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怖い。恐ろしい。今すぐここから逃げ出したい。 今まで何人もの命を奪ってきた。初めて人を殺めた時でさえ、何の感慨も覚えなかった。 それなのに今、目の前で起こっている出来事に、まるで子供のようにうろたえている自分がいる。 何も出来ない自分が恨めしかった。どんな仕事も完璧にこなす、それが誇りだった彼にとって、この無力さは屈辱とも言えた。 恐怖と悔しさと、そして怯え。ともすると逃げ出しそうになる体を繋ぎとめるように、ほっそりとした白い手が彼の腕を掴む。まるでそれが命綱であるように、指先が白くなるほど力を込めて。 苦しげな息。漏れる悲鳴。 伝わってくる痛みに、何度も挫けそうになる。 もういい、もういいよと、訳も分からず言いかけて―― 響き渡る、泣き声 朝日が連れてきた、新たな生命 「おめでとう、男の子だよ」 しっかりおしよ、と背中を叩かれて、ようやく我に返る。 産湯を使い、真新しい産着を着せられた赤子。 抱いておやり、と促されて、伸ばしかけた手が空を掴む。 この無垢な魂に触れる資格はあるのか。 血に塗れた手で子供を抱くことなど、果たして許されるのか、と―― 躊躇いを溶かす、柔らかな感触。 不意に指を掴まれて、喉元まで出かかった悲鳴をぐっと飲み込む。 ぎゅうっと握りしめてくる、小さな手。 その力強さ、そして温かさに 少しだけ、許された気がした 「名前は決まってるのかい?」 産婆の問いかけに、はにかみながら頷く。 名付け親になりたがる者は大勢いたが、こればかりは誰にも譲れないと、夫婦で話し合って決めた名前。女の子ならマリア、男の子なら―― 「マリオ。お前は、マリオだよ」 分かった、とでも言うように、赤子は再び父親の手を握りしめた。 終☆
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