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呪文

〜とっておきの呪文〜
《gilders》☆☆☆
36 etude」 10:「呪文」



 ふわり、ひらり。
 世界から一切の音を奪っていく、白い精霊達。
 降りしきる雪に、鍋をかき回していた老婆はふと目を細めた。
 窓の外に広がる銀世界。この雪深い山村では珍しくもない光景が、在りし日の記憶と重なる。
「雪が見たかっただけ。そう言ったっけねぇ」
 立ち上る湯気が、頷くようにゆらり、と揺れた。


 ゆきが、みたかっただけなの


 凍りついた街に響き渡る、少女の嗚咽。
 街も、湖も、人も――全てが蒼い氷に閉じ込められて。
 時の止まった街でただ一人泣いていた少女は、厳しい追及の声にそう答えた。

 雪が、見たかっただけなの
 そう思っただけ
 なのに、みんな凍っちゃった
 わたしのせいで、みんな……!

 空色の瞳から、とめどなく溢れる涙。
 その雫さえも凍りつかせる力は、紛れもなく少女から発せられたもの。
 荒れ狂う強大な魔力と、泣きじゃくる少女。あまりにも不釣合いな組み合わせに、思わず漏れた吐息が白く凍る。
 子供は苦手だ。しかし、そうも言っていられない。
 少しの間思案して、怯える少女に笑顔を向ける。ちょっと引きつっていたかもしれないけれど、そのくらいは我慢してもらおう。

 それなら、とっておきの呪文を教えよう
『大丈夫、何とかなる』
 効き目はバッチリ さあ、試してごらん――


「それが、二十年前に湖畔の街ルークスを襲った怪現象の正体ってわけですか。なるほどなるほど……」
 旅の歴史学者だという青年は、老婆の言葉を一言一句漏らさずに手帳に書き留めて、うんうんと頷いてみせた。
「魔術士リダの誕生の瞬間、ってわけですね」
「そして、《夜のネリュレイア》が引退を決意した瞬間でもある」
 出来上がった薬湯を差し出しながら、まるで他人事のようにさらりと付け足す老婆。どうも、と薬湯の器を受け取った青年は次の瞬間ぽろりと器を取り落とし、膝の上に熱々の薬湯をぶちまけながら、そのことにも気づかずに絶叫した。
「ネリュレイア!! あの《漆黒の魔女》が……!」
 それは、艶やかな黒髪と夜空のような黒い瞳から「夜のネリュレイア」と呼ばれていた、偉大なる魔術士。夜を纏い、月を従え、人々を魅了してやまない漆黒の魔女。都の芸術家達はこぞって彼女の素晴らしさを謳い上げ、その叡智の前には王侯貴族すら膝を負った。彼女を頼ってやってくる者は後を絶たず、中には海を渡ってやってくる者まであったという。
 まるで陸に上げられた魚のように口をパクパクさせている青年に、老婆は昔の話さ、と首を振った。
「ここにいるのは薬師のネリー。村の外れでひっそりと暮らす、偏屈な婆だよ」
 緑なす黒髪は褪せ、黒曜石の如き瞳は白く濁り、すらりとした長身は一回りも二回りも小さくなって、ふっくらと肉がついた。唯一つ、今も変わらぬ白磁の肌。そこに深く刻まれた皺は、彼女が過ごしてきた年月を雄弁に物語る。
「し、しかし何故……あなたほどの方が、引退など」
 ようやく言葉を思い出したらしい青年の問いかけに、老婆はゆっくりと首を振る。
「あの子と出会った時、あたしはもういい年寄りだった。魔女としての自分に限界を感じてさえいたのさ」
 見栄を張り、魔術で若い頃の姿を保ってはいたが、日々衰えていく魔力と、なおも高まり続ける名声とに辟易しながら生きていた。
 そんな時、偶然立ち寄った街で少女に出会った。
 その溢れんばかりの魔力は稀代の魔女と呼ばれた彼女を軽く凌ぎ、その強大さに恐怖さえ覚えた。しかも少女はそれを制御するどころか、意識して使うことすら出来ていない。
「悟ったんだよ。自分のすべきことが何か」
 予想以上の効き目を発揮した《とっておきの呪文》。そうして息を吹き返した町にこだまする少女の笑い声を聞きながら、彼女は決意したのだ。
「それでは、あなたがリダのお師匠というわけですか」
「いいや、それは違う。あたしはきっかけを与えただけに過ぎない。人を頼るのが嫌いな子だったからね。基礎だけは教えたけど、あとはほとんど独学で腕を磨いたらしい」
 だがいつかは、その名を世間に知らしめるような魔術士になるだろうと、そう確信していた。だから、魔術士リダの名が伝わってきた時は、ひそかにほくそ笑んだものだ。
「よりにもよってあの《金の魔術士》に間違われるとは、あの子も可哀想にねえ」
 可哀想にと言いながらも、その顔は笑っている。その楽しげな声につられて笑いかけた青年は、ふと窓の外を横切った人影におや、と呟いた。
「お客さんのようですね」
「おやまあ、こんな日に訪ねてくる物好きが、あんたの他にもいたとはね」
 どれ、と椅子から腰を上げかけて、扉の向こうから響いてきたけたたましい声に目を丸くする。
「あーもう、なんでこんなに積もるのよっ!」
「だからやめた方がいいって言ったのに……。今日は積もるよって忠告されたのに、雪が見たいから丁度いいなんて駄々こねたのは誰だよ!」
「うっさいね。雪が見たいとは言ったけど、ここまで凄いと分かってたら来なかったわよ! ったく、雪はもうこりごり! さっさと依頼こなして次は暖かいところへ行くよ!」
「まったくもう……。大体、ここのお婆さんがその薬草について知ってるかどうかも分からないのに……間に合わなかったらどうするのさ」
「大丈夫! なんとかなる!」
 自信に満ち溢れた声。そうして勢いよく叩かれた扉を、老婆は澄ました顔でゆっくりと押し開けた。



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