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流星雨

〜希望の星〜
《gilders》☆☆☆
36 etude」 30:「流星雨」



 不気味なくらいに赤い夕日が、荒野の彼方に沈んでいく。
 窓の外に広がる乾いた大地を見下ろせば、知らず知らずのうちに溜息が漏れた。
 この地がいずれ世界中の叡智を集める都となるか、それとも草一本生えない荒地となるか。全ては、今日この日にかかっている。
 こうして一人でいると、えもいわれぬ不安が体の奥底から湧き上がってきて、震えそうになるけれど。
「――このわたしに、泣き言なんて似合わないからね」
 わざと口に出して言えば、少しだけ勇気が湧いてくる、そんな気がした。
 無骨な格子に仕切られた窓の外、空は茜から紫、そして藍色の星空へと変わっていく。
 あの夕日が地平の彼方に沈みきった時、全てが始まる。
 いや、もしかしたら、全てが終わるのかもしれないけれど。
 さあ、そろそろ身支度を整えなければ。気だるげに衣桁へと目をやれば、最高位の魔術士のみに許される紫色の長衣が微風に揺れていた。
 こんな大仰な衣装に袖を通すなど、何年ぶりのことだろう。金糸銀糸の刺繍が施された絹織りの長衣を手に取れば、それはびっくりするほど滑らかな肌触りで、ほんの少しだけ心が躍る。
 慣れない着付けに手間取っていると、まるで見透かしていたかのように扉を叩く音がして、こげ茶色の頭がひょっこり現れた。
「失礼します……。準備、できた?」
「ちょっと待って……よし、これでいいかな」
 鏡の前でくるりと回れば、金の髪がばさりと踊る。それを見た少年は、慌てふためいて櫛を取り上げた。
「髪くらい梳かしなよ、ぐしゃぐしゃだよ」
 ほら座って! と椅子まで引っ張っていかれて、強引に髪を梳られる。いつもなら文句の一つや二つは言うところだが、今日ばかりは言うことを聞いた方が得策だろう。
 大人しく髪を梳かされていると、少年の手がふと止まった。
「成功……するよね。大丈夫だよね」
 鏡越しに顔を上げれば、橙色の双眸と視線がぶつかる。いつだって元気いっぱいの瞳が、今日ばかりは不安に揺れていた。
 みんな、同じ。
 わたしだけじゃないんだ。
 そんな当たり前のことに、何だかほっとする。
 そう、一人じゃない。一人じゃないんだ。
 だから、きっと、大丈夫。
「なぁに言ってるの。大丈夫に決まってるでしょ!!」
 げし、と肘鉄を食らわせてやると、少年は不意打ちに蹲りながらも、そうだよね、と笑った。そして、自身に言い聞かせるようにわざとらしく声を上げる。
「なんてったって、《金の魔術士》サマがついてるんだもんね」
「そういうことよ。さ、そろそろ時間だね」
 立ち上がり、傍らの杖を手に取る。夕日を反射して七色に輝く輝虹石は、昨日一日かけて少年が磨き上げてくれたものだ。
 誰よりも信じてくれている、その心に応えるためにも。
 くじけるわけにはいかない。
「さあ、行くよ!」
「うん!」

 石の螺旋階段を駆け上がれば、見えてきたのは黄昏の空。
 本来ならば天井があるはずの十階部分は、一つの階をぶち抜いた大広間、になる予定だ。
 建設途中の巨大な塔は、遠くから見れば不恰好な灯台のようだろう。
 すでに配置についていた魔術士達と目礼を交わし、広間の中心部分に組まれた櫓を駆け登ろうとして、背後でぴたりと止まった足音に首を傾げる。
「どうしたの」
「だって、俺は役に立たないでしょ? だから――」
 下で待ってるよ、と言おうとした少年の手を掴み、わざと凄んでみせる。
「そんなこと言って逃げる気じゃないでしょうね」
「そんなわけないだろ!」
「じゃあ、一緒に来なさい」
 でも、と言い募る少年を、ほとんど引きずるようにして櫓を登る。
 大工達が徹夜で組み上げてくれた急造の櫓は、およそ二階分ほどの高さを補っているが、本当を言えば理想の高さにはまだ足りない。
 それでも、地上を見渡すには十分過ぎる高さだ。おかげで、夜の帳に包まれようとしている荒野、そこに描かれた巨大な魔法陣と、そこに集う大勢の魔術士の、その一人一人の表情までが克明に見て取れるようだった。
「いよいよだね」
「ああ、いよいよだ」
 囁きを交わしながら、最後の段を踏みしめる。
 そうして、遥か高みへと到達した魔術士の姿に、地上から歓声が沸き起こった。
 夜風に袖をはためかせながら、櫓に据えつけられた拡声用の魔具を引き寄せ、合言葉を唱える。
 ブン、と唸るような音を立てて発動した魔具の具合を確かめ、少年に少し下がるよう手で示しながら、彼と二人で練りに練った前口上を頭の中で反芻する。
 不安げな視線を背中に感じたが、あえてそれを無視し、大きく息を吸い込んで――。

『我が呼びかけに集いし魔術士達よ――!!』

 荒野に響き渡る、力強い声。
 夜空に舞う、金の髪。
 澄んだ青い瞳が、この地に集結したすべての同志へと語りかける。

『……全てを、沈黙のままに……。ここに、《金の魔術士》の名をもって宣言する。この地に、明日を!』

 今、この瞬間から。
 《金の魔術士》の伝説が、また一つ始まる。

* * * * *

「お願いいたします、勇者様! どうか、この世界を救って下さいまし!!」
 芝居がかった台詞が、日常を引き裂く。
 この場合、引き裂かれた日常とは昼食時の食堂で最後の腸詰めを取り合っている瞬間のことであり、あまりに突拍子のない台詞に一瞬気が緩んだ隙に、最後の腸詰めはリダの胃袋に収まってしまった。
「ああー!! 俺の腸詰めー!!」
「ぼーっとしてる方が悪いのよ」
 あっという間に腸詰めを飲み下し、ふふんと鼻を鳴らす。そうしてようやく、リダは傍らに立ち尽くしたままの女性へと目を向けた。
「どうか、どうかお願いいたします!」
 なおも言い募る彼女は、二十代半ばほどに見えた。簡素な神官衣に包まれた体は驚くほどに華奢で、ふわふわと波打つ杏色の髪と、頬にうっすらと浮いたそばかすがなんとも愛らしい。そんな彼女が両手を組み合わせ、瞳をうるうるさせて見上げてくるさまは男性でなくとも胸を打たれるものがあったが、しかし先ほどの台詞はいただけない。
「……で? 世界がなんだって?」
「あ、ちゃんと聞いてたんだ」
 思わず突っ込むギルの足をだんっと踏みつけながら、女性の返答を待つ。と、女性は二人が全く予測していなかった行動に出た。
 即ち、いきなり号泣しだしたのだ。
「ち、ちょっと!?」
「どうしたってのよ、いきなり!?」
 さしものリダも慌てふためく中、彼女はまるで子供のように声を上げて泣きじゃくり、しまいには食器が並ぶ食卓に突っ伏してしまったから大変だ。
「ちょっとお、なんだってのよ」
「あ、あの、お姉さん、一体どうしたんですか? ちゃんと話してくれないと分かりませんよ」
「うわああああああん!!」
 一行に泣き止む気配のない女性に、次第に周囲がざわめいてきた。
「なんだ、どうした?」
「あのオネエチャンが泣かしちまったみたいだぞ」
「なんだなんだ、修羅場か?」
「それにしちゃ相手が坊や過ぎやしないか」
「いや最近は姉さん女房が流行ってるからなあ」
 段々とんでもない方向に進んでいくひそひそ話に、いたたまれなくなったギルがそっと囁く。
「リダ、ここはひとまず場所を変えようよ」
「だね」
 珍しく素直に同意を示したリダは、代金を乱暴に店主へと放り投げ、そして未だ泣き続ける女性をがしっと小脇に抱えると、のしのしと歩き出した。
「ほらあんた、行くよ!」
「うええええええええん!!」
「あー、よしよし。泣き止んでくださいねー」


「たいへん、失礼、いたしました」
 鼻をぐすぐすと鳴らしながら、アニスと名乗った女性は深々と頭を下げた。
「ったく、いきなり泣き出して何かと思ったよ」
「はい、これ鼻紙です」
 三人が出会ってから、優に一刻ほどが経過している。
 あのあと、泣き続けるアニスを小脇に抱えたリダはずんずんと街中をのし歩き、昨晩から世話になっている宿屋へと帰り着くと、まだわんわん泣きじゃくっているアニスを寝台に放り投げて、ただひたすら泣き止むのを待った。……もっとも、待っていたのはギルの方で、リダはさっさと一階の食堂に繰り出して昼食を取り直していたのだが。
 さて。ようやく泣き止んだ彼女は、行儀よく寝台にちょこんと正座して、目の前の二人をしげしげと見上げていたが、意を決したように口を開いた。
「私は、見ての通りトゥーラン神に仕えるものでございます。ロウムの分神殿からやってまいりました」
「へえ……。随分と遠いところから来たんだね」
 リダが目を見張るのも無理はない。ロウムと言えば隣国レイドの都市だ。このアトリアからだと、馬車でもおよそ半月ほどの距離にある。そんな道のりを、こんないかにも体力のなさそうな女性が一人で旅してきたというのだから、よほど火急の事態が起きているのだろう。
「で? そのロウムからアトリアくんだりまでやってきたのは、一体どうしてなんだい?」
「話すと長くなるのですが……その……お話を聞いていただけますでしょうか?」
 急に弱気になったアニスに、ぽりぽりと頬を掻くリダ。
「そりゃ、ここまで連れて来ておいて聞かないとは言えないでしょ。聞くだけならタダだ。話してごらんよ」
(リ、リダが優しい言葉をかけてる……!!)
 明日は大雪になるかもしれない、と半ば本気で心配するギル。そんな心の声が伝わったのか、少年を射殺しそうな瞳で睨みつけると、リダはこほんと咳払いして、アニスを見た。
「世界が、なんだって?」
「はい。お話します。それは……一月ほど前のことでした」


 それは、よく晴れた日の午後。
 神殿裏の洗濯場で洗い終わった敷布を干していた彼女が見た、白昼夢。

 昏い空。
 突如、天空より降り注ぎし、光の矢。
 空を染める光の線条は、天高くそびえる塔を一瞬にして打ち砕き――
 閃光に染まった世界が再び色を取り戻した時、そこは深く抉られた大地と、炎に巻かれる大森林が、ただ静かに終焉の時を待っていた。


「……トゥーラン神のお告げであると、私は悟りました。そして、世界の破滅が迫っていると訴えたのです」
 しかし。彼女の声に耳を傾ける者は誰一人としていなかった。
「なんで? だって、お告げなんでしょ?」
 首を傾げるギルに、アニスは弱々しく首を振る。
「私だけだったんです。神託を受けたのが私だけだったから、信頼性に欠ける、と」
 通常、大災害であればあるほど、信者の多くが神託を受け取る。しかし今回、白昼夢を見たのは彼女一人だった。
「お声を聞くことが出来なかったのもおかしい、と。私が受け取ったのは、悪夢のような光景のみだったものですから」
 それでも、あれがただの白昼夢だとは思えなかった。
 あれは予知夢だ。災いは、間近に迫っているのだ。そう主張して、彼女は他の神殿を訪ね、他に神託を受けた者、同じ予知夢を見た者がいないか探し続けた。
「他に……いなかったんですね?」
 はい、と頷いて、アニスはぐっと拳を握り締めた。
「どこの神殿へ赴いても、それはただの夢だ、そんな神託を受けた者はいない、と言われました。それでも、諦められなくて……」
 そうこうしているうちにも、破滅の時は刻一刻と近づいている。こうなれば、自身で破滅を食い止める方法を探すしかない。
 そう考えたアニスは、得意の水晶占いで白昼夢の舞台を突き止めると共に、一緒に破滅と向き合ってくれる人間を探してあちこちを旅した。
「ある日、水晶が教えてくれたんです。この街に、力を貸していただける方がいると。でも、誰も取り合ってくれなくて……。お二人だけだったんです。こうしてお話を聞いてくださったの」
 だから、つい嬉しくて、と涙ぐむアニスに、そっと手巾を差し出すギル。
「そうだったんですか……」
「しかし、だ。あんたの見たのが本当に予知夢だったとして、それをどうやって防げっていうんだい。どこでいつ起こるかすら分からないんじゃ、対策の立てようがないよ」
「はい。私もそう思って、占いのほかにも、色々な文献を当たったり、色々な人から話を聞いてみたんです」
 アニスが見た白昼夢の舞台は荒涼とした平原だった。天を衝く大樹の傍らにそびえ立つのは、巨大な石造りの塔。地平線の彼方には大森林と、その懐に抱かれた街。夜空には冴え冴えと輝く五連星が、最後の光を放っていた。
「場所は、ここから南に行ったマディラ平原で建設中の『西の塔』。破滅の正体はよく分かりませんが、私が見たのは夜空から降り注ぐ、巨大な光の矢でした」
 思い出すだけで震えが止まらない、あの白昼夢。天より放たれた線条は無慈悲に大地を抉り、一瞬にして沢山の命を奪っていった。
 ぎゅ、と自分の体を抱きしめるアニスを心配そうに見つめながら、ギルが口を開く。
「五連星が見えるのは新年祭の頃だったよね」
 新たな年を告げるように輝き出すその星は、どういうわけか新年祭の五日間を過ぎると急速に輝きを減じ、いつしか夜空に紛れてしまう。
 少年の言葉に頷いて、リダはふむ、と杖を引き寄せた。
「それが来年の新年祭を指してると仮定すると、もう三月もないわけだ。これはいよいよもって時間との戦いだね」
 ぐずぐずしてられないよ、と立ち上がるリダに、はいはいと荷物をまとめ出すギル。そんな二人をぽかん、と見つめていたアニスは、はっと我に返って叫んだ。
「あ、あのっ! 手を貸して……いただけるんですか!?」
「あんたの話を全部信じるわけには行かないけど、だからといって頭から否定する材料もない。それに――」
 外套をばさりと纏い、リダは片目を瞑ってみせる。
「わたし達が向かってるのは『西の塔』なんだ。目的地が破壊されちまったら元も子もないからね」
「リダ様……!!」
 さあ、そうと決まれば行くよ! と部屋を後にするリダと、素早く纏め上げた大荷物を担いでその後を追うギル。
 展開の早さに呆気に取られていたアニスだったが、廊下から響いてくる二人の呼び声に、弾かれたように立ち上がると、神官衣の裾をからげて走り出した。
「お供させていただきます、勇者様!!」
「その呼び方はやめなっ!!」

 それからの日々は、まさに怒涛の如く過ぎ去っていった。

 アニスは忘れない。『西の塔』への道すがら、あちこちの神殿や魔術士協会を訪ねて回り、必要な資料と人材を嵐の如く発掘していった、金髪の魔術士の姿を。
 ギルは忘れない。多くの神殿や魔術士協会で世迷言を、と門前払いを食らい、悔し涙を流すリダの横顔を。
 そして、リダは忘れない。あれほどに忌み嫌っていた二つ名に、初めて愛着が湧いた瞬間を。

* * * * *

 頭上より響く朗々たる声に、櫓の下に組まれた天幕の中にも緊張が走る。
「いよいよですね、アニスさん」
 ずれた眼鏡を直しながら声をかけてくるイザクに、アニスは緊張の面持ちで頷きを返した。


 リダ達が最初に見つけた「人材」こそ、このうだつの上がらない天文学者だった。
 冬の五連星について詳しく調べようと立ち寄った天文台で、彼はアニスの話した「災厄」と、数週間前に自身が発見した新星との関連性を口にした。
「もしかしたら、それは……星、かもしれません」
 イザクに促され、恐る恐る古ぼけた天体望遠鏡を覗いたアニスが見たものは、昏い空に煌々と輝く、謎の凶星。
 彼の話によれば、その星は日に日に輝きを増しているという。
「あの星の正体が何かは分かりません。はっきりしているのは、あの星は物凄い速度で、このファーンの大地へと向かっているということです」
「そんな……!!」
 息を呑むアニス。その横では、いつになく真剣な表情のリダが、何やら考え込んでいる。
「あれが落ちてきたら……どうなるの?」
 ギルの言葉に、猛然と計算を続けていたイザクはふと顔を上げ、隈の浮かんだ顔で断言した。
「落下地点は、死の大地と化すでしょう」
 その言葉に息を呑むアニス。それはまさに、彼女が見た予知夢そのものだった。
「星が落ちてきたことなら、これまでだって何度もあるんでしょ? それなのになんで、あれは駄目なの?」
「大きさですよ。拳大の欠片が落ちてきただけでも、地表に大穴が開く。それが、例えばこの天文台より大きなものだとしたら?」
 ただ穴が大きくなるだけではすまない。その衝突はどれほどの破壊力を備えていることか。
 沈黙がその場を支配し、誰もが絶望的な考えに頭の先まで浸ったその時。
「なら、撃ち落せばいい」
 その言葉に、誰もが己の耳を疑った。


「成功、するでしょうか」
 僅かに震えるアニスの声に、イザクはずり落ちてきた眼鏡を直しながら小さく頷いてみせる。
「あの方なら、きっとやってくれますよ。あれだけ無理を通した方なんですから、予知をひっくり返すくらい、朝飯前でしょう」
 茶化した物言いに思わず吹き出してしまって、アニスはそうですね、と笑う。
「そうですね。あの方ならきっと……」

 そう。アニスは忘れない。いつだって前へ前へと突き進む彼女の、美しい後姿を。

* * * * *

 大地の底から響くような、幾重にも重なる詠唱。
 塔を中心に展開された多重魔法陣が、百人を超える魔術士の唱える複雑な呪文に呼応して光を帯びていく。
 ただ一人、ただ一音でも間違えれば、全てが破綻する。それだけ高度な、そしてこのためだけに開発された魔術式。それを束ねるのは、よく通る低めの女声。
 吹きつける風に真っ向から立ち向かい、杖を手に複雑な音韻をなぞり続ける彼女を、ただ見ていることしか出来ない自分が悔しくて、ぐっと拳を握り締める。
 どうして、何も出来ない自分を連れてきたのか。
 それは、旅の始まりからずっと、彼の心の奥底で燻り続けていた言葉。
 面と向かって聞くには、気恥ずかしくて。だからずっと黙っていた。
 せめて彼女の役に立てるようにと、色々な知識や技術も身につけた。いや、身につけざるを得なかった。
 それでも、ただの人間でしかない自分は、彼女の足をひっぱってばかりで。


 バン、と閉じられた扉を射るような目で睨みつけて、リダは手にした杖をぐっと握り締めた。
「この……分からず屋が!!」
 最後の望みを賭けて扉を叩いたセノーブル市の魔術士協会にすげなく追い返されて、途方に暮れる一行の肩を、降り出した雨が容赦なく叩く。
「リダ……とにかく、宿屋に戻ろう」
 無言で立ち尽くすリダを促しても、彼女はその場を動こうとしなかった。
 いつもなら濡れるのを嫌がってすぐに結界を張る彼女なのに、今はそんなことも思いつかないのか、雨に叩かれるままになっている。
「リダ様……」
 心配そうなアニスの声にも応えず、ただ無情に閉められた扉を睨みつけているリダ。その悔しそうな横顔を窺って、はっと息を飲む。
「アニスさん、イザクさん。先に戻ってて」
 突然のギルの言葉に、二人は戸惑いながらも了承してくれて、何度も振り返りながらも通りの向こうへと消えていった。
「リダ……」
 周囲に誰もいないことを確かめて、そっと正面に回れば、出会った当初は遥かに見上げていた顔が、すぐ目の前にあった。そのことに今更ながらに気づいた自分がおかしくて、思わず苦笑を漏らすと、蒼い双眸がぎろり、と睨みつけてくる。
「……何がおかしいの」
「いや、ちが――」
 ギルの言葉を遮って、杖をがしがしと石畳に打ち付けるリダ。
「……どうせわたしは《鍍金》よ。だから何だって言うのよ!!」
 それは、ろくに話も聞かずに彼女らを追い返した協会長が、哀れむように付け足した言葉。
『これが《金の魔術士》の呼びかけならば、我らは即座に応じたろうが……』
 感情のままに吐露した自身の言葉に打ちのめされて、ぐっと唇を噛む。そんな彼女の髪は、雨に濡れていつもの輝きを失っている。
 俯き、僅かに肩を震わせるその姿は、まるで別人のようで。
 それでも、何と声をかけていいか分からなくて、しばし考えた上に口から出た言葉は、いかにも陳腐なものだった。
「リダはリダだよ。鍍金とか、本物とか、そんなの関係ない」
 わがままで、大雑把で、破天荒で――。だけど、言ったことは必ずやり遂げる。それだけの実力と根性を兼ね備えた、稀代の魔術士。それがリダ。
「だから……泣かないでよ、リダ」
 その言葉に目を瞬かせ、ゆるゆると顔を上げる。そしてぷい、とそっぽを向いたリダは、
「雨が目に入っただけよ! このわたしが泣くわけないじゃないの!」
 と言いながら、びしょ濡れの袖でぐい、と目元を拭った。
「そ、そうだよね。あはは、ごめん」
 乾いた笑い声を上げるギルに、当たり前でしょと睨みを利かせて、そうしていつもの表情に戻ったリダは、固く閉ざされた扉にふん、と鼻を鳴らして、くるりと踵を返す。
「もういい。そっちがそういう気なら、こっちにも考えがあるわ」
「考えって、リダ……なんか物騒なこと思いついたんじゃないよね?」
 逃げ腰なギルの言葉に、にやりと笑ってみせる。その笑顔がすでに物騒で、思わずじりじりと後ずされば、しなやかな腕が伸びてきて、胸倉――ではなく手を、ぐっと握られた。
「リ、リダ?」
「二人と合流したら、すぐに作戦を練るよ。あんたにも働いてもらわないといけないからね」
 ほら行くよ! と腕を引かれて、雨の街を走り出す。
「ちょっとリダ、一体何をする気なんだよ!?」
 と、リダは盛大に顔をしかめて答えた。
「こんなことは絶対にやりたくなかったんだけど、そんなこと言ってられる状況じゃないからね。それに――わたしより、あんたの方がきついかもしれない。それでも、ついてくるかい?」
 初めて投げかけられた言葉、初めて与えられた選択肢に、一瞬息が止まる。
 それでもギルは、力強く答えた。
「当たり前だろ! だって俺は、リダの相棒なんだから!」
 いつもなら小突かれるところだったが、今日に限ってリダはギルの言葉に頷いた。そして、にやりと笑う。
「その言葉に二言はないね?」
「もちろんさ!」
 そう答えてしまったことを後で激しく後悔することになるのだが、それも今となっては愉快な思い出だ。


(――そうだ。あの時リダは、否定しなかったんだ)
 目まぐるしい日々に忙殺されて、そんなことも忘れていた。
 どうして、と彼女を見上げれば、その体が不意にぐらりと揺れた。
「!」
 慌てて立ち上がり、その背中を支える。突風に煽られながらも詠唱を続けていた彼女は、そのまま呪文を紡ぎながら、その蒼い氷のような瞳だけをこちらに向けて、小さく片目を瞑ってみせた。
(あんたはちゃんと、役に立ってるじゃない)
 そんな心の声が聞こえたような気がして、胸の奥が熱くなる。
 そう、求めていたのは信頼。探していたのは、隣にいていい理由。
 こんな無茶苦茶な人の側にいられるのは、自分しかいない。

 そう、ギルは忘れない。戦い続ける彼女の、その凛々しい横顔を。

* * * * *

 大地に刻まれた魔法陣。そこから立ち上がる光はそのまま第二の魔法陣を宙に描き、急速に力を高めていく。
 絶え間なく呪文を唱え続けるのは、志を共にする百余人の魔術士達。呼びかけに応えてこの地に集った彼らの中には、高位の老魔術士もいれば見習いの少女もいた。
 性別も種族も異なる彼らが仰ぎ見るは、塔の上で朗々と詠唱を続ける金髪の魔術士。
 どんな災厄も、かの魔術士と共になら乗り越えられる。
 そう信じたからこそ、彼らはこの西の地に集結した。
『観測班より伝達! 目標、補足しました! 角度修正願います! 仰角69.7度、方位角223.5度。速度、8393クレイル毎秒!』
『角度修正、了解。直ちに修正作業に入ります』
『予測よりも速度が出ています! 盾魔法の強度を上げてください!』
『了解、これより追加詠唱を行う』
 魔術による伝令が飛び交い、それだけでは間に合わずに長衣の裾をからげて右往左往する魔術士達。塔周辺はさながら戦場の様相を呈していたが、誰一人無駄口を叩かず、己の責務を全うせんと動き回るその様子は、むしろ清々しささえ感じられるようだった。
「魔術士が一丸となって、未来を守るために力を合わせる――こんな日が来ようとは、まったく長生きしてみるもんじゃのう」
 老齢を理由に詠唱斑から外され、天幕で腐っていた老魔術士が皮肉交じりにぼやけば、同じく腰を痛めていることを理由に補欠扱いにされた長老が、したりげに髭を扱く。
「いやはや、頑迷なる魔術士達の心を動かすとは、さすが《金の魔術士》殿ですなあ」
 その言葉にふんっ、とわざとらしく鼻を鳴らして、老魔術士は長老を睨みつけた。
「炊きつけた本人がよう言うわい」
「何を仰るかな。儂はただ、彼女の要請を容れただけですぞ」


 建設途中の『西の塔』に辿り着いた一行を出迎えたのは、実に意外な言葉だった。
「おや、随分と早いお帰りですな」
 杖をついて出迎えにやってきた老魔術士は、『塔』の最高責任者だという。無論、一行の誰とも面識はないはずだが、彼は親しげな笑みを向けて、恭しく一礼してみせた。
「生きているうちに再びお目にかかれて嬉しく思います、《金の魔術士》殿」
 本物の《金の魔術士》が三月前までこの地に滞在していたことを知ったのは、少し後のこと。
 だから、何も知らない彼女は、ただ静かに頷いてみせた。
 そして、旧友を見間違えるはずのない塔の長は、ただ穏やかに頷きを返した。

 『西の塔』は、魔術士の育成・研究機関として建設が開始された『魔術士の塔』だ。世界中に点在する魔術士協会が魔術士の相互扶助を目的として設立された組織なのに対し、『塔』は魔術士の教育と魔術の研究開発に重点を置いて組織されている。
 勿論、魔術士協会も『塔』の設立に関わっており、特に近隣の協会とは密に連絡を取っているという。その際に「西の地の災い」と「それを触れ回る金髪の魔術士」の話を聞きつけたのだと、『西の塔』の長ナシュ=タルクは語った。
「最初は耳を疑いましたが、もしそのような災厄が現実のものとなれば、魔術士の希望たるこの塔だけではなく、この地に住まうすべての命の未来が閉ざされてしまう」
 そのようなことがあってはならないのだと、長は彼らを見据えて力強く頷いた。
「私共は協力を惜しみませぬ。そして、貴方の呼びかけとあらば、世界中の魔術士がこの地に集結するでしょう」
 そう。これこそが、リダの企み。
「そう、願います」
 搾り出すような声が、彼女の胸の内を表していた。
 それがどれほどの屈辱か。それでも、形振り構っていられる状況ではない。
「とにかく時間がないんだ。すぐに準備に取り掛かるよ。まずは主だったものを召集して災厄の詳細を説明する。それから対策会議に入るよ」
 敬語すらすっ飛ばして指示を出す魔術士に、長はしかと頷き、そしてこう付け加えた。
「さあ、共に戦いましょうぞ。《金の魔術士》殿」

 こうして、戦いの火蓋は切って落とされた。
 各地から集められた人材が昼夜を徹して論議を重ね、また短期間で多くの新技術が生み出され、日々改良が施されていく。
 急遽『西の塔』に設置された最新鋭の天体望遠鏡によって観測と予測が続けられ、災厄の正体と約束の刻限が明るみになった一方で、「光の矢」に対抗する手段も次第に絞られていった。

「――出来ました」
 魔法陣製作担当斑長、《細密画家》フェルカドは、緊張した面持ちで図面を差し出した。
「これが最終案だね」
「はい。立体魔法陣にすることで強度と精度を高め、かの隕石を打ち砕くほどの威力を実現させます。また、その後の飛散物を弾く目的で盾魔法も練りこんでありますから、安心してぶちかましてください」
 そうは言ってみたものの、まだ不安材料はてんこ盛りだ。そんな心の内が表情に現れていたのだろうか。執務机の向こうからこちらを窺う青い眼差しに息を呑み、そして絶望的な事実を告げる。
「ですが……魔法陣を発動させるだけの魔術士の数がまだ足りません。発動実験すら出来ない状況で――」
 徹夜を重ねて出来上がった魔法陣は、想像以上に大規模なものになった。かの魔法大国ルーンですら、これほどの魔法陣を発動させたことはなかっただろう。
 それだけに、かかる諸経費も尋常ではなかった。資材についてはどうにか調達の目処が立ったが、肝心の「魔力」――つまり魔術士が絶対的に足りない。
 こんな絶望的な状況に、しかし目の前の魔術士は不敵に笑ってみせた。
「つまり、一発勝負ってことだね」
 上等じゃないか、と図面を返してよこし、机の上の暦に目を走らせる。
「新年祭の六日目――約束の日まで、あと十日ある。各地の協会に派遣要請は出したんだ。当日までにはどうにか揃うだろ。あんた達はとにかく、その魔法陣を完璧に仕上げることを考えていればいい。軌道修正と威力調整の術式以外は既存の魔法陣の応用だからね。その二つだけ別個に発動実験をしようか」
「承知いたしました。そこだけ抜き出して、明日にも発動実験を行います」
 また徹夜か、と内心呟きながらも、徹夜続きで隈の浮き出た顔に、先ほどまで色濃く現れていた絶望の色はない。
「このような一大事に、貴方がいてくださって本当に良かった。貴方と共に災厄に立ち向かえることを心より誇りに思います。《金の魔術士》殿」
 図面を抱え、部屋を後にするフェルカド。その後姿が扉の向こうに消えた途端、ふうと盛大な溜息をついて執務机に突っ伏したリダは、間髪おかずに響いてきた扉を叩く音にびくっと体を震わせる。
「俺です。入ります」
 その声を聞いた瞬間、空気が抜けたように再び机に伏したリダを、扉の隙間から身体を滑らせるようにして入ってきたギルが叱咤する。
「そんなところで寝ちゃ駄目だよ! 寝るならあっちの長椅子で寝なよ。あ、でも少しだけにしてね。二の刻から賢人会議があるんだから」
「なぁにが賢人会議よ……。自らを『賢い』なんて言い表して恥ずかしくないのかね、あのじじいどもは」
「俺から見れば、みんな理解の範疇を超えるくらいに賢いんだけど」
「本当の賢者ってのは、自身の無知を自覚してるヤツのことよ。あいつらは頭でっかちなだけ。だから会議もいつまで経っても平行線だし、新しいことをやろうとするとすぐに「前例がない」だのなんだのってうるさいし……前例があれば苦労しないってのよ!」
 まさに前代未聞の大災厄に立ち向かおうとしているこの状況で、未だ頭の固い老魔術士達に手を焼いているリダは、あーあと大仰に嘆いて伸び上がった。
「それはそうと、今日の夕飯はなに?」
 それだけが楽しみと言わんばかりに瞳を輝かせるリダに、食事の準備を含めた塔の雑用を一手に引き受けているギルは、苦笑をしつつ口を開く。
「今日はリダの大好きな鶏肉の香草詰めと野菜のスープだよ」
「やった! 会議が終わったらすぐ食べられるようにしておいて! お代わりの分も残しておいてよ?」
「分かってるよ。ちゃんとリダの分は別に取っておくから、早く終わらせてきてよ」
「勿論よ。ちゃんと定刻に終わらせてやるわ」
 物騒な笑みを浮かべて頷くリダ。ギルは乾いた笑いで答えながら、そうそう、と手にしていた麻袋を机に置いた。
「……この荷物、当日までここに置かせてね」
 低く囁くギルに、リダもわかった、と囁き返す。
「アニス達との打ち合わせは済んでるね?」
「うん、大丈夫。ちゃんと入念に打ち合わせしたよ。あと、アニスさんから伝言。自分達は当分ロウムにいるから、落ち着いたら会いに来てくださいねって」
「自分達って、イザクもってこと? あらまあ……いつの間に」
「やだなあリダ、気づいてなかったの?」
 鈍いんだから、と呟いてしまい、強烈な肘鉄を食らう羽目になったギルは、あいたたたと脇腹を押さえつつ、でもさあと笑み崩れた。
「あの二人って、お似合いだと思うんだよね。しっかりしてるけど弱気なイザクさんと、おっちょこちょいだけど行動力のあるアニスさんが一緒になれば、向かうとこ敵なしって感じだし」
「そうねえ。お互い、超がつくくらいお人よしなとこもお似合いよね」
 おままごとのような新婚生活を送る二人の姿が目に見えるようで、リダもくすりと笑みをこぼす。
「イザクがばっちり尻に敷かれてるところが目に浮かぶわ」
「家事を失敗しまくって泣きじゃくるアニスさんの姿もね」
「ふふん、これはもう覗きに行かないとねえ」
「そりゃもう! 新婚家庭は茶化しに行くのが定石でしょう」
「そのためには、ちゃんとあの星を落としてやんないとね」
「そうだよリダ、責任重大だよ」
 ふざけた調子で言い合って、にやりと笑みを交わす。
 そう、世界の危機だの明日のためだのと大仰なことを並べ立てるより、こっちの方が自分達らしい。
「じゃ、未来の新婚さんをからかうためにも、ひとまず今日の会議を頑張りますか」
「会議室を吹き飛ばさない程度にね」
 失礼な、と少年の首根っこを捕まえようとしたちょうどその時、掛け時計がぼーん、ぼーんと夕の二刻を告げた。

* * * * *

 カチ、と時計の針が『約束の時』を示す。
 最高潮に達した詠唱がふつりと途切れて、辺りが静寂に包まれる。
 ごくり、と喉を鳴らしたアニスの目の前で、まるで光の渦の如く立ち昇る、多重魔法陣。
 魔力を持たない彼女にも、塔を中心に膨大な魔力が渦巻く様が見えるようだった。
 魔法陣によって増幅された魔力は、遥か高みに佇むただ一人のもとへと、急速に集まって行く。
 高く掲げられた杖、その先端に輝く虹色の宝玉は今や、小さな太陽の如き光を放っていた。

「リダ! 杖が!」
 高密度の魔力を一身に受けて、ギルが必死に磨いた宝玉がキシキシと悲鳴を上げている。
 それを掲げるリダもまた、ギルの支えなしにはまっすぐ立っていられないほど。気力も体力も限界に近づいていた。
 それでも、まだ足りない。
(あと少し、あと少し力が集まれば、確実に――!!)
 それでも、約束の刻限は過ぎている。今、この力を解放しなければ、もう間に合わない。
(一か八か――!!)
 発動の呪文を口にしかけた、その時――。
 ぐん、と膨大な魔力が、魔法陣を通じて流れ込んできた。
(……この、波動……?)
「リダ! 増援が来た!」
 ギルの声にちらと下を見れば、たった今着いたばかりらしい魔術士の一団が、魔法陣へと配置されるところだった。
 また一人、また一人と流れ込んでくる力。明日を、希望を。そんな思いまでもが伝わってくる。
(これなら、いける――!!)
『透明なる力よ 今ここに 集束せよ』
 今にも箍が外れて暴れ出しそうな膨大な力を整え、凝縮し。
『心重ね 共に謳わん』
 全ての思いを一つに束ね、引き絞る。
『夢は願いとなり 願いは思いとなる』
 そう、リダは忘れない。出会った人々。過ごした日々。交わした言葉。そのすべてが今、力となる。
『思いは希望となり 希望は光となる』
 そして、空を穿つように、今、解き放つ――。
『光の矢よ! 禍つ星を打ち砕け――!!』

 塔より放たれし光の矢は、群青の空を切り裂き――
 そして。

 夜空を彩る、星の雨――

「うわあ――」
 天空より音もなく降り注ぐ星屑は、夜空をなぞるようにきらきらと輝き、地平線の彼方へと消えて行く。
 それはまるで、絵師が天つ空を塗り替えんとしゃかりきに絵筆を動かしているようであり、はたまた新年を祝う巨大な花火のようであり。そしてまさに、希望の幕開けであった。
「やった、んだよね」
 力なくもたれかかる背中に問いかければ、青い瞳がゆっくりと振り返り、そして力強く頷きを返す。
「ああ。わたし達は、星を、落としたんだ!!」
 その声はかすれ、降りしきる星屑に照らされた横顔はひどく青白い。それでも彼女は杖を握り締め、ぐいと身を起こす。
「――さて、ここからが正念場だよ」
「うん。分かってるよ」
 ごくり、と喉を鳴らし、ふらつくリダにそっと手を貸して。
「さあ――逃げるよ!!」
「うんっ!!」
 紫色の長衣を脱ぎ捨て、金の髪をなびかせて。
 歓喜に沸く人々が押しかけてくる前に。音もなく、影も残さずに。
 すたこらさっさと逃げ出す二人を祝福するように、一つ、また一つと、夜空に花火が打ちあがった。


 魔術士達の歓声に目を細めていた長老は、近づいてきた足音におや、と顔を上げた。
 風になびく金の髪、優しく見つめる青い双眸を眩しそうに見つめ、そしてわざとらしく怒ってみせる。
「随分と遅いお出ましでしたな」
「すみません。ちょっと、人集めに手間取りまして」
 笑いかけてくる旧友の姿に苦笑をこぼし、それにしても、と夜空を見上げる。
「随分と派手な花火を打ち上げましたな」
 本来の色を忘れてしまったかのように、輝き続ける夜空。そこに更なる彩りを与えんとばかりに、次々と花開く光の輪。煌く光の粉がひっきりなしに降ってくるが、これは魔法だ。火花に触れても熱く感じることはない。
 そんな余力がどこにあったのかと首を傾げたくなるが、奇跡とも言える快挙を成し遂げた達成感から昂揚しているのだろう。どの魔術士も浮かれた様子で、次から次へと花火をぶっ放している。
 一体どのくらいの人間が、明日から寝込む羽目になるのやら。苦笑いを浮かべつつ、首謀者の顔をちらりと窺えば、金髪の麗人は澄ました顔で、舞い散る火の粉を見上げていた。
「さて、この事態をいかがしますかな」
 最悪の事態は免れたとはいえ、『塔』に魔術士が集結して何かやらかした、という事実は残る。いかに『塔』が治外法権とはいえ、人々に動揺を与えかねない事態であることは明白だ。
 しかし、目の前の魔術士はあっけらかんと、こう言ってのけた。
「お祭りということで、いいじゃないですか」
 その言葉に、思わず目を瞬かせる。何を言い出すのかこの人は、と口にしかけて、長老はそれをやめた。代わりに笑い混じりの溜息をこぼし、やれやれと呟く。
「まったく、あなたらしい。大人しい顔をして無茶をなさる」
「いやですね、ちゃんと考えあってのことですよ。閏年の「六日目」は魔神の祭日、ということにしてしまえば、このお祭り騒ぎも収まりがつくでしょう」
 こういうのは言ったもの勝ちですから、とご満悦な様子の友に、長老はしかつめらしい顔で尋ねた。
「それで、その無茶苦茶な言い訳は、一体誰がするのですかな?」
「それは勿論あなたにお任せしますよ、ナシュ。それでは、私はこれで」
 失礼します、という言葉が風に溶ける。
 あっという間に姿を消した古き友、そのどこか楽しげな横顔を見逃さなかった長老は、盛大にぼやいてみせた。
「まったく、《金の魔術士》ときたら逃げ足が速くて困りますな!」
 魔術士達も、そろそろ奇跡の立役者の不在に気づく頃だろう。彼らが騒ぎ出す前に先手を打たないと、無用の混乱を産むことになる。
「この老体に後始末をさせるとは、ひどい人達だ」
 言葉とは裏腹に、晴れやかな微笑を浮かべながら、長老は騒ぎの中心へと、ゆっくり歩を進めていった。


 のちに、歴史書はこう語る。

 ファーン復活歴649年 新年祭六日
 魔術士ら、『西の塔』に集い、魔神リィームに光の花を捧げん。
 希望の光は夜空を覆いつくし、新たなる明日を生み出さん。
 後年〈月の祭〉と称される、魔術士らの祭日の始まりである――。



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