[BACK] [HOME] [36 etude・TOP]

邂 逅

〜 一枚の地図 〜
36 etude」 14:「一枚の地図」


 仲間が、消えた。
 愛用の弓と、いくばくかの荷物とともに。

 残されていたのは、一枚の地図。
 記されていたのは、殴り書いたような丸印と申し訳程度の走り書き。

『会いに行く』

「あの、馬鹿――!!」
 ぐしゃ、と地図を握りつぶし、若き神官は大音量でそうのたまった。
 途端、部屋の端から聞こえてきた激しい咳。はっとして口を押さえるが、一度口から飛び出した声が戻るはずもない。緩く波打った金髪を掻き回し、神官はくるりと寝台を振り返った。
「すまん、マーリカ。起こしたか」
 気遣わしげな問いかけに、寝台の上から「大丈夫」と声が上がる。そしてゆっくりと半身を起こした女魔術士マーリカは、歩み寄ってくる神官に小さく笑いかけた。
「大丈夫。ちょっと前から起きてました」
 貴方が宿に戻ってきた時の騒音でね、と続けなかったのは、そう告げた場合の反応が目に見えていたからだ。私のせいで病が悪化して云々、などと枕元でしょげられては、治る病も治らない。
「そうか、それならいいんだが……起きていないで、ちゃんと横になっていろ」
 まるで子供に言い聞かせるような口振りに、はいはいと答えて毛布を胸まで引き上げる。そしてマーリカはおもむろに首を傾げてみせた。
「で、その馬鹿がどうしまして?」
 その言葉で思い出したように、神官は眉間に皺を寄せると、手の中で紙屑と化した地図を寝台へと放り投げた。
 それを両手で受け止め、破かないように丁寧な手つきで広げていくマーリカ。そうしてようやっと元の形状を取り戻した地図をまじまじと見つめ、冴えた美貌を誇る女魔術士は「あらまあ」と呑気な声を上げた。
「誰に会いに行ったんでしょうねえ、あの馬鹿は」
「マーリカ、頼むから馬鹿ばかと連呼しないでくれ」
「貴方が言ったんじゃありませんの、ゲルク」
 からかうように笑った途端、また激しく咳き込むマーリカ。
 彼女が町で流行っている性質の悪い風邪を引き込んでしまい、医師から安静を言い渡されたのは五日前のことだ。ちょうど近くで一件、厄介ごとを解決してきた後だったから、金にも時間にも余裕があったのは幸いだった。
 気のいい宿の主人が日当たりの良い部屋を提供してくれ、そこに仲間六人で逗留することになったのはいいが、降って湧いた休みに暇を持て余した剣士と格闘家は「ちょっと修行してくるわ」と出かけて行ってしまい、未だ帰らず。自らを「探索者」と言って憚らないもう一人は「勘を磨く修行」と称して町の賭博場に通いつめており、残る二人が交代でマーリカの看病に当たっていた。
 ところが今朝になってその一人、精霊使いの青年が姿をくらましたのだ。
 あちこち探し回っても見つからず、とぼとぼと戻ってきたゲルクが見つけたのは、部屋の片隅に落ちていた一枚の地図――。かくして、ゲルクは憤懣やる方なく地図にやつ当たりし、マーリカの安眠を妨害することとなったわけである。
「この地図、グランは一体どこで手に入れたのでしょうね」
 白茶けた紙に刷られた地図はレイド国の北東部、即ち彼らが逗留しているエルクレスの町近辺を表わしていた。地図の半分ほどはノーラの大森林で占められており、丸印はその大森林の外れにつけられている。
 欄外にも何か細かな文字で書き込みがされており、それがいわゆる「冒険者御用達」の地図であることは明白だった。ルース神殿で販売されている一般の地図と違い、冒険者用のそれには先達のもたらした情報が事細かに記されている。有名な遺跡や洞窟の地図など、対侵入者用の罠まで詳細に記されていたりするから侮れない。
「ギルドだろうな」
 苦々しく答えるゲルク。ギルドと言っても、盗賊のそれではない。彼ら冒険者の相互扶助を目的として設立された冒険者ギルド。東大陸発祥のこのギルドは四百年の歴史を誇り、現在ではどんな辺境の地にもギルドの窓口が設けられている。
「昨日だったか、奴に買い物を頼んだだろう? きっとあの時だ。随分と時間がかかったんで、それで私と口論になったんだ」
「そうでしたわね」
 その時の騒動は、まだ記憶に新しい。病人のいる部屋で、やれ「子供じゃあるまいし、たかだかお使いにどうしてこんなに時間がかかるんだ」だの「どうせどこかで道草を食っていたんだろう」「そもそもお前は仲間に対する気遣いというものが欠如している」とまあ延々と怒鳴り続けたゲルクは、声を聞きつけてやってきた宿屋の主人に「病人の前で何をやってるんだ」と大目玉を食い、それを見て笑い転げたマーリカは咳の発作に襲われて酷く苦しむ羽目になった。
 一方、詰られていた当人はというと、彼はゲルクの怒声も宿屋の主人のお説教もどこ吹く風で、一枚の紙切れをじっと見つめていた。まるで愛しい人からの恋文であるかのように、それはもう蕩けるような眼差しで。
「あの時見ていたのは、この地図だったんですわね……それじゃあ、グランは」
「竜だ」
 疲れたような口調で、ゲルクはそう断言した。
「竜に会いに行ったんだ!」

 炎の精霊使いグラヌド=ジェダ。無口で頑固、そのくせ気分屋で皮肉屋な隻眼の青年。
 初めて出会った時。旅の目的を尋ねた時。そして、その腕を見込み、仲間にならないかと誘った時。彼は決まってこう答えた。
「俺は竜に出会うため、旅をしている」
 幼い頃に見た竜の飛翔。その光景が脳裏に焼きついて離れず、いつしか竜を探し求めて世界を旅するようになったのだと、彼は幾度となく語ってくれた。普段は岩よりも無口な彼が、竜の話題となると人が変わったように嬉々として喋り出す。楽しげに語るその表情は幼子のように無邪気で、とことん本気で。だから彼を笑う者は誰もいなかった。
 それでも一度だけ、からかい半分でこう尋ねたことがある。
「竜に出会って、どうするんだ?」
 ゲルクの問いかけに、彼は真剣な顔でこう答えた。
「分からない。でも、会いたい」
 まるで未だ見ぬ恋人を思う乙女のような返答に、ゲルク以下四名が顔を引きつらせたのは言うまでもない。

「あの、馬鹿モンがーっ!!」
 再び吼える神官を尻目に、マーリカは枕元から眼鏡を取り上げ、いそいそと鼻に押し当てる。そうして一通り地図を検分し終えた彼女は、丸印の横に小さく記された一文を指差して言った。
「ゲルク。これ、見て下さいな」
「なになに……『虹色の木』?」
 なんだそれは、と呟くゲルクに、眼鏡を外したマーリカは瞳をキラキラと輝かせて続けた。
「これはきっと「精霊樹」のことですわ! 精霊の力を強く宿した木、またの名を「竜木」とも言うんですの。その葉は闇の中でも七色に輝き、その木の周辺は真冬でも恵みに満ち溢れると聞きます」
「しかし、その木がなぜ竜と結びつくんだ?」
 それはですね、とマーリカは人差し指を立てた。
「精霊樹は竜の降り立った地にのみ存在すると言われているんですの」
 つまり精霊樹のあるところ、竜が近くにいる、もしくはいた可能性が高い、というわけだ。
 なるほど、と頷きつつも、ゲルクは解せないと言わんばかりに険しい表情で地図を睨みつける。
「こんなあやふやな情報を頼りに、竜を探し出すことなど出来るのか? そもそも、我ら一言も相談せず一人で飛び出していくとは!」
 あいつはいつもそうだ。自分勝手で強情っぱりで、自分を孤独だと決めつけて。
(そんなところが女性にウケるのが、尚のこと気に食わん!)
 一部私怨も交えつつ、グランに対する憤りを滾らせるゲルク。しかし、病人の前で怒声を上げるわけにもいかないから、ぐっと拳を握り締めて衝動を押さえ込む。そんな彼に、マーリカはまるで馬でも宥めるようにどうどうと手を振った。
「ゲルク、そんなにいきり立たないで下さいな。大体グランがこれを置いていったということは――」
「そう、それだ! 肝心の地図を置いていくとは何事だ!? あの――」
 マーリカの声を遮り、その膝の上にくてんとのびた地図をびし、と指差す。
「あの、方向音痴が!!」

 無口で頑固、そのくせ気分屋で皮肉屋、自分勝手で強情っぱりで、そんな生き様が妙に女性にウケる隻眼の青年グラヌド=ジェダは、真性の方向音痴であった。

 言いたいことを全て吐き出してしまうと、後に残るのは妙な虚脱感。
 その場にへたり込みたくなるのをぐっと堪え、ゲルクは地図を取り上げた。
「ゲルク……」
 苦虫を噛み潰したような神官の顔を見上げ、おずおずと呼びかけるマーリカ。気づいたゲルクが何か言いかけた瞬間、出し抜けに扉が開いた。
「やっほー、ただいまー! ねー、聞いて聞いて!」
 扉を蹴飛ばすようにして入ってきたのは、小麦色の肌を持つ少女。勿論、二人とは顔なじみである。「探索者」イーリャ、世間一般では「盗賊」と呼ばれる彼女は、猫のような身のこなしで二人の間に割って入ると、ほくほく顔で喋り始めた。
「じゃーんっ! 見てみてこれ、昨日の稼ぎだよっ! 夕べはもお、すっごく儲かっちゃったんだからっ! もー、やっぱアタシってば天才!? ……って、あれ? どうしたの二人とも」
 きょとん、とする少女の肩をぽんと叩き、いいところに来た、と呟くゲルク。そのまま、少女をマーリカの方へと押しやると、自分は壁際に纏めてあった武器防具と荷物を取り上げて、さっさと身支度を始める。
「ねえってば、一体どうしたのさー?」
 首を傾げる少女に、あっという間に支度を整えたゲルクはただ一言、
「あの馬鹿を連れ戻してくる」
 と告げると、スタスタと扉の向こうに消えていった。
 後に残された女性二人は一瞬顔を見合わせ、ほぼ同時に破顔する。
 彼が――正しくは『彼ら』が――馬鹿と呼び習わすのは、ただ一人。
 当人達は恐らく気づいていない、その屈折した親愛の情に、女性陣は今日も忍び笑いを噛み殺す。
「もー、あの二人ってば、また何かやらかしたわけ? 懲りないなあ」
「本当に、仕様のない人達ですわ」
 くすくす笑いながら、事の次第をかいつまんで説明するマーリカ。それを聞いて、イーリャはきゃははと軽快な笑い声を上げた。
「しっかし、グランもさあ、わざわざ地図に丸つけてくなんて、かわいいとこあるじゃん。なんかほら、あれ! あれだよ、家出少年ってやつ? 探しに来て欲しくて、わざと書き置き残してみたりなんかしてさあ」
「ええ、本当に」
 くすくすと笑いながら、マーリカはふと、地図の余白に記されていた一文を思い出す。
『尚、虹色の木近くに森人の村が存在するとの情報あり。迂闊に近づかぬよう十分に注意すべし』
 そんな場所に向かったのは、片や方向音痴で地図を見ても迷子になるような精霊使い。片や猪突猛進で世間知らずな熱血神官戦士。
「……大丈夫かしら」
 思わず口をついて出た言葉に、根っからの楽天家であるイーリャはにかっと笑ってみせた。
「心配ないって! 二人ともすぐに帰ってくるよ」
 だからマーリカは体を治すことだけ考えてなさい! と年下の少女に説教されて、マーリカは神妙な顔つきで「はい」と答えると、もそもそと布団に潜り込んだ。

* * * * *

 ――迷った。

 その事実を彼が把握した頃には、頭上を照らしていた太陽は西へと傾き、空は茜色に染まり始めていた。
「参ったな」
 ぼそりと呟いて、天を仰ぐ。ちょうど真上を横切った鳥の群れは、ねぐらへと急いでいるのだろう。迷子の彼を嘲笑うかのように、夕陽の向こうへと飛び去っていく。
 森に分け入ったのは朝だった。目的の場所まではそう距離もない。行って、駄目ならすぐに引き返すつもりでいた。だから愛用の弓と身の回りの物以外は持ってこなかったし、ここまでの道のりを示す地図も置いてきた。
 それなのに、気づけば日は傾き、すぐそこだと思っていた目的地には未だ辿り着けない。
 そもそも、先日手に入れた地図によれば、目的地は森の入り口から小一時間ほどのはずだった。それなのに三刻以上歩き続けている時点で、道を疑うべきだったのだ。
「森の精霊達に嫌われた、か?」
 苦笑交じりに呟いて、切り株に腰掛ける。そして彼は、ここまでの道程をゆっくりと思い返した。
 エルクレスの町から半刻ほど行ったところに広がるノーラの大森林。森人の集落が数多く存在するこの森まではすんなり辿り着けた。仲間が聞けば「それだけでも快挙」と喝采しただろうが、自覚のない彼はさしたる感慨も覚えずにそのまま森へと踏み込んだ。それが朝の三刻のことだ。
 目的地は、ノーラの大森林に唯一作られた街道を半刻ほど進んだところから、更に道を外れてしばらく行ったところだった。目印は街道沿いにそびえる三叉の樫。そこを東に折れてしばし進めば、目の前に開けた広場が現れる。目的の木はそこに生えているのだと、冒険者ギルドで仕入れた地図には書いてあった。
 しかし。
 三叉の樫に辿り着いた頃には、太陽は中天を過ぎていた。そのまま休むことなく、目印を東に折れて、ずんずんと突き進む。藪を突っ切り、倒木を跨ぎ、大岩を乗り越え、沢を渡り崖を登り滝を横切り――。
 そうやって道なき道を踏破し、ようやっと開けた場所に出てみれば、そこには大分昔に切り倒されたらしい木の切り株が、まるで彼を労うようにぽつんと佇んでいた。

「夜までには戻るつもりだったのに」
 再び呟いて、薄っぺらい外套の前を掻き合せる。日が落ちれば気温はぐっと落ち込む。その前に戻るつもりだったから、大した装備をしてこなかった。しかしこれでは、引き返したところで今日中に街まで戻れるかどうか。
 引き返す、という選択肢を思いついたところで、はたと周囲を見渡す。道らしき道はない。似たような木々が立ち並んで、最早どこから出てきたかなど見当もつかなかった。
「とにかく、暗くなる前に明かりをつけないとな。ええと、火口箱は……と」
 呟きつつ、荷物を漁る。独りでいる時の彼は不思議と饒舌だ。それは、幼い頃から精霊と親しんできた彼の癖だった。傍目から見れば独り言の激しい人間にしか見えないが、彼の耳には精霊達の相槌がひっきりなしに届いている。彼らは意外にもおしゃべりで、しかも好奇心が旺盛だ。それに付き合ううちに、こんな癖がついてしまった。
「あったあった。良かった、これがないと火の精霊も呼び出せない」
 ようやく取り出した角灯と火口箱を手に、さあ明かりをつけようと意気込んだところで、彼はふと顔を上げた。
「光……?」
 立ち木の向こう、ざわめく木々の彼方できらきらと輝く光。
 星のような鋭さはなく、月のような冷たさもない。それは風薫る午後、丘の上に寝転がって見上げる太陽のような、暖かな光。
「精霊……? いや、もしかして、あれが……!?」
 言葉にするのももどかしく、勢いよく立ち上がる。そうして彼は、荷物をその場に残して走り出した。
 木々の間をすり抜け、風のように走る。その姿を見かけた精霊達が何やかんやと話しかけてきたが、今は取り合っている暇がない。中には制止の声もあった気がしたが、きっぱりと無視をして駆け抜ける。

 そして――

「……これが……」

 広場に聳え立つ、光り輝く大樹。虹のように煌く葉が、風に揺られてシャラシャラと音をたてる。辺りは瑞々しい気に満ち、秋も深いというのに色とりどりの花が咲き乱れ、木々は青々と葉を茂らせていた。
 夢にまで見た光景。竜が降り立つ地にのみ存在するという精霊樹を目の当たりにして、しかし彼は違う意味で目を丸くしていた。

 その瞳に映るは、一人の娘。
 彼女はあろうことか、精霊樹の梢にすがりつくようにして、すやすやと寝息を立てていたのだ。

「……おい」

 すーすー。

「……なあ」

 すー。

「……起きろ!!」

 こてん。

「お、おい……?」
 流石に心配になって、精霊樹の根元へと駆け寄る。枝から転がり落ちた娘は、驚いた表情のまま固まっていた。幸いなことに、生い茂っていた草花がうまく受け止めてくれたのか、どこにも怪我はないようだ。
「脅かして悪かったな」
 そっと手を差し伸べる。すると娘はにっこりと笑って、何のためらいもなくその手を取った。
 ゆっくりと立ち上がらせながら、改めてその様子を伺う。
 年の頃は十七、八ほどだろうか。柔らかに波打つ金髪と、新緑を写し取ったような瞳が美しい。肌は抜けるような――比喩表現ではなく、そのまま木漏れ日の中に融けてしまいそうなほどの――白。華奢な体をゆったりと包む服は、随分と古風な感じがした。その足元から覗く素足は赤ん坊のように滑らかで、それが美しいこの娘を、あどけない子供のように見せているのだと気づく。
「迷子、か?」
 自分のことは棚に上げて問いかけると、娘はにこにこ顔のまま首を横に振った。
「それじゃ、この森に住んでるのか」
 その問いにも首を横に振り、そうして彼女は握ったままだった手に、ぎゅっと力を込める。
 そして――

 ねすごすところでした ありがとう
 まにあわないと あとで うるさいの

「!?」

 脳裏を過ぎった言葉の意味を理解できないでいるうちに、娘はほら、と言わんばかりに空を指差す。
 次の瞬間、彼が見たものは――空を横切る、竜の大群。
 翼を広げ、鱗を煌かせて、色とりどりの竜が空を舞う。
 そんな彼らに手を振って、娘はひらり、と裾を翻した。

 わたしは ――――  あなたは?

 あまりにもさり気なく問いかけられて、咄嗟に答える。
「グラヌド=ジェダ=エラキス。親しいものはグラン、と」

 ではグラン、と彼女は言った。その途端、高鳴る胸。不思議な高揚感が全身を駆け巡り、はっと息を飲んだ、その瞬間――
 轟音と共に空へと舞い上がる、光の翼。

 またいつか おあいしましょう!

 きらきらと燐光を振りまきながら、空へと翔け昇る光の竜。夕陽にその体を輝かせながら、彼女は仲間達と共に、彼方の空へと飛び去っていった。

* * * * *

「馬鹿かお前は」

 七色に輝く木の幹にもたれ掛かり、ぼーっと空を見上げているグランの姿を見た瞬間、ゲルクは思わずそう呟いた。
「馬鹿とはなんだ」
 そう答えてから、はっと気づいたように体を起こして、隻眼の精霊使いは目の前に立つ男を不思議そうに見上げる。
「なんでお前がここにいるんだ」
「それはこっちの台詞だ! なぜ一言も言わずに出て行った! しかもあんなものを残していきおって!」
 途端に怒気を噴き上げる若き神官戦士に、気が抜けた表情でああ、と呟くグラン。
「そうか、だから道に迷ったのか」
「当たり前だ、この馬鹿者! 方向音痴が地図も持たずに森を歩けるわけなかろう!」
 そう言って、懐から取り出した何かをべし、と投げつける。難なく片手で受け止めたグランは、ぐしゃぐしゃに丸められたそれが地図のなれの果てであることに気づいて苦笑いを浮かべた。
「地図に罪はない。あたるのはお門違いだ」
「お前がいなかったんだから仕方ないだろう! 第一、お前を暴走させたそいつにも責任の一端はある! 当然の報いだ!」
 訳の分からない理屈を並べ立てて、ようやっと気が済んだのか、ゲルクはほっと肩の力を抜いた。
「見つからないかと思ったぞ。この森は広いからな」
 くたびれた、とばかりにその場にどっかりと腰を降ろすゲルクに、さしものグランもすまない、と口の中で呟いた。それが聞こえたのかどうか、どっと疲れた顔をしてゲルクは続ける。
「なぜ、何も言わずに出て行った」
「……すぐに帰るつもりだったから、それに――」
 ぽりぽりと頬を掻きながら、グランは手の中の地図に視線を落とした。
(お前なら見つけるだろうと、そう思った)
 荷物と共に残してきた、一枚の地図。
 几帳面なゲルクなら、きっとすぐに気づく。気づいて、盛大にぼやきながらも追いかけてくるに違いない。だから――万が一自分に何かあっても、後のことは何とか始末をつけてくれるだろう。
 そんな不器用な友情を、一枚の地図に託して。
 グランは夢を追いかけ、そしてゲルクは辿り着いた。
「それに、なんだ!?」
 急に押し黙ったグランを見て、怒ったように先を促すゲルク。そんな彼に、グランは小さく首を振った。
「いや……他意があったわけじゃない。急いでいたからつい、な」
「だからお前は馬鹿だというんだ! いくら急いでいたとしても、肝心の地図を持っていかないでどうする? 第一、よく地図もなしにここへ辿り着いたものだ。それだけでも奇跡じゃないか。これはもう神のご加護があったとしか思えん!」
 言いたい放題のゲルクを尻目に、グランはよいしょと立ち上がり、夕陽を浴びて輝く精霊樹をつい、と見上げた。
 夕闇迫る空を背に、凛と佇む大樹。先ほどまでの眩い光はすでになく、それでも淡く光る木の幹を見つめていると、いつの間にか隣に立っていたゲルクがぽつり、と口を開いた。
「綺麗な木だな。これが精霊樹か」
「……ああ。竜の息吹を受けた、特別な木だ」
 どこか楽しげに語るグランに、それで? とゲルクは続ける。
「竜には会えたのか」
 何気ない問いかけに、ぶはっと吹き出す。
 そしてグランは、ゲルクが怒り出す寸前に、慌ててこう答えたのだった。
「ああ! 会えたとも。寝顔のかわいい、竜の貴婦人にな!」



「さあ、帰るぞ」
 ゲルクがそう言い出した頃には、辺りはすっかり夕闇に覆われていた。
「ああ、そうだな。早く帰らないと夕飯を食い損なう」
 そう言った途端に空腹を覚えて、やれやれ、と腹をさする。そういえば朝から何も食べていないのだ、これは早いところ、宿に戻らねば。
「出掛けに女将が教えてくれたんだが、今晩の献立は鶏の香そ――」
 シュンッ……!
 空気を切り裂く鋭い音が、ゲルクの言葉を遮る。咄嗟に飛びのいた二人の足元に、次の瞬間一本の矢が深々と突き刺さった。
「なっ……!」
 咄嗟に矢筒へと手を伸ばしたグランだったが、慌てたゲルクがそれを押し止める。
「やめろ! これは森人からの警告だ! 下手に反撃するとえらい目にあうぞ」
「なに?」
 首を傾げるグランに、やはりな、と頭を抱えるゲルク。
「読んでいなかったな!? あの地図の隅に書いてあっただろう、この辺りには森人の集落があるらしいから気をつけろ、とな! 我々は近づきすぎたんだ!」
「そうか……困ったな」
 間の抜けた返答に目を吊り上げ、怒鳴り返そうとした瞬間、もう一本の矢が地面に刺さる。のんびりしている暇はなさそうだ。
「喧嘩は後回しだ。逃げるぞ!」
「ああ!」

 そうして精霊樹の下を飛び出した二人が、森人の執拗な追撃を振り切って、ようやく街に辿り着いたのは、翌朝のこと――。

「だからお前は馬鹿だというんだ! どうしてあんなにはっきり書いてある事柄を見逃す!?」
「過ぎたことをぐだぐだ言うな。時間と労力の無駄だ」
「お前、それが迷子になって迎えを待っていた人間のいうことか!?」
「誰が迎えを待っていたって? 俺はただあそこで休憩していただけだ」
「ああ言えばこう言う……! 素直に言ったらどうだ、一人で寂しかったと」
「お前と一緒にするな」

 戻った早々、いつも通りのやり取りを始めた二人に、マーリカとイーリャは盛大に笑い転げたのであった。

「本当に、仲がよろしくて」
「妬けちゃうよね〜」

「「誰がだ!!」」

 

[BACK] [HOME] [36 etude・TOP]

Copyright(C) 2005 seeds. All Rights Reserved.