空の杯を差し上げてみせた。
「レオーナさん、お代わりくれないか」
「あらあら、昼間っからそんなに飲んで大丈夫?」
「折角の祭なんだ、少しくらい羽目外したって構わないだろ?」
「それもそうねえ」
 辺りからは、すでに出来上がっている村人達の陽気な笑い声が響いてくる。祭は、一時の夢。どうせ夢ならば、めいっぱい楽しんだって罰は当たらない。
「はい、お待ちどうさま」
 運ばれてきた杯を、軽く少女へと掲げてみせる。意味が分からずきょとんとする少女の頭をぽんぽんと叩いて、ラウルは楽しそうに笑ってみせた。
「お前の努力に、乾杯だ」
 そうして、美味い酒に舌鼓を打ちながら、時折少女の手から菓子をもぎ取っては酒のつまみにと口に運ぶ。その度に抗議の声を上げる少女を軽くいなしながら、ラウルはそっと空を仰いだ。
(婆さん、見てるかい?)
 あれほどに楽しみにしていた祭なのだ、きっと、遥か空の彼方から祭の様子を覗いては、悔しがっているに違いない。そして彼女が贈ってくれた晴れ着をまとったラウルを見て、満足げに笑っていることだろう。
 真紅の晴れ着はラウルの黒髪を一層引き立たせ、その細身の体をぴったりと包み込んでいた。その襟元からびっしりと施された刺繍の中には実にさり気なく竜と卵の図柄が盛り込まれており、ラウルがそのことに気づいて絶句するのはまだまだ先のことである。
 鐘つき堂の鐘が高らかに正午を告げた。にわか楽団が賑やかな演奏を始め、それまで座り込んでいた村人達も手に手を取って輪を作る。
「ほら、ラウルさんも行っといで」
 レオーナに促されて、渋々椅子を立つ。すると、当然のように少女も椅子から飛び降りて、ラウルの手を握ってきた。
「らうっ! おどる!」
「……足踏んでも怒るなよ?」
 小さな手に引っ張られて、踊りの輪に加わる。音楽が一巡したら相手を変えて、延々と続けられる踊り。途中何度も振りを間違えたり相手の足を踏んだりして周りからからかわれながらも、ラウルと少女は足がもつれて歩けなくなるまで踊り続けた。

 鐘が鳴る。軽やかに、高らかに。
 新たな年を祝い、巡り巡る時の流れを人々の心に刻みつけるように、鐘は幾度となく鳴り響く。

「も、当分踊らねえぞ……」
「らうぅ……」
 踊り疲れて地面にひっくり返った二人に、傾きかけた冬の太陽は優しい光を投げかけてくる。
 穏やかな日差しの中にいると、まるで世の中には恐怖も不安も悲しみも何もなく、ただ平穏な時だけが存在しているような錯覚さえ覚える。
(……今年は何事もなく過ごせるといいな……)
 ふと心の中で呟くと、隣に寝転がった少女はひょい、と飛び起きて、満面の笑みを浮かべながら
「むり!」
「なんだとぉっ!?」
 思わず跳ね起きるラウルに、少女はきゃっきゃと笑いながら走り出す。
「待てこらっ! お前、何の根拠があってそんなことっ……!」
 逃げていく小さな背中を追いかけながら怒鳴るラウルに、少女はくるっと振り返ると、とびきりの笑顔を向けてきた。その瞳はいたずらっ子のようにきらめいていて、思わず口を閉ざした彼に、少女は嬉しそうに告げる。
「らう、るふぃーり、ずーっといっしょ! たのしい、うれしい、いーっぱい!」
 なるほど、と額に手をやる。この少女が一緒で、平穏無事にいくはずもない。
 しかしそれは、賑やかで、はちゃめちゃで、そして少なくとも退屈とは程遠い日々に違いない。
「やれやれ」
 ぼやきつつ、少女へと追いつく。そして少女をひょいと抱き上げたラウルは、遠くで手を振っている仲間達のもとへと歩き出した。
「ラウルさーん! こっちこっち!」
「早くしないとご馳走なくなっちゃいますよー!」
「ああ、今行く!」
 そうして賑やかに過ぎていく祭の一時。やがて、茜色に染まりゆく空に、鐘の音が鳴り響く。
「……いい年に、なるといいな」
 呟くラウルの頭をそっと撫でるように、夜の息吹を含んだ風が空へと抜けていった。


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