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雲一つない空を余すことなく写し取り、深く青く波打つ海原。吹き抜ける風をいっぱいに受け止めて広がった帆は、船をぐいぐいと南へ押し進める。 「いい風ね! これなら予定より早く着けるんじゃない?」 海風になびく金色の髪を押さえながら陽気な声を上げるリダに、遅れて甲板へと上がってきたギルは眩しさに目を細めながら「そうだね」と頷いた。 「今、船長さんに聞いたんだけど、この調子ならあと三日でエル・バドスの港に着くってよ」 中央大陸最南端の港町グラータを発ってすでに半月。船が進むにつれ、吹きつける風や打ち寄せる波に、夏の気配が混じりはじめている。 「港に着いたらまず、着替えを見繕わないとね」 暦上では春真っ盛りだが、何せ目的地は『常夏の大陸』と呼ばれる南大陸。冬の装いではたちまちのぼせてしまうこと請け合いだ。 「ええと、エル・バドスがここだから、まず最初にスフェーンの町へ行って……」 手にした地図を睨みつけ、予習に余念のないギルに対し、寒さから解放されて上機嫌のリダは、まるで踊るような足取りで甲板を進みながら、そんなことより、と人差し指を振ってみせる。 「まず最初に酒場で情報収集でしょ! 美味しい火酒にありつけるといいんだけどなあ〜」 「リダ。美味しい酒を探しに行くんじゃないんだよ!」 真顔で釘を刺され、リダは分かってるよ、とぞんざいに手を振った。 女魔術士リダと、連れの少年ギル。 《金の魔術士》リファを探し求め、あちこちを渡り歩いた二人だったが、二年ほど彷徨ってなお、リファの居所は杳として知れない。 そんな折、これまでの旅路を記した手帳を読み返していたギルがふと漏らした一言が、今回の進路を決定づけた。 「そういえば、南大陸にはまだ行ったことがないね」 常夏の南大陸パリー。火山と砂漠が織り成す過酷な大地には、屈強な山人族をはじめとする人々が、わずかな土地にしがみつくようにして暮らしている。 西大陸から始まった二人の旅路に、これまで南大陸という選択肢が加わらなかった理由はいくつかあるが、その最たるものは『南大陸の暑さは尋常じゃない』という、実に単純明快なものだ。渡航経験がある人間だけでなく、南大陸出身者までが声を揃えて『南大陸をナメると酷い目に遭う』と真顔で忠告してくるあたり、その過酷さは推して知るべしである。 しかし、今まで一度も足を踏み入れたことのない大陸だからこそ、何か有力な手掛かりがあるかもしれない。そこで、『どうしても行くなら真夏は絶対に避けるべし』という忠告に従い、まだ春真っ盛りの中央大陸に別れを告げ、定期船の旅を満喫しているわけだ。 「……それにしても、ドルネス王国の建国に《金の魔術士》が関係しているって話は本当なのかなあ……?」 地図を見つめたまま、誰とはなしに呟くギルに、帆が落とす青い影の縁を辿るように歩いていたリダは、長衣の裾をひらりと翻して振り向いた。 「南大陸出身の山人から聞いたんだから、まるっきりの与太話ってわけでもないでしょうよ」 その話を聞きこんできたのは誰であろうリダ本人なのだが、何しろ酒場で出会った山人の戦士と飲み比べを行っている最中に出てきた話だというので、今一つ信憑性に欠ける。 「なにせ、ドルネスの建国に関しては謎が多いからね」 ドルネス王国は今から七十年ほど前、南大陸西部に興った小さな都市国家だ。南大陸では貴重な水源を有しており、その豊富な水を両隣のトゥラ王国とオーリン王国にも供給している。 「隣国に分け与えられるほどの豊かな水源を、それまで誰も発見できなかったっていうのも不思議な話だし。水の竜が関わってるなんて噂もあったからね」 そこまで行くともはや御伽噺だけど、と肩をすくめるリダ。 「まあ、何にせよ、港についたら色々と聞き込みをしないとね。ドルネスを目指すにしても、砂漠越えは免れないからねえ」 南大陸は横長の大陸だ。そして定期船が着くのは東端の国フェルスにある港町エル・バドス。そこからドルネス王国を目指すには、《情熱の砂漠》と《流沙の砂漠》の二つを越える必要がある。 「砂漠越えかあ。やっぱ、ラクダに乗っていくの?」 「いっそ、魔法の絨毯でびゅーんと飛んでいければいいんだけどねえ」 そんな軽口を交わしながら、舳へと目をやれば、海と空の境界線は淡く滲み、この青い世界が果てしなく続いているような、そんな途方もない錯覚すら覚える。 その向こうに待つ南大陸は、未だその姿を現さない。 * * * * *
紺碧の海に背を向ければ、そこは陽炎に揺れる赤茶色の町。 やっとのことで辿り着いた南大陸は、二人の想像を遥かに超える「熱」の大地だった。 「あつーい……」 船を下りた直後から、すでに茹で上がりそうな様子のリダは、定期船の船長が餞別代わりにくれた扇をひたすらに煽ぎ続けているが、熱風を掻き乱すだけでさほど効果がないように思える。 「覚悟はしてたけど、予想以上に暑いね……」 「暑いというか、痛いわ、これ」 港町エル・バドス。南大陸の玄関口であるこの町は、船長曰く『ごった煮の町』だという。確かに、行き交う人々の中には、黒褐色の肌をした屈強な船員から、赤銅色の肌に黒い髭を伸ばした山人の鍛冶職人、明らかに他大陸から渡ってきたのだろう森人の女性まで、実に多種多様だ。そんなごった煮の中でもリダの容姿は人目を惹くようで、先程から不躾な視線を送られているが、そんなものを気にする彼女ではない。むしろリダを弱らせているのは、この突き刺さるような太陽光線だ。 「やけるー……」 「リダ、日陰に入りなよ。少しはましだよ」 容赦なく降り注ぐ日差しを避けるように、建物の影を縫うようにして歩き出す二人。しかし一区画も行かないうちに、早くもリダがごね出した。 「もう無理! 暑すぎ! 早いとこ酒場に入らないと」 「またそんなこと言って……」 しかし、リダの言葉にも一理ある。こんなところをあてもなく歩き続けていたら、ものの半刻もしないうちに脱水を起こして行き倒れてしまいそうだ。 ひとまずどこか休めるところを、と辺りを見回しつつ歩いていると、不意にリダが歓声を上げた。 「あったあった! ほら行くよギル!」 「えっ、ちょっとリダ!?」 有無を言わさず引っ張っていかれたのは、酒瓶と鍋の意匠が彫られた看板が下がる店だった。突如目の前に現れた二人の姿に、軒先を掃除していた店主らしき男が目を見開く。 「ねえ、もう開いてる!?」 「あ、ああ……まだちくっと早いが、飲み物くらいは出せる。入んな」 呆気にとられつつもそう答えた店主の言葉が終わらないうちに、リダは扉を押し開けて店内へと突入し、長椅子にどっかりと身体を投げ出して、気の抜けた声を上げていた。 「はあ〜、暑かったあ〜!」 「リダ、行儀が悪いよ! ……あれ、涼しい」 店内は意外にも涼しくて、思わず驚きの声を上げるギルに、後ろからやってきた店主が豪快な笑い声を上げる。 「やれやれ、あんた達、南大陸は初めてだね?」 「こんなに暑いなんて聞いてないわよ!」 「なに、今年はパリー様のご機嫌が良すぎるようでな。ほれ、ヴェルナス山もあの調子さ」 見れば、窓の向こうにそびえる山からは景気よく噴煙が上がっている。火山を見ること自体初めてだったギルは思わず顔を引きつらせているが、店主は平然として、開店準備に余念がない。 「大丈夫なの、あれ」 「なぁに、何かあれば神殿から知らせがあるさ」 山麓には火の女神パリーを祀る本神殿がある。山人達が技術の粋を集めて作り上げた荘厳な神殿は南大陸随一の観光地だが、火山に異常があった際にはいち早く警報を出す役目も担っているという。 雑談を交えつつ手際よく掃除を終えた店主は、一旦奥へ引っ込むと切り分けた瓜を載せた盆を手に戻ってきた。 「ここらでは飲料水よりこっちの方が安い。まあまずはこれで水分補給をするこったな」 歓声を上げて瓜へと手を伸ばす二人。口の周りが汚れるのも気にせず、果肉にむしゃぶりつく彼らを微笑ましげに見つめながら、店主はそうそう、と言葉を続ける。 「あんた達、茹でダコになりたくなかったら、その服はさっさと脱いだ方がいいぞ。ただし、灼熱の太陽に肌を晒すのも自殺行為だ。一息ついたら市場で古着でも見繕うといい」 「言われなくてもそうするわよ。それにしても、こっちは想像してた以上に乾いてるわね」 「そりゃそうさ。なんでも、この大陸は火の精霊力が強いんだと。故に水は蒸発して大地は涸れ、風は熱波となって砂漠を吹き抜けるって寸法さ」 火山と砂漠の大陸。それが南大陸だ。生き物は少ない水場にしがみつくようにして、どうにかこうにか暮らしている。 「ところでおじさん、ちょっと聞きたいんだけど。この大陸で《金の魔術士》の噂を聞いたことはない?」 珍しくも早々に本題へと入るリダに、店主は小首を傾げてみせた。 「《金の魔術士》? ……いや、知らんなあ。なんだい、そんなに有名なお人なのかい?」 「なんか、西のドルネス建国に関わってたって話を聞いたんですけど……」 リダとっておきの情報を付け加えてみたが、店主はうーんと唸り声を上げるのみだ。 「ドルネス建国ねえ。……確かに、建国王のお仲間には腕の立つ剣士や精霊使いがいたって聞いたが……。建国から随分経ってるし、なにせ大陸の端と端だ、詳しい話までは分からないねえ」 「そっか……そうだよね」 見るからに落胆するギルに、申し訳なさそうに頭を掻く店主。そして、ふと思い出したように口を開く。 「その魔術士の話は知らないが、面白い話なら一つ知ってるぞ。近づくと消えてしまう、不思議な都市の話だ」 「なにそれ! 詳しく教えてよ!」 俄然食いつくリダに苦笑を漏らしつつ、店主は二人の前の椅子にどっかりと座り込むと、朗々たる声で語り始めた。 それは、砂漠を彷徨う《蜃気楼都市》の話――。 南大陸の西部に広がる広大な砂漠。 そこにはかつて、一つの都市があった。 都市の名は《シャンディア》。南大陸古語で陽炎を意味する名を冠した都は、交易の中継地点として栄えていた。 多い時には数万の人々が暮らしていたという大都市シャンディア。 栄華を極めた都はある日突然、流砂に飲み込まれ、消えてしまう。 蜃気楼に、その姿を残して――。 「それ以降、その一帯は《流砂の砂漠》と呼ばれるようになったってわけさ。その後、数多くの人間が《流砂の砂漠》でその蜃気楼を目撃しているが、近づこうとしても遠ざかり、いつしか消えてしまう。やがて人々はそれを《蜃気楼都市シャンディア》と呼ぶようになった……。そんな話さね」 長い話を終え、ふうと息を吐く店主。茶でも持ってこよう、と再び奥に引っ込んだ彼を見送って、二人は顔を見合わせた。 「蜃気楼に消えた都市、か……。ちょっと興味あるね」 「まあ《金の魔術士》とは無関係だろうけど、気になる話よね。どのみち、ここからドルネスに行くには《流砂の砂漠》を通るんだし、上手く行けば見られるかもね」 呑気にそう言って、三切れ目へと手を伸ばすリダ。この調子ではギルが一切れ食べ切る前に、盆が空っぽになりそうだ。 「ちょっとリダ、俺の分もちゃんと残しといてよ!」 「早い者勝ちよ」 ふふんと鼻を鳴らし、猛烈な勢いで瓜を齧る女魔術士に、少年は「大人げないなあ」と溜息をつくと、食べかけの瓜に改めて齧りついた。 * * * * *
「はい、お釣りね。毎度あり」 古着の選定から値段交渉まで半刻ほど粘られた挙句、着替える場所まで提供する羽目になった古着屋の主人は、若干げんなりした顔で銅貨を差し出すと、やれやれと簡易椅子に座りこんでしまった。 「いやあ、いいわねこの服。思ったより暑くないし動きやすいわ」 早速買った服に着替えたリダは、その眼の色と同じ鮮やかな青の模様に染め抜かれた伝統衣装に上機嫌だ。 「すいません、色々無理を言って……」 同じく着替えを済ませたギルに手を合わせて詫びられた古着屋の店主は、ひらひらと手を振ってみせる。 「いいってことよ。買い取らせてもらった服を、これから船に乗る連中に高値で売りつければ済むこった」 今まで着てきた服は持っていても荷物になる。ギルの服はともかく、リダの服は仕立てのいいものが多いから、値切られた分は十分取り戻せると踏んだのだろう。 「そういやあんた達、ドルネスに行くんだって言ってたねえ。砂漠越えを選ぶってことは《蜃気楼都市》目当てかい?」 同じことを市場のあちこちで聞かれたので、思わず苦笑を漏らしながらも頷いてみせるギル。ここからドルネスへ向かうには、海沿いを進む遠回りな道程と、最短距離で砂漠を突っ切る道程がある。後者を選ぶ者の中には、砂漠を通るついでにシャンディアを一目見たいという旅行客が多いらしい。 「おじさんはシャンディアを見たことがあるんですか?」 ギルの問いかけに、店主はいいやと首を横に振ってみせた。 「そう簡単に見られるもんじゃないんだ。知り合いの隊商でもう何度も砂漠越えをしている連中がいるが、彼らでもそう何度も見たわけじゃないと言っていたよ」 蜃気楼の出現位置や時間は不規則で、狙って見られるものではないという。 「運よく間近に現れた時には、そこに今でも暮らしている人々の声まではっきりと聞き取ることが出来た、なんて話もあるがね」 どこまで本当かは分からんが、と付け加える古着屋の店主に改めて礼を言い、店を後にする。 思わぬところで時間を食ってしまったが、ようやく出発することが出来そうだ。よいしょと荷物を担ぎ直して気合を入れるギルを横目に、リダがぼつりと呟いた。 「どうも、ただの蜃気楼ってわけじゃなさそうだね」 「え、どういうこと?」 思わず目を瞬かせる少年に、リダはうーんと眉根を寄せてしばし考え込むと、唐突に全てを投げ出したような顔になって、実にざっくりとした説明を始めた。 「蜃気楼っていうのは――簡単に言うと、ある景色がまったく違う場所に映し出される現象だ。でも、それは姿だけなんだよ」 「えっと……つまり、音まで聞こえるはずがない、ってこと?」 恐る恐る尋ねれば、青い布の奥で、同じくらい青い瞳がきらりと輝く。 「そういうこと。となると、普通の蜃気楼じゃない可能性が高い。――魔術的なものである可能性も、否定できないってわけだ」 これはますます見逃せないね、とにんまり笑うリダに、南大陸行きを提案した張本人であるギルは、自分の提案があながち的外れでもなかったことに、ほっと安堵の息を漏らしたのだった。 * * * * *
「はあー、生き返るわ!」 木陰で喉を潤しながら、歓声を上げるリダ。 エル・バドスを発って十日、ようやく辿り着いた水場《ルス・ジレータ》は、緑の木々が生い茂り、澄んだ水を滔々と湛えた泉が広がる、まさに憩いの場だった。 砂漠のど真ん中にぽつんと佇むこの水場は、《流砂の砂漠》の中でもっとも大きく、また歴史のある水場だという。古くから隊商の休憩地点として栄えており、観光客向けの豪華な宿屋まであるというから驚きだ。 「はい、リダ。焼きたてをもらって来たよ」 リダが木陰から動こうとしないので、仕方なくあちこちの露店を回って昼食を調達してきたギルは、じゅうじゅうと美味しそうな音を立てる肉の串を手渡すと、リダの隣にしゃがみ込んだ。 香辛料たっぷりの串焼きに豆と臓物の煮物。そして定番の、水気たっぷりの瓜。すっかり慣れ親しんだ異国の味を堪能する二人の髪を、泉を渡る風が優しく撫でていく。 「これで水浴びが出来たら最高なのにねえ」 眼下に広がる水面を見つめながら、心底残念そうに呟くリダ。 《ルス・ジレータ》の命とも言える水場は、乾いた砂漠の中にあって、百年以上も涸れたことがないという。この地に生きる民の共有財産であるため、厳しい利用制限が設けられており、昼夜を問わず監視の目が光っている。勝手に汲むのはもちろんのこと、水浴びなどもってのほかだ。 「ドルネス王国には誰でも使える水練場があるって、隊商の人が言ってたよ」 「ふうん。故郷にいた頃は水遊びなんてごく当たり前だと思ってたけど、ここで聞くと贅沢な話よね」 リダが生まれ育ったのは西大陸にある湖畔の町ルークスだ。家から歩いてすぐのところに湖があり、夏は水遊び、冬は凍った湖上を滑って遊んだりと、幼い頃から湖に親しんでいたという。 「ああ、そうだ。その串焼きを売ってたお店の人に聞いたんだけど。この《ルス・ジレータ》の外れに歴史研究家のおじいさんが住んでて、その人は自身を『シャンディアの民』だと吹聴して回ってるとかなんとか……」 そう言った途端、目を瞬かせ、勢いよく立ちあがるリダ。 「それを早く言いなさいよ! さっさとその人に話を聞きに行くよ!」 「ちょっ、待ってよリダ! まだ俺食べ終わってない……!」 「はーやーくー!」 子供のように急かされて、仕方なく残りの肉をまとめて串から齧りとり、猛然と咀嚼する。そうして慌ただしく腹ごしらえを済ませたギルは、すでに歩き出しているリダのもとへと駆けていった。 「ほう、来客とは珍しい」 町外れの粗末な小屋で、本に埋もれた老人は日に焼けた顔でくしゃりと笑ってみせた。 「あ、あの、ナジェムさん……ですか?」 「いかにも。この老いぼれに何のご用かな? 異国の旅人よ」 枯れ木のように痩せ細った体に一枚布の服を巻きつけ、ずり落ちた眼鏡をぐいと上げて眩しそうにこちらを見つめてくる老人こそが、近所で噂の「ほら吹き爺さん」こと歴史研究家のナジェム老だった。 「あんたが『シャンディアの民』って本当?」 単刀直入に尋ねるリダに、老人は禿頭をつるりと撫でて笑う。 「こりゃまた、はっきりとものを言うお嬢さんだ。立ち話もなんだ、そこに座るといい」 促されるままに、乱雑に詰まれた本の間にどうにか腰を下ろせば、老人は読み途中だったらしい本を傍らに押しやり、よっこいしょと二人に向き直った。 「さて、せめて名前くらいは聞かせてくれるかの?」 至極もっともな言葉に、すみませんと頭を掻くギル。 「俺はギル。こっちは――」 「リダ。魔術士よ」 ふんぞり返って名乗る異邦人に、ナジェム老はほうほうと顎を掴む。 「なんとまあ、噂の魔術士がこんなに若いお嬢さんだったとはのう」 どんな噂かは恐ろしいので聞かないでおこう、と目を逸らすギル。一方のリダは「若いお嬢さん」という単語に気を良くしたらしく、まんざらでもなさそうに「私も有名になったものね」と嘯いてみせた。 「さて、いかにも儂は『シャンディアの民』じゃよ」 眼鏡の奥で、金色の瞳がきらりと光る。金属めいた光を放つ双眸に宿る輝きは、周囲が噂するような「頭のおかしい爺様」のそれではなく、長い時を経て磨きこまれた英知の光だ。 「それじゃあ、シャンディアはただの御伽噺じゃなくて、本当にあったってわけね」 慎重に問いかけたリダに、老人は重々しく頷いた。 「――シャンディアは実在する、それは確かじゃ。何しろ、儂はそのシャンディアで生まれ育ったのだからのう」 その言葉に、リダだけでなくギルもが目を見開いた。 シャンディアの民。その言葉を聞いた時、二人はそれを「遥か昔に滅びた都市に暮らしていた民の末裔」の意味で受け取っていた。 しかし、彼はたった今、確かに言ったのだ。 「かの地で、生まれ育った!?」 青い目を見開いて詰め寄るリダに、老人はにかっと白い歯を見せて笑う。 「そう、儂こそがシャンディアの生き証人というやつじゃよ」 シャンディア。砂漠の幻と化した《伝説の都市》。 かつては交易の要所として栄えていたシャンディアは、都市全体が高い防壁で守られており、人々で賑わう広場には大きな噴水まであったという。 噴水だけではない。町には上下水道が整備され、またあちこちにある水飲み場では誰でも喉を潤すことが出来た。 水源となっていたのは、都市の真ん中にある大きな湖。数多の詩人がこぞって褒め称えたその湖こそがシャンディアの生命線であり、この豊富な水源があったからこそ、都市は発展を続けることが出来たのだ。 「湖畔には一風変わった形の屋根を持つ王宮があってな。その向かいには『時空の双神殿』があったんじゃ。こちらは荘厳な佇まいの建物で、各地から集まった神官達によって様々な研究が行われていた」 「双神殿?」 聞き慣れない言葉に首を傾げるギル。その途端、リダが少年の脇腹をげしっと小突く。 「二柱の神を共に祀る特殊な神殿のことよ。時空の双神殿なら、時間の神ルファスと空間の神トゥーランをまとめて祀ってるってわけ」 「な、なるほど……」 痛烈な一撃に目を白黒させながら相槌を打つギルに、ナジェム老はほほ、と梟のように笑う。 「最近はあまり見かけなくなったからのう。少年が知らんのも無理なかろうて」 「こいつが世間知らずなだけよ。私の故郷にもあったわよ、ガイリアとユークを合祀してる神殿がね。……あんまり評判は良くなかったけど」 「……確かに、治療所と墓場が同じところにあるんじゃ、気分的にちょっとね……」 たはは、と頬を掻く少年に、老人は朗らかに笑う。 「なぁに、生きるも死ぬも神々のお導き。あとはそう、本人の運次第じゃて」 齢百を超える彼が言うと、何とも重みのある言葉だ。 そんなナジェム老は、自身の発した言葉に何か思い出すものがあったのか、ふと目を細めて、そして続きを語り出す。 「そう……儂は運が良かったんじゃよ。シャンディアが滅亡したのは、忘れもしない。儂が六歳の折じゃった。あの日、あの時――儂と、その時抱えていた子ヤギだけが本当に運よく、難を逃れてしもうたんじゃ」 一言一言、噛みしめるような述懐。その言葉に滲むのは、まるで深い悔恨の念であるように聞こえた。 「一体、シャンディアで何が起こったっていうのよ?」 ずばりと切り込むリダに、しかしナジェムはぐっと唇を噛み、まるで悪夢を振り払うかのように首を横に振る。 「……ここで話したところで、お前さんらにはきっと理解できまいよ」 なによそれ、と憤慨するリダをまあまあと宥めて、老人の前に進み出るギル。 「それならせめて、お願いです。シャンディアのあった場所へ案内してもらえませんか。蜃気楼都市は砂漠を彷徨っていると聞いたけど、それが実在したというのなら、あなたはその場所を知っているはずだ」 まっすぐに見つめる少年の瞳。その力強い輝きに目を細めて、老人はふむ、と頷いた。 「……今日、この時に、力ある魔術士が訪ねて来るとは、まさに神のお導きというヤツじゃな」 きょとんとする二人を目の前に、すっくと立ち上がるナジェム老。その金色の双眸は、まるで灼熱の太陽の如く光り輝いている。 「儂はこの日を待っておったんじゃ。いざゆかん、蜃気楼の町へ!」 * * * * *
「いーやーよ! ラクダはもう飽き飽き!」 子供のように駄々を捏ねてみせるリダに、老人はやれやれと言わんばかりにお供の少年をちらりと見やった。 「このお嬢ちゃんはいつもこんな調子なんかのう?」 「いやその、最初は「砂漠と言えばラクダよ!」とか言ってものすごく乗り気だったんですけど、一日でめげたみたいで……」 最初は『御伽噺に出てくるお姫様の気分ね』などと上機嫌だったリダも、すぐに『尻が痛い』『飽きた』と言い出し、最後の方は無理を言って隊商の荷車に乗せてもらっていたほどだ。 「そうは言うてもなあ」 出足を挫かれ、困り顔で頬を掻く老人を尻目に、ぶーぶー文句を垂れていたリダだったが、突如がばっと顔を上げると、「そうよ!」と立ち上がる。 「もっと楽な方法を思いついたわ! ちょっと待ってなさい!」 言うが早いか、小屋を飛び出していったリダは、なぜか古びた絨毯を抱えて戻ってきたものだから、待ちぼうけを食わされて呑気に茶を啜っていた二人は、目が飛び出るほどに驚いた。 「なんで絨毯!?」 「いいから待ってなさい! じいさん、ちょっと小屋を借りるわよ。さあどいたどいた!」 訳も分からぬまま外に追い出され、呆然と立ち尽くすナジェム老。その横で、少年はがっくりと肩を落とす。 「リダがああなったら、終わるまで何を言っても無駄です。待ちましょう」 幸い、まだ日が落ちるまでには時間がある。小屋の外には壊れかけの腰掛けがあったので、何とか持ち出せた茶器一式をそこに置いて、ギルは老人を腰掛けへと誘った。 「どうせ時間がかかるだろうから、その間に食料と水を仕入れてきます」 留守番よろしく! と手を振って市場へと駆けていく少年を見送って、ナジェム老はずずいと茶をすすると、ぽつりと呟いたのであった。 「ここ……儂の家なんじゃがのー」 市場を一回りして、当座の食料と水を買い込んで戻ってきたギルは、出ていった時と同じ姿で茶を飲んでいる老人の姿に、ありゃりゃ、と頭を掻いた。 「まだ終わってませんか」 「そのようじゃの」 小屋から漏れ聞こえてくるのは、鼻歌にも似た謎の詠唱。それはともかく、同時に響いてくる「がりがり」という音は何なのだろう。 「あのお嬢ちゃんは、一体何をしておるのかのう?」 小屋の中から漏れてくる不穏な物音に怯えながら、そう問いかけるナジェムに、ギルは荷物を下ろしながら、どこか楽しげに答える。 「多分ですけど――冗談を本気にするつもりなんだと思いますよ」 はて? と老人が首を傾げたその瞬間。泡が弾けるような音と共に、小屋の隙間から眩い光が漏れ出し、辺りを包み込んだ。 「なんじゃあ?」 「うわっ……!」 咄嗟に立ち上がり、身構えたギルだったが、音と光はすぐに収まり、危惧していた爆発も何もなく――どうやら儀式は成功したらしい。 「出来た―!」 心底嬉しそうな声が聞こえてきて、恐る恐る小屋の入口から中を覗き込めば、そこには床の上に描かれた魔法陣と、その上でふわふわと浮き上がる絨毯の姿があった。 「やっぱり、砂漠を旅するならこれよ、これ!」 それはまさに、御伽噺に出てくる『魔法の絨毯』。持ち主の命じるままに砂漠の空を翔ける、あの『夢の魔具』だった。本来なら長い時間をかけて、それこそ絨毯を織るところから始めるような代物だが、即席ながらも見事完成させたリダは至極ご満悦の様子だ。 「うわあ、本当に作っちゃったんだ……」 呆れ半分、喜び半分で額を押さえるギルの横で、ナジェム老は物珍しげに絨毯をつつく。 「ほお! 魔法の絨毯とな!」 枯れ木のような指でつつくたび、大人の腰ほどの高さで浮いた絨毯がぷるんと波打つ。しかし、全体の平衡は保たれたままだ。 「でもこれ、三人も乗ったら重さで地面についちゃうんじゃない?」 もっともな疑問を口にしたギルに、リダはあっけらかんと「やってみないと分かんないわよ」と答えた。 「ほら、乗ったのった!」 「ええええ、俺が最初!?」 背中をぐいぐい押され、恐る恐る絨毯に片膝をかける。途端にぐにゃりと波打つ絨毯に慄きつつ、そっと体重をかけていく。そうしてどうにか絨毯の中央部分まで進み、膝を抱えてちんまりと座るギルに、リダは満足げに頷いた。 「うん、思ったより沈んでないわ。ほら、じーさん。あんたも乗ってみて!」 「よしよし、小僧や、手を貸しとくれ」 ギルの手を借りて、慎重に絨毯へと乗るナジェム老。二人分の体重がかかった絨毯は、先程より若干下がったものの、まだ床までは余裕がある。 「うん、大丈夫! 行けるわよ」 最後に悠々と絨毯に乗り込むリダ。三人分の重さをどうにか支えた絨毯は、大人の膝ほどの位置で静止していた。 「……なんかこう、想像してたのより低いんだけどさ」 「魔法の絨毯といえば、屋根を超えて自由に空を飛び回るもんじゃなかったかのう」 「うるさいわね、急いで作ったんだから、浮くだけマシだと思いなさいよ!」 二人からの突っ込みに、顔を赤くして怒鳴るリダ。さすがに満足の行く出来とは言えないようだが、ラクダより尻にやさしいことだけは確かだろう。 「移動手段はこれでよし! あとは水と食料を積んだら出発よ!」 「その前に――」 鼻息荒く行動開始しようとするリダを制し、ギルはよいしょと絨毯から降りる。 「この絨毯に乗ったままじゃ扉を通れないよ」 至極ごもっともな指摘に、気勢を削がれたリダはむすっとした顔で絨毯から飛び降り、そのはずみで座ったまま宙に放り出されたナジェム老は、すんでのところでギルに受け止められて、いやはやと目を瞬かせたのであった。 * * * * *
夜の砂漠は恐ろしいほどに静かだ。 星の瞬きが聞こえるような、そんな錯覚さえ覚えるほどに静まり返った砂の海を、魔法の絨毯は滑るように進む。 絨毯による空の旅は思いのほか快適で、リダだけでなく、ラクダでの移動に慣れたナジェム老もご満悦だ。 「思ったより揺れんし、なにより早い! これは素晴らしいのう」 「言っておくけど、絨毯にかけた魔法はあんまり長続きしないからね」 本来、魔具を作るには長い時間をかけて魔力と術式を道具に定着させる必要があるという。この絨毯にはあくまで一時的に飛行の魔術を付与したに過ぎない。 「どのくらいもつの?」 不安になってそう尋ねれば、リダは織り込まれた複雑な文様を指でなぞりながら、そうねえと呟いた。 「……頑張って三日ってところかしら。そうしたらまた術を掛け直さないといけないから面倒だわ。それまでに辿り着くといいんだけど」 「なぁに、この絨毯はラクダよりも早い。五日を見込んでおったが、これなら三日とかからず到着するだろうて」 ナジェム老はこれまでに何度も、一人でラクダを駆り、故郷シャンディアの跡地を訪れたことがあるという。しかし寄る年波には勝てず、ここ十年ほどは小屋にこもって研究に明け暮れていた。 「最近の研究で、シャンディアの出現位置にはある程度の法則性があることが分かり、それをもとに次の出現位置の推測も可能となった。そして極めつけはお前さんらの来訪じゃ。神々は儂を見放さなかったということじゃな」 感慨深く顎を掴む老人に、容赦なく怒声を浴びせるリダ。 「じいさん! 浸ってないで、さっさと次の目印を教えなさいよ!」 「そう急かすでない。ほれ、ヴァダムの泉が見えてきた。あそこで一度休憩するとしよう」 老人が指し示す水場を目指し、絨毯はするすると進む。垂れさがった房飾りが砂をなぞり、風紋に抗うようにその軌跡を刻んでいく。 ゆっくりと、しかし確実に。 伝説の都市へと至る道を、彼らは進む。 そうして、絨毯に乗って砂漠を旅すること、二日と半日。 夜明け前の薄暗い砂漠、夜のうちに冷え切った砂の上に、ふわりと降り立つ魔法の絨毯。 「――ここじゃよ」 老人が導いたその場所は、砂に埋もれた都市の遺跡だった。 「――ここが、シャンディア?」 呆然と立ち尽くすリダの口から零れた呟きが、風に攫われていく。 砂に埋もれた廃墟。日干し煉瓦の町並みはほとんどが砂に消え、原形をとどめていない。 「そうとも言えるし、そうでないとも言える」 辛うじて残っている建物の壁にもたれかかり、老人は謎かけのような答えを返す。 「何よそれ!?」 憤慨するリダを横目に、ギルは薄闇に溶け込む廃墟をぐるりと見渡して――とある「違和感」に目を瞬かせた。 「リダ、ここ……なんか、変だよ」 これまで数多くの遺跡に潜ってきたギルだからこそ気づいた、これまでの遺跡とは明らかに違う「何か」。 「……なんていうのかな、あまりにも綺麗に欠けてるっていうか」 例えば、ナジェムが寄りかかっている壁は、壁の真ん中あたりからかつて天井があった部分まで、まるで巨人が大剣で薙ぎ払ったかの如く、すっぱりと失われている。 風化して崩れたのとは明らかに違うその光景に、リダも確かに、と顎を掴んだ。 「……ちょっと妙だね」 そう呟いて、おもむろに詠唱を開始するリダ。長い呪文を一息で唱えきって、仕上げに足元の砂を杖でとんと一突きすれば、その体がふわりと宙に浮き上がる。 「ちょっと見て来るわ」 「お嬢ちゃん!?」 目を丸くして見上げてくる老人にそう言い残し、辺り一面が見渡せる高度まで一気に上昇して、ぴたりと止まる。眼下に広がるのは砂の海と、半ば埋もれるようにして佇む建物群。その異様な姿に、リダはぎょっと目を剥いた。 「なに、これ……?」 ギルの言葉がようやく腑に落ちた。風化した建物群は、まるで町の一部だけが抉り取られたかのように、不自然な形で残っている。それはまるで、画家が書きかけの絵を『気に入らない』と白く塗り潰したものの、画布を押さえていた手の部分だけうっかり塗り残してしまったような、そんな様子だった。 「……どういうこと?」 思わず首を傾げるリダだったが、ここで考えていても埒が明かないし、なにより夜通し絨毯を飛ばした後だから、そろそろ魔力が尽きてしまう頃合いだ。 しかたなく地上へ舞い戻り、今見てきたことを伝えると、老人はしたり顔で頷いてみせた。 「言い得て妙じゃな。ここはシャンディア最西端、住宅街の端っこじゃよ。ここだけが残った。儂と共にな」 そう答える老人の横顔から伝わってくるのは、狂おしいまでの悔恨の念。 「ちょっとじいさん、それってどういうこと!?」 思わず声を荒げるリダ。響き渡る声に驚いたのだろう、金色の瞳をぱちぱちと瞬かせたナジェム老は、元の飄々とした様子に戻って、砂の上にすとんと腰を下ろした。 「まあ、そう急くな。まだ夜明けまで時間がある。一つ、面白い話をしよう」 交易で栄え、砂漠の宝石と讃えられた都《シャンディア》。 過酷な環境にあって、豊かな水源を抱え、頑強な防壁に守られた都市で、人々は豊かな日々を送っていた。 そんな平和な都市に緊急事態を知らせる鐘の音が鳴り響いたのは、とある夏の午後だった。 短く三回、一拍置いて短く三回。ひたすらに繰り返される合図の鐘。 それは、砂漠において一番の脅威――砂嵐の来襲を告げる鐘の音だった。 「――その時、儂は自宅におってな。砂嵐が来るというので家族や近所の人間は王宮の方へ避難しておったんだが、儂は可愛がっていた子ヤギを連れていこうとして、一人出遅れてしまったんじゃよ」 迫りくる砂嵐の音に怯えて動こうとしない子ヤギを、どうにかして連れて行こうと奮闘していた、その時――。 突如として、目の前の壁が消えた。 壁の向こう側にあった居間、鍋の煮える台所、洗濯物の翻る庭、土埃の舞う道、人々で賑わう広場――都市そのものが、消えた。 まるで、最初から何もなかったかのように、消えてしまったのだ。 「一人残された儂は、目の前で起こったことが理解できずに、しばらくその場に立ち尽くしておったよ」 しばらく経って、ようやく事態を呑み込んだナジェムは、とにかく助けを呼ぼうとその場を離れた。そして子ヤギと二人連れで砂漠を越えようとして立ち往生しているところを、通りかかった隊商に保護されたのだ。 衰弱しきった彼を拾って面倒を見てくれた隊商の長は、『自分はシャンディアの民である』と語るナジェムに、それは思議そうに首を傾げたものだ。 「シャンディア? この辺りにそんな町があったかね?」 絶望の淵を見た、そんな思いだった。 彼の生まれ故郷は、つい数日前まで確かに存在していた都市国家は、人々の記憶からも失われてしまったのだ。 打ちひしがれる少年を乗せた隊商は、やがて《ルス・ジレータ》へと到着した。 手当たり次第に人々を捉まえて尋ねたが、返ってくる答えは同じ。《ルス・ジレータ》の人々の記憶からも、シャンディアの存在は綺麗に消え失せていた。 帰る場所も、頼れる縁もない。この世で独りぼっちになってしまった少年を、隊商は雑用係として雇ってくれた。 そして少年は《ルス・ジレータ》を拠点にあちこちへ荷物を運ぶ隊商の雑用係として忙しく働きながら、その一方でシャンディアが突如として消えた原因を探るべく、独自の研究と調査を重ねてきたのだ。 「最初は、なぜ急に都市が消えたのか、なぜ人々の記憶からも消えてしまったのか、皆目見当もつかなかった。自分の方がおかしくなってしまったのではないかと、何度も自問自答したよ」 心の支えになったのは、立派に成長したヤギと、そして隊商に残っていた商取引の記録。 そう。記憶が消えても記録は残る。シャンディアの痕跡は、書物や交易の書類、はたまた子どもの落書きなど、随所に残っていた。 「記録だけが残る謎の町、かあ……」 事情を知らなければ、実に興味深い怪奇譚だ。ギルの呟きに老人は深々と頷き、頬杖をついたまま深々と息を吐く。 「それが逆に人々の想像を掻きたてたのか、いつしか巷では『流砂に消えた伝説の都市』の噂が囁かれるようになってのう」 気付けば、一帯は《流砂の砂漠》という名で呼ばれるようになり、ついこの間まで確かに存在していた都市は、何百年もの昔、一夜にして流砂に飲み込まれたことになっていたのだから、噂とは実に恐ろしいものだ。 ただ一人真実を知るナジェムが声を嗄らして主張しても、相手にされないどころか、むしろ狂人扱いされる始末。もどかしい思いを抱えながら、それでも彼はひたすらに真実を追い求めた。 「しばらくしてから、砂漠のあちこちで『蜃気楼の都市』を見たという話を聞くようになってな。話を聞くために東奔西走し、実際にこの目でも見て、確信したんじゃよ。あれは我が故郷シャンディアだ、とな」 不思議なことに、『蜃気楼の都市』は元々シャンディアのあった場所とは全く関係のない場所にも出現しており、出現する時刻も時期もバラバラだった。それでも根気よく調査を続け、ようやくある程度の規則性を見出すことが出来た。 とはいえ、蜃気楼が現れるのは年に数回、しかもほんのわずかな時間だけ。何度挑戦しても遠目に見るのが精一杯で、都市の中に入ることが叶わなかったとナジェム老は語る。 「偶然、都市が出現したその場所に居合わせた、幸運な旅人達もいる。彼らの話では、住人達の話す言葉までが明瞭に聞き取れたそうでな。しかし、住人達は旅人の存在に気づくことはなく、また住人や建物に触れようとしても叶わなかったそうじゃよ」 不思議がっているうちに蜃気楼は何処かへと消え去り、彼らは砂漠のど真ん中に取り残された。一人であれば白昼夢で片づけてしまっただろうが、彼らは三人組だった。三人が同時に同じ夢を見るわけがない。あれはシャンディアだ、噂の蜃気楼都市を体感したのだと、興奮気味に語ったという。 「……なるほど。何となく見えてきたわ。特定の条件下でのみ現れる幻、音は聞こえても触れることはできないとなると――時空の歪み、かな」 リダの言葉に、金色の双眸をきらりと煌めかせるナジェム。 「――ご名答。さすがは魔術士、博識じゃな」 尊敬の眼差しを向けてくる老人に、リダはげんなりと手を振ってみせた。 「時空に干渉する魔術は禁呪指定されてるからね。だからこそ逆に極めようとする輩が後を絶たないんで、そういうのとやり合ってると嫌でも色々覚えざるを得ないってものよ」 「あー……この前もいたよね、時を巻き戻す呪文を掛けてリダを無力化しようとしたヤツ。……全然効果なかったけど」 単に術が失敗したのか、それとも長命な森人の血を引いているリダには多少の巻き戻しなど効果がなかったのか、真相は定かではない。 何が言いたい、とばかりに少年を睨みつけてから、リダは「それで?」と話の続きを促す。 「ええと、どこまで話したかの。ああ……その旅人の話では、『砂嵐から逃げる術を見出した』『双神殿長が凄い術を使う』という言葉を聞いたそうな」 あの時、ナジェムも母から「王宮へ避難するようにというお達しが来たから急ぎなさい」と急かされた。 都市を脱出せよ、ではなく、人々は都市の真ん中にそびえる王宮へと集められていたのだ。 しかし、それが何を意味するのか、当時は疑問にすら思わなかった。 「双神殿はそもそも珍しいものじゃが、時空の双神殿はその中でも最たるものよ。神殿で何が研究されていたのか、そしてあの日、神殿長が何の術を使おうとしたのか、それを調べる必要があると踏んでな。長い調査の結果、双神殿で行われていた研究の一端を知ることができたんじゃよ。そして、一つの仮説に辿り着いた――」 時空の二神を祀る双神殿では、世界各地から神官や研究者が集まって研究に勤しんでいた。その中には、魔術・神聖術双方で禁呪指定されている『時間や空間を操作する術』も含まれていた。 そして、運命の日――。 突如シャンディアを襲った巨大な砂嵐。双神殿長は都市を守るため、研究途中だった時空操作術を使用して、都市を丸ごと移動させようとした。しかし、術は失敗して暴走。シャンディアは時空の狭間に飛ばされてしまった――。 「時空の狭間に……」 思わずごくりと喉を鳴らすギル。魔術に疎い彼でも、それがどんなに恐ろしいことかは何となく想像できる。 「さよう。禁呪に手を出したことが、神々の怒りに触れたのかもしれん。そして恐らくは、あの日の数時間を繰り返しながら、この砂漠を彷徨っておるのだと、儂はそう考えておる」 「……それ、神殿に伝えたの?」 リダの言葉に、ナジェムはもちろんだとも、と頷いてみせた。 「この仮説に辿り着いた折に、トゥーラン・ルファス両神殿へ相談しに行っておる。彼らも《流砂の砂漠》における時空の歪み自体は認知しておったようでな、儂を狂人扱いせず、きちんと話を聞いてくれたよ。しかし『禁呪の暴走という異常事態に対処できる手段は、今の我々にはない』と、どちらの神殿からもはっきり言われてしもうた」 対処を試みると請け負ってはくれたが、なにしろ二種類の神聖術を組み合わせた禁呪だ。両神殿も頭を抱えているらしい。 「魔法でどうにかできないの、リダ」 神聖術が神の力を借りるものなら、魔術は己が魔力を用いて世界そのものに干渉する術だ。術の自由度は神聖術を遥かに上回る。 しかしリダは、そんな少年の問いかけに対し、お手上げとばかりに肩をすくめてみせた。 「時間と空間を操作する術は、魔術でも禁呪扱いだからね。こっそり研究してる奴はいるけど、もし研究が上手くいって実用化できたとしても、都市丸ごと時空の狭間に消えたなんて桁違いな異常事態をどうにかできる魔術式なんて、見当もつかないよ」 それこそ『桁違いの魔力』と『非常識な術式構築』を得意とするリダが言うのだから、その言葉には非常に重みがある。 「その通り。儂も幾人もの魔術士に相談を持ちかけたが、同じことを言われたよ」 そのうちの一人は、申し訳なさそうに一通りの説明をした後、こう付け加えたという。 『この異常事態を打開できるとしたらただ一つ――神々による直接介入を願うことですね』 「神様の、直接介入?」 聞き慣れない言葉に首を傾げるギルの横で、リダは呆れ顔だ。 「それって、高位の司祭が自分自身に神を降ろすってやつでしょ? 出来る人間もそうそういないって話じゃない」 「さよう。しかも、その究極の神聖術を行使した者は、その魂ごと消滅するそうじゃ。今のところ、なんの実害もない《蜃気楼都市》を救うために、そこまでの犠牲を払おうという者もおるまいよ。まして、そもそもの原因が『神々の怒りに触れたため』のだとすれば、それをどうにかしてくれと神に祈ることは逆効果だろうて」 その魔術士もそう言って、自身の無理難題過ぎる提案を謝罪したという。 「もう十年以上も昔の話じゃが……そうそう、あの魔術士はお前さんのような、綺麗な金の髪をしておったよ」 「金の髪の魔術士!?」 思いがけず、声が揃う。 「名前は? なんて名乗った?」 「いや、旅の途中で、どうやら急ぎだったようでな。お互い名乗らずに別れたんじゃが……」 その魔術士はドルネス王国からやってきたと話していたという。それを聞いて、二人は思わず顔を見合わせた。 「リファ、なのかな……?」 「可能性はあるね。でもまあ、その話は後だ。――で? じいさん、あんたは一体、どうするつもりなの? わたしに何をさせたいわけ?」 空色の双眸に見つめられて、ナジェムはなぁに、と微笑を浮かべた。 「儂はなにも、シャンディアを元に戻してほしいとか、消えた皆を救ってほしいなどとは言わんよ。それを、単なる通りすがりのお前さんらに求めるのは筋違いじゃ。ただ――儂は死ぬ前にシャンディアに辿り着きたい。もう一度、懐かしいあの故郷を、そこに住む人々を、この目ではっきりと見たい。今、儂が望むのはそれだけじゃ」 望郷の思いを紡いだ老人は、そこからは打って変わって研究者の顔になると、こう続けた。 「儂の推測では、次にシャンディアが現れるのは二日後の夜明け。場所は――すぐそこじゃ」 そう言いながら、おもむろに懐から取り出したのは、一枚の地図。砂の上に丁寧に広げられたそれには、何十か所もの書き込みがされていた。 「これが、儂が何十年もかけて記録してきたシャンディアの出現位置じゃ。これを見ればある程度の動きが予測できる」 確かに、書き込みには重複して丸と日付が記されている場所が何か所もあった。矢印を追えば、その経路もある程度予測がつく。 「これだけ分かってるなら、自力でも辿り着けそうなもんだけど」 リダのぼやきに、老人はところがどっこい、と禿頭を撫でた。 「不思議なもので、あの蜃気楼はすぐ目の前に現れたように見えて、近づこうとすると遠ざかってしまう。今までシャンディアを間近で見ることが出来たという人間は、幸運にもシャンディアが出現したまさにその場にいた者だけなんじゃよ」 これまでに何度も挑戦を繰り返したが、うまいこと出現箇所に当たらず、何度も臍をかんだというナジェム。 「しかし、今回はお前さんがいる。お前さんの魔術なら、出現箇所に多少のずれがあっても、魔術でひとっとびだろう? ――頼む。儂をシャンディアに連れて行っておくれ」 真摯な瞳で見つめられ、リダは決まりが悪そうに頭を掻いた。 「分かってるわよ。わたしだって、そのためにここに来たんだから。その代わり、多少荒っぽくなっても文句言わないでよ?」 「もちろんだとも。お主らと出会えて本当に良かった。どんなに感謝しても足りないほどじゃ」 深々と頭を下げる老人の背後から、朝日が昇る。 砂漠を染め上げる黄金の輝き。それはナジェムの瞳の色に、とてもよく似ていた。 * * * * * 遺跡での二日は、あっという間に過ぎた。 風と砂の音に耳を澄ませ、太陽の運行を見守るうちに一日が終わる。 夜は星々の煌めきと語らい、焚火の暖かさに生命を実感する。 火を囲みながら、寝物語にと語ってくれるナジェム老の半生は、まるでいくつもの物語を繋ぎ合わせたように波乱万丈で――数多くの苦難の中に小さな喜びや楽しさを見出すことで、どこまでも軽やかな『彼』が出来上がっていったのだと思い知らされた。 自分はいつか、こんな風に人生を語れる老人になれるだろうか。 そんなことを考えていたら、いつの間にか眠ってしまったらしい。 「こりゃ。起きんか、少年」 突然ゆさゆさと肩を揺すられて、はっと顔を上げれば、東の空はすでに白み始めていた。 眠い目をこすって起き上がれば、どうやら先に叩き起こされたらしいリダが、険しい顔で砂漠の彼方を睨みつけている。 「リダ?」 「無駄口を聞いている暇はないぞ。ほれ、あの朝日をよーく見ておるんじゃ」 その言葉に従い、じっと目を凝らす。 次第に明るくなっていく空と大地。その狭間からゆっくりと姿を現す太陽。世界に熱をもたらす巨大なる火の玉が、その全貌を露わにしたその時――。 「あれ? なんか、太陽がぼやけて見える」 目をごしごしと擦るギル。その横で目を眇めて朝日を見つめていたリダが、誰にともなく呟いた。 「あれは、蜃気楼? いいや――」 「シャンディアだ!」 太陽を透かして、ぼんやりと姿を現す蜃気楼の町。その姿は、まるで水面に映った影のように揺れて定まらない。 「よし、行くよ。捉まって!」 そういうが早いか、何やら複雑な詠唱を始めるリダ。聞き慣れたこの音律は間違いない。リダお得意の飛行呪文だ。 「ナジェムさん、あの杖に掴まって!」 慌ててそう促し、自身もばっと手を伸ばす。その手が杖を握りしめた次の瞬間、リダの呪文が完成した。 「行くよっ!」 ふわりと浮き上がる三人の体。そして、そのままぐんと高度を上げ、疾風の如く砂漠を翔け抜ける。 「リダ飛ばしすぎぃぃぃぃ!!」 「ひょー、こりゃ早いわい!」 揺らぐ町並みは、すぐそこだ。 それはまるで、薄明の中に立ち上る陽炎のよう。 「ここが……シャンディア?」 「そう、シャンディアの正面玄関、ストラ大正門じゃ」 ゆらゆらと揺れ動く石造りの門をおっかなびっくり潜り抜ければ、どっと溢れ出す光と音。幻の太陽に照らされて、日干し煉瓦の町並みは昼間のように白茶けた姿を晒している。 「ああ……やはり……あの日のままだ」 そう、目の前に広がるのは、在りし日の姿そのままの光景。中央広場へと続く大通りは行き交う人々の声に溢れており、その活気たるや、これが蜃気楼だということを忘れてしまいそうなほどだ。 「! リダ、何してるんだよ!?」 大通りのど真ん中、人の流れを遮るように立ちはだかるリダ。折しも、広場の方から急ぎ足でやってきた行商人は、リダに気づく様子すらなく、小太りの体を揺らしながら真正面からぶつか――ることはなかった。 まるで風のようにリダの体をすり抜けて、何事もなかったかのように通り過ぎていく男を振り返って、リダはなるほど、と肩をすくめてみせる。 「こちらの姿は、まったく認識されていないみたいだね」 わざわざ体を張って確かめるあたりがいかにもリダらしい。 それなら、と近くの商店へ歩み寄り、軒先に並べられた果物に手を伸ばすギル。案の定、その手は見事に空を切り、あまりの手ごたえのなさに妙な笑いが漏れた。これではまるで、こちらが幽霊にでもなった気分だ。 「分かっちゃいるけど、ちょっと気持ち悪いなあ」 ぼやきつつ、道行く人々の話に耳を傾ける。果物の新鮮さを得々と語る店主、相槌を打ちながら値切り交渉を始める老婆。その傍らを駆けていくのは、家の手伝いから解放されて遊びに行くらしい子供達の一団。広場は人が多いからやめなさい、と釘を刺しているのは母親だろうか。今日は市が立つ日だからね、という声に賑やかに返事をして、広場とは反対方向へ走っていく子供達。その勢いに驚いた小鳥が慌てて飛び上がり、青空へと羽ばたいていく。 目の前に広がる光景は平和そのもので、迫りくる砂嵐の気配など微塵も感じられない。 「砂嵐が来るのはどのくらい後のことなのかしらね」 ねえじいさん、と後ろを振り返るも、そこにナジェムの姿はなかった。 「ナジェムさん!?」 慌てたギルが周囲を見回すと、土埃の立つ大通りの遥か彼方、人混みのその向こうに、どんどんと遠ざかっていく老人の背中を辛うじて捉えることが出来た。 「リダ、あそこ!」 「でかした! じいさん! どこ行くのよ!」 土地勘のある彼とはぐれてしまっては、こっちが迷子になりかねない。人とぶつかる心配がないのを幸いに、二人は通りのど真ん中を突っ切って走り出した。 通りの先は市が立つ中央広場だ。買い物を済ませて家路を急ぐ主婦、荷車を押して市へと向かう商人。広場が近づくにつれて賑わいは増し、何度も老人を見失いかける。 「もう、邪魔だったら!」 賑わう通りを無理やり横切ろうとしている馬車に視界を遮られ、悪態をつくリダ。触れることのできない幻だと頭では分かっていても、つい足を止めてしまう。その一瞬の躊躇が、ますますナジェムとの距離を広げていく。 「ああ、もう!!」 リダの苛立ちが極限に達しようとした、まさにその時。 高らかな鐘の音が、響き渡った。 あんなにざわついていた町が一瞬、静まり返る。 やがて聞こえてきたのは、悲鳴に近い叫び声。 「砂嵐だ!」 「砂嵐が来るぞ!」 まるで金縛りが解けたかのように、一斉に動き出す人々。ぶつかる荷台。倒れる屋台。あちこちで悲鳴が上がり、子供の泣き声が響く。 「王宮だ! 王宮へ急げ!」 「避難してください! まだ時間はあります、慌てずに避難を!」 避難を呼びかけているのは、駆けつけてきた兵士や神官達だ。その声を聞いた人々は一目散に、町の中心部を目指して走り出す。それはまるで、獅子に追われる水牛の群れのよう。地響きのような足音が砂の町を支配し、鐘の音が緊迫感を煽る。 「まずい! もう、時間だわ」 「ナジェムさん!」 慌てて目を凝らし、人波にかき消えそうな背中を懸命に追いかける。その間にも、町中のあちこちから逃げてきた人々が、広場の向こうにそびえる王宮を目指して押し寄せてくる。 「双神殿長がお守りくださるぞ!」 「配置を急げ! 詠唱が間に合わない」 「しかし、あれは禁じられた術では……」 喧騒の中、神官達のそんな会話が飛び込んできた。目を走らせれば、兵士達が人々を王宮へと誘導しているのに対し、神官達は人々の流れに逆らうように、外壁を目指して走っている。 「じいさんの推測通りだね。あいつら、禁呪を使う気なんだ」 走りながら、吐き捨てるように呟くリダ。その声をかき消すように、壁の向こうから轟々という禍々しい音が響いてきた。 「リダ、砂嵐が!」 「分かってる! さっさと合流して、ひとまず逃げるよ!」 あの砂嵐も過去の幻だ。リダの髪を揺らすことすら出来ないはずだ。それでも、本能が叫んでいる。ここはまずい。早く逃げろと。 「――いた! ナジェムさん!」 どのくらい走っただろうか。ようやく追いついたナジェムは、なぜか道のど真ん中で立ち尽くしていた。 「ちょっと、じいさ――」 怒鳴りつけようとして、思わず息を飲むリダ。こちらを振り向こうとすらせず、呆然と佇むナジェムの双眸からは、大粒の涙が零れ落ちていた。 「ナジェムさん?」 町の片隅、舗装すら途切れた細道の向こうを、食い入るように見つめるナジェム。その揺れる瞳に映っているのは――。 「――ああ、ナジェム! そんなところにいたの。早くおいで!」 こちらに向かって大きく手を振るのは、赤い衣に身を包んだ妙齢の女性。黒髪を編んで垂らし、見開かれた瞳は太陽の如き金色。その輝きはまるで――。 「お母さん――!!」 ぎょっと立ち尽くすギルの目の前で、勢いよく駆け出していくナジェム。一歩踏みしめるごとに、その姿はどんどんと若返っていく。壮年から青年、そして幼い少年の姿へ――。 「ナジェムさん!?」 咄嗟に追いかけようとしたギルは、背後から素早く伸びてきた腕に引き留められた。まるで抱きしめられるような形になってしまい、上ずった悲鳴が口から迸る。 「うわあ!? 何するんだよリダ!」 「いけない、ギル! あんたまで巻き込まれる!」 「でも!」 「駄目だ!」 通りの向こう、両腕を広げて待ち構えていた母の胸に勢いよく飛び込んだ子供は、嬉しそうに笑い声を上げた。力強く抱きしめてくる母に照れくさそうに抗議をして地面に下ろしてもらい、しっかりと手を取り合って走り出す。 そして、角を曲がる瞬間。肩越しに振り返り、小さく手を振る少年。 ――ありがとうよ―― 近づく砂嵐の音で掻き消され、決して聞こえるはずのない声は、確かに二人の耳へと届いた。 目の前の景色が大きく揺らぎ、そして驚くほどあっけなく宙に溶ける。 賑わう町も、襲い来る砂嵐も、どこにもなく。目の前にはただ茫漠たる砂漠が広がるのみ。 白昼夢から醒めたように目を瞬かせ、どちらからともなく顔を合わせた二人は、同時に深く息を吐いた。 「……ナジェムさんは、帰りたかったんだね」 「そうだね。何十年も、ずっと、この日を待ち望んでいたんだろう」 最後に見せた満面の笑みが、蒼穹に輝く太陽と重なる。 傍から見れば、彼は『助かった側』だ。しかし、唐突に故郷と家族を失った少年からすれば、自分こそが『取り残されてしまった側』だった。 だからこそ彼は、その生涯をかけて故郷を――シャンディアを追い求め続けた。 「地図からはとっくに消えて、最後の一人もいなくなって、やがては人々の記憶からも失われる町、かあ……。なんだか切ないね」 珍しくも感傷的なことを呟くギルの背中をぶっ叩いて、リダはなあに、と不敵な笑みを浮かべた。 「人々の記憶から消えてしまわないように、わたし達が語り継げばいい。……そしていつか、誰かがあの町を取り返す日が来るといいね」 リダの口からこんな言葉が出るのは実に珍しい。だがギルはそれを茶化すことはせず、ただ頷いた。 「うん……また、会えるといいな」 ――それは、砂漠を彷徨う、伝説の都市。 手を伸ばせば遠ざかる、儚い幻。 語りかける人もなく、返ってくる声もなく。 ただひたすらに、同じ刻を繰り返す町。 蜃気楼都市《シャンディア》は今もなお、時空の彼方を彷徨い続けている――。 終☆ |