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てのひらの楽園

36 etude」 35:「楽園」


 乳白色の空
 むせ返るような熱気
 生い茂る南国の緑
 僕らはそこを《楽園》と呼んでいた――


 つるりとした白磁の肌に、さっと刷かれた鮮やかな緑。
 金泥に縁どられた真ん丸の瞳が、こちらをじいっと見上げている。
「なんですか、これ」
 首を傾げるエスタスに、帽子に積もった雪を払っていた村長は細い目を更に細めて答えた。
「カエルです」
「いや、それは分かりますけど」
 村長が持ち込んできたソレ――机の上に置かれた小さな陶器の置物は、誰がどう見てもカエルをかたどったものだ。大きさも造形も本物そっくりだが、鮮やかな金泥の装飾がされたカエルなど見たこともない。
「今日届いた荷物に紛れていたんですよ。珍しいものなので、カイト君に見てもらおうと思ったんですが――」
 言いながら、きょろきょろと辺りを見回して首を傾げる村長。
「てっきりこちらにいらっしゃると思ってたんですが?」
「二階で本を読みふけってますよ。ずっと心待ちにしていた本が届いたらしくて、飯の時間にも降りてこないんです」
 今朝方エスト村に届いた荷物は、今年最後の定期船が運んできたものだ。まだ新年まで一月ほどあるが、本格的な雪は半月も前から降り続いている。これが更に積もると荷物はおろか手紙の配達も滞るようになり、村は雪解けまで外部との交流が絶たれて陸の孤島と化すわけだ。
「カイトさんらしいですねえ」
「夕飯はご馳走だから、匂いに釣られて降りてくるわよ」
 背後から響いてきた朗らかな声に、村長はおやおやと笑顔を見せた。
「レオーナ、さっき届いた酒の味見役は入用じゃありませんか?」
「残念でした、もうエスタスが味見してくれたわよ」
 とほほ、と肩を落としてみせる村長にくすりと笑みをこぼしつつ、『見果てぬ希望亭』の美人女将レオーナは手にしたお盆から湯気の立つ茶器を食卓に手際よく並べていく。
「今日はご馳走とは、何かいいことでもありました?」
「いやねえ、もう忘れたの? 今日はエドガー達が狩りに行ってるでしょう?」
 そうでした、と頭を掻く村長。厳しい冬の到来を前に、村人達は食料や薪の備蓄に余念がない。
「きっと大物を獲って来てくれるわよ」
 ほくほく顔のレオーナ。彼女の夫にして『見果てぬ希望亭』の専属料理人エドガーは、”戦う料理人”の異名を持つむくつけき大男だ。熊と見まごう外見にそぐわぬ繊細な料理を作るが、包丁だけでなく斧や弓も自在に操る。今頃は林の中で鹿でも狙っていることだろう。
「オレも行こうかと思ったんですけど、アイシャがあの調子なんで」
 ひょい、と指さした先には、ぱちぱちと燃え爆ぜる暖炉の炎。煮込み料理もできる大きな暖炉の前には、なにやら毛皮の塊のようなものが転がっている。炎を前に微動だにしないその塊からは、よく見れば褐色の腕が伸びていて、火の女神を崇める如く燃え盛る炎に両手をかざしていた。
「えーっと、あれはアイシャさんですか?」
 困惑気味に頬を掻く村長に、やれやれと肩をすくめるレオーナ。
「去年もこうだったけど、今年は更に寒いでしょう? もう暖炉の前から離れられないみたいでね」
「気づくと焦げかけてるもんで、誰かが見てないと危ないんですよ。あっ、ほら言わんこっちゃない、アイシャ! どっか焦げてるぞ!」
 泡を食って駆け寄るエスタスと、裾を焦がしながらも暖炉の前から離れようとしないアイシャ。そしてここにはいない知識神の神官カイト。彼ら三人組がエスト村にやってきたのは去年の秋だったか。村にほど近いルーン遺跡探索の拠点としてこの村を選んだ彼らは、村に一軒しかないこの酒場兼宿屋『見果てぬ希望亭』を定宿として、月の半分は遺跡に潜りっぱなしの生活を送っている。
 とはいえ、北大陸の冬は長い。雪が積もれば遺跡までの道も閉ざされて、遅い春の到来をひたすら待つのみだ。故にこの時期の彼らは村での雑事を請け負って日銭を稼ぐ日々を送っており、今日もエスタスは朝から薪を割り、カイトは子どもらに勉強を教え、そしてアイシャはひたすら暖炉に当たっている。
「今年は例年になく冷え込んでいますから、南大陸出身の彼女には堪えるでしょうねえ」
「そうなのよ。それに何か、ずっと顔色も悪いし……ちょっと心配だわ」
「確かに、最近妙に青ざめてますよね」
 褐色の肌を持つアイシャの顔色は分かりづらいのだが、最近はなんとなく色褪せているような印象を受ける。それが体調不良によるものなのか、単純に寒いからなのかが分からずレオーナも気を揉んでいるのだが、何しろこの村には医者がいない。簡単な怪我の手当て程度ならレオーナや村長でも出来るが、病気となるとお手上げだ。
「本人に聞いても、大丈夫としか言わないんですよ」
 ちらり、と毛皮の塊に視線を投げかければ、小さなくしゃみがそれに応えた。見れば暖炉の炎が小さくなってきている。
「薪を取ってきます」
 上着をひっつかみ、飛び出していくエスタス。両開きの扉をばん、と開ければ、待ってましたとばかりに雪が吹き込んでくる。扉の向こうは見事な銀世界だ。雪まみれの広場ではレオーナの子ども達が雪遊びに夢中になっているが、あと少しすれば両手と両頬を真っ赤に染めて逃げ帰ってくることだろう。
「いやはや、子ども達は元気ですねえ。羨ましいことで」
 年寄りじみた感想を述べつつ、すでに冷めかけているお茶に手を伸ばせば、レオーナがあら、と鈴のような声を上げた。
「どうしたの、このカエル?」
 つるりとした緑色の背中をそっと撫でるレオーナに、村長はそうでした、と笑う。
「今日届いた荷物に、南大陸からのものがあったでしょう? あれに紛れていたんですよ」
「ああ、リンドさんが頼んでたやつね。いつもの煙草の箱と、その他にも何か入ってたみたいだけど」
「南大陸でしか取れない香辛料の類を送ってもらったそうなんですが、その中に紛れていたそうで。カイト君に聞けば何か分かるかと思って預かってきたんですけどねえ」
「呼びました?」
 階段の方から聞こえてきた声に振り向けば、そこには朝からずっと自室にこもっていた知識神の神官が、本を小脇に抱えて降りてくるところだった。
「いやあ、読みふけってたらいつの間にかこんな時間になっちゃいましたよ。レオーナさん、何か食べる物あります?」
「はいはい。待っててね、すぐに用意するから」
 お盆を抱え、厨房へと消えていくレオーナ。入れ替わりに席へ着いたカイトは、エスタスのために用意されていたお茶を遠慮なく飲み干して、そこで初めて机の上に置かれた緑色のカエルの存在に気が付いたようだ。一目見るなり嬉しそうな声を上げて、つるりとした頭に指を伸ばす。
「珍しいですねえ。南大陸の船乗りが持っているお守りじゃないですか」
「お守り?」
「ええ。元々は船に積む水の鮮度を見るために、樽に生きたままのカエルを入れていたそうなんですが、そこから転じて『船乗りのお守り』となったらしいんです。大体は木彫りの首飾りや帯飾りなんですけど、陶器というのはなかなか凝ってますね。これはオーリン王国のものかな? この模様の感じだと恐らくガラン地方の……」
 またぞろ長くなってきた話を適度に聞き流しつつ、村長は小さなカエルをそっとつまみ上げ、てのひらに乗せた。
「なるほど、君はお守りでしたか。きっと荷降ろしの際か何かに、船員さんの私物が紛れてしまったんですねえ」
 できることなら持ち主に返してやりたいところだが、次の定期船がやってくるのは来年の春。あと三月以上は待たねばならない。
「定期船が来るまでうちで預かっておきましょうか」
 懐にしまい込もうとした瞬間、ひょいと伸びてきた褐色の手が、まるでトカゲが獲物をしとめるかの如く小さなカエルを掻っ攫っていく。
「アイシャさん!?」
 珍しく慌てた声を出す村長の隣に、いつの間にかやってきた毛皮の塊――もとい、精霊使いの少女アイシャは、陶器のカエルをそっと掌で包み込み、ぽつりと呟いた。
「南の匂い」
 陶器製なのだから匂いなどつくはずもない、そう反論しようとしたカイトをそっと押しとどめて、村長はそっと少女を窺う。
「故郷を思い出しますか? アイシャさん」
 穏やかな問いかけに、南の国から旅をしてきた少女は小さく頷いた。
「懐かしい、匂い」
 己のことなどほとんど話さない彼女が珍しく零した郷愁は短く、そして深い。
 そのまま黙り込んでしまったアイシャを気遣うように、村長はわざと明るい声でカイトに話題を振った。
「そう言えばカイト君、何の本を読んでいたんですか? 届くのにずいぶん時間がかかったと聞きましたが」
「そうなんですよ! 夏頃に注文したんですが、なかなか届かなくて大変でしたよ。南大陸における動植物についてまとめた本なんですが、それはもう、珍しいものばかりでしてね! そうそう、そう言えば興味深い記述を見つけたんです、ほらここ――」
 抱えていた本を開いて机の上に置いた瞬間、まるで示し合せたかのようにばんっと扉が開く。
「ただいまー。ん? どうしたんだカイト? そんなところで固まって」
 雪まみれになって戻ってきたエスタスに、カイトは猛然と抗議の声を上げた。
「エスタス! びっくりさせないでくださいよ!」
「だから何がだよ? ほらアイシャ、薪の追加持ってきたぞ、ってあれ?」
 騒がしい相棒の脇を通り過ぎ、抱えていた薪の束を暖炉脇に積もうとして、さっきまで暖炉の主と化していたアイシャの姿がないことに気づく。
「アイシャ?」
 キョロキョロと辺りを見回せば、ちょうど毛皮の塊を脱ぎ捨てて数日振りにいつもの姿に戻ったアイシャが、颯爽と扉から出ていくところだった。
「アイシャ!? どこ行く気だ!?」
 ばん、と扉を開け放ち、南国の娘はきりっと言い放つ。
「《楽園》へ」
「はあ!?」
 思わず声を揃えてしまった男性陣には構わず、くるりと踵を返すアイシャ。そこに、どんと立ちふさがる黒い壁。
 ぼふん、とぶつかったアイシャをものともせず、その「黒い壁」は重低音で問いかけた。
「どこに行く」
 肩にどでかい獲物を担ぎ、手には使い込まれた大型の弩。背中には矢筒と共に馬鹿でかい斧を背負った『料理人』エドガーは、驚きの表情で固まった少女をずずいと室内に押し戻すと、声を聞きつけてやってきたレオーナに弩を預け、ようやく空いた手で焦げ茶色の頭をぐりぐりと撫でる。
「おやつの時間だぞ。出かけるのはその後だ」
 有無を言わさぬ迫力に、子どものようにこくんと頷いて、スタスタと暖炉の前に戻るアイシャ。
 そして気が抜けたように立ち尽くす男性陣をちょいちょいと手招きして、エドガーは担いでいた獲物をぼん、と押しつけた。
「うわっ! でかい鹿だなあ、よく獲れましたね」
「お、重いですねえ。納屋に運んでおけばいいですか?」
 村長の言葉に頷いて、さっさと厨房へ向かうエドガー。心得たようにレオーナが扉を開けて、まだ雪遊びにご執心な子ども達を呼び戻す。
「みんなー! おやつよ!!」
 広場から上がる大歓声に驚いたように、屋根の雪がどさりと落ちた。


 《楽園》――。
 今から千年以上前に滅びた魔法都市ルーン。その首都部遺跡の地下深くに、それはあった。
 樹木の根と苔に覆われ、元の床などとうに見えなくなった地面。生い茂る木々を掻き分けたその先に流れる、清らかな水の流れ。
 むせ返るような熱気を切り裂くように極彩色の鳥が飛び、緑の葉には蝶が羽を休め、色鮮やかな魚が水面を跳ねる。
 それは千年もの時を経て、未だ色褪せぬ魔法大国の夢――。
 初めてこの部屋を見つけた時、カイトがまるで楽園のようだと騒いだことから、その部屋はそのまま《楽園》と呼称され、遺跡探索の重要な中継地点となっていた。


「それにしても、一体何の目的で作られた部屋なのかしらね?」
 首を傾げるレオーナに、待ってましたとばかりに口を開いたのはカイトだ。
「あそこには貴重な熱帯の植物が多く植わっていますから、研究用の温室だったんじゃないかと思うんですよ。もしくは娯楽用に、人工の熱帯雨林を再現して冬でも真夏の気分を味わえるようにしたとか、もしくは南方から来た――」
「つまり、古代の施設が運良く崩壊を免れてそのまま残り、生い茂った植物が部屋を埋め尽くして独自の生態系を確立し、今に至るということですか。いやはや、興味深いですね」
 長くなりそうな話をあっさりまとめて、うんうんと頷く村長。
「で、なぜ《楽園》なんです?」
 ひょい、とアイシャを振り返れば、パイの欠片を名残惜しそうにつついていた少女は、胸にそっと手を当てて呟くように告げる。
「帰りたがってるから」
「帰りたがってる? 誰が」
「この子」
 胸元に手を突っ込み、ごそごそと取り出したのは先程のカエルだ。勿論陶器のお守りが喋るはずもないが、この少女が冗談や嘘を口にする性質でないことは、ここにいる誰もが知っている。
「カエル君の件は置いておいても、《楽園》に行くというのはいい案だと思いますよ。アイシャのために」
 きゅ、と眼鏡を持ち上げて断言するカイトに、はあ? と間の抜けた声を上げるエスタス。
「なんでそうなるんだよ?」
「もう、さっきから言ってるじゃないですか。この本に書いてあったんですよ、アイシャがずっと調子を崩している理由が! 要するに南大陸の日照時間と北大陸の日照時間には――」
「だからもっと簡潔に喋れ!」
 いつものやり取りに苦笑いを浮かべ、まあまあと割って入る村長。
「つまりこういうことでしょう。そのお守りのカエルさんは故郷が恋しい。アイシャさんは長く故郷から離れたために体調不良を起こしている。両者のためにも《楽園》へ向かうのが望ましい、と」
 いかがでしょう? と一同を見回す村長に、カイトとアイシャが頷きを返す。
「……やっぱりよく分からないんですけど」
「行けばわかりますよ。そうと決まれば、早く動いた方がいいでしょう。レオーナ、ソリを貸してもらえますか?」
「構わないけど?」
 突然の言葉に目を瞬かせるレオーナの隣で、ぬっと立ち上がるエドガー。そのまま外へと出ていくのを、おやつを食べ終えた子供たちが賑やかに追いかけていく。
「遺跡までの道は雪に閉ざされていますからね。馬車ではもう入っていけませんが、ソリならまだ大丈夫でしょう」
「いや、あの、いつもみたいに歩いて行きますから……」
 遠慮しようとするエスタスに、村長は珍しく厳しい表情で駄目ですよと首を振る。
「北大陸の冬を舐めていてはいけません。今年は去年以上に雪が多い。途中で嵌って立ち往生なんて洒落になりませんよ。それに、アイシャさんを遺跡まで歩かせるのは酷というものですし、天候によっては何日か滞在を余儀なくされることも考えると、食糧も積んでいった方がいいでしょう」
「そうよ。エスタスならアイシャを背負って往復できるかもしれないけど、カイト君に食料を背負わせたら遺跡に辿り着くのも難しいんじゃない?」
 的確な指摘にぐうの音も出ない二人。二人が押し黙ったのを是認と受け取って、レオーナは勢いよく椅子から立ち上がった。
「当座の水と食糧を用意してくるわ。あなた達も急いで支度をしてらっしゃい。ほら、駆け足!」
「は、はいっ!」
 "母の号令"に逆らえるはずもなく、わたわたと階段を駆け登って行く三人。そんな彼らを見送って、村長もまた立ち上がった。
「マーティンさんのところから馬を借りてきます。御者は誰が適任でしょうかね?」
「やってあげたら? どうせ暇でしょ?」
 きっぱりと断言されて、思わず苦笑を漏らす村長。
「まあ、あとは新年祭の打ち合わせくらいしかやることはありませんからね。たまには若者の手助けでもしてみますか」
「たまには体を動かさないと鈍っちゃうものね。ちょうどいいじゃない、一緒に遺跡探索でもしてきたら? 凄腕の冒険者さん」
 十五年ほど前、辺境の村にふらりとやってきた胡散臭い旅人が、今やエストの長だ。当時を思い出し、くすくすと笑みをこぼすレオーナ。
「遺跡探索に来たって言いながら、結局ろくに潜らずに廃業しちゃったでしょ? 若かりし頃の夢をもう一度追いかけてみてもいいんじゃない?」
「さすがにもう無理ですよ。それに、彼らの楽しみを奪ってしまったらかわいそうでしょう?」
 言うわねえ、と肩をすくめ、厨房へと消えていくレオーナ。その麗しい後姿を見送りながら、村長は手早く外套を羽織ると、雪の舞う広場へと駆け出して行った。


 白銀の世界を、三頭立てのそりが行く。
 鈴の音を響かせて、向かうは彼方にそびえる古代の都市。
「風が出てきましたね」
 毛皮の帽子をぐっと深く被り直し、手綱を握る村長。どこか楽しげな横顔を、冷たい風が撫でていく。
 荒野を吹き抜ける風に舞い踊る雪。それはまるで、雪の精霊達がソリを相手に気まぐれな踊りを披露しているかのようだ。
「見えてきましたよ!」
 村長の声に、それまで荷物と同化していた毛皮の塊がぴくりと動く。
「もうじきですよ、アイシャ」
 揺れるソリの中、必死に荷物を押さえ込んでいるカイトが歓声を上げれば、毛皮の塊からひょこっと顔が出てきて、少しだけ笑った、ように見えた。


 半壊してなお街を守り続ける石造りの城門で村長と別れ、通い慣れた石畳の道をひたすらに進む。
 かつて強大な魔法力を以て全世界を統治していた大国も、今や雪に埋もれた瓦礫の山だ。
 突然の滅亡から千余年。そのほとんどが倒壊し、風化してしまっている首都部遺跡だが、辛うじて残っている建物の中には、当時の魔導装置が生きている部分もある。
 崩れかかった螺旋階段を下へ進むごとに、薄れていく寒さ。外の吹雪が嘘のように、地下施設は穏やかに保たれていた。
 恐らくは研究施設だったのだろう建物の地下通路は、その天井や壁自体がほのかな光を帯び、彼らを最奥の部屋へと導いてくれる。
 近づくごとに空気は湿り気を帯び、心地よい熱が体にまとわりついてくる。
 一枚、また一枚と防寒着を脱ぎ捨て、最後はいつも纏っている貫頭衣さえも脱ぎ捨てて、裸足の少女が廊下を駆ける。
 服を拾いながら追いかける仲間の声など、もはや耳に入っていないのだろう。褐色の肌を惜しげもなく晒して、最後の扉に手をかけた瞬間。
 光が、溢れた。


 ねっとりとした空気。濃厚な緑と土の匂い。
 太陽など拝めるはずもない地底深くにありながら、そこには乳白色の光が満ち、まとわりつくような熱気が充満している。
 中央にそびえるのは樹齢千年を超える巨大な《母なる樹》。彼女が枝や根を隅々まで巡らせているおかげで、この楽園は千年もの時を生き延びてきたのだろう。
「相変わらずだな、ここは」
 蔓延る植物を掻き分け、唯一残った人工物である東屋に辿り着いて大きく息を吐く。この《楽園》でまともに座れる場所はここだけだ。
「これで湿っぽくなければ更に快適なんですがねえ」
「文句言うなよ。で? ここにくればアイシャが元気になるって、どういうことなんだ?」
「ああ、そのことですか」
 半分曇った眼鏡を服の裾で拭きながら、カイトは滔々と語り出した。
「これは今朝届いた本に書かれていたことなんですが、我々は元々、適度な日光を浴びることで体調を整えているそうなんです。特に南国の人間は普段から大量の日光を浴びて暮らしているため、それが極端に減ってしまうと体調を崩してしまうそうで……。今年は冬が早くて、ずっと曇り空が続いていたでしょう? それに寒がって厚着をしたり、室内にこもりがちになっていたから、余計にひどくなってしまったんですよ」
「なるほど……そういうことか。蝋燭や角灯の光じゃ駄目なんだな」
「はい。でもここなら――」
 半分抜け落ちた東屋の屋根から降り注ぐ乳白色の光。それは、蝋燭や角灯の炎とも、また魔法で生み出された青白い明かりとも違う、不思議に懐かしい暖かな光だ。
「どういう仕組みかは分かりませんが、この《楽園》の天井や壁から放たれる光や熱は、本物の太陽光と酷似しています。これなら、きっとアイシャの体調も良くなると踏んだんですよ」
 カイトの言葉通り、すっかり元気を取り戻したらしいアイシャは先程から、《楽園》の中を縦横無尽に駆けずり回っている。
 絡まる蔦に掴まって枝を渡り、流れる水を跳ね散らかして、苔むした岩に登り――。鳥の鳴き声や水音と相まって、まるで太古の精霊が奏でる楽曲に合わせて舞い踊っているかのようだ。
「すっかり元気になったじゃないか」
「効果覿面でしたね。良かったよかった」
 ほっと胸を撫で下ろす二人の目の前を、眩しいくらいに青い蝶がひらりと横切っていく。その動きはどこかぎくしゃくとしていて、エスタスは苦笑交じりに蝶を指にとまらせた。
「こいつ、前に来た時に直してやったやつか」
 色鮮やかな南国の蝶。しかしよく見れば、それが精巧な作り物であることが分かる。金属ではない、しかし強度のある不思議な素材で出来た蝶は、翅の一部が欠けたところを無理やりに繋げてあった。
「面白いですよねえ、この部屋の中でだけ生きたように動く、魔法仕掛けの生き物達なんて」
 《楽園》の植物は全て本物だが、鳥や虫、魚といった生き物達は全て作り物だ。魔術的な仕掛けで動き続けているだろうことは確かだが、動力源は何なのか、どういう仕組みで動いているのかなど、詳しいことは何も分からない。
「魔術士の塔に持っていけば、きっとちゃんと直せるんでしょうけどね」
「お前、ここを見つけた時からずっとそう言ってるくせに、面倒がって全然連絡取ろうとしないじゃないか」
 これだけの発見を、彼らはまだ世間に公表していない。何もこの場所を独り占めしたいわけではなく、手続きが面倒だからというのがその理由だ。
 何しろこれだけの魔術装置が今も動いている場所だ。ルース神殿だけでは正確な調査ができないため魔術士の協力を仰ぐ必要があるが、この北大陸には魔術士の数が少なく、魔術士の相互扶助機関である魔術士ギルドもあてにならない。唯一まともに機能している魔術士の研究機関《北の塔》は隣国ライラの外れにあり、手紙を送るにも時間がかかるときた。
「春になって配達が再開したら手紙を送りますよ。それまではもう少し、アイシャに楽しんでもらってもいいでしょう」
 本格的な調査が始まってしまったら、ここにはもう入れない。それが惜しいという気持ちも、きっとどこかにあるのだろう。
「そうだな。《楽園》は逃げも隠れもしないわけだしって……アイシャ! カエルはどうした!?」
 慌てたようなエスタスの声に、いつの間にか《母なる樹》の枝によじ登っていたアイシャは、東屋のすぐそば、小川の畔に転がる苔むした岩をひょいと指さす。
「そこ」
「ええっ!? あんなところに置いたらどこかへ行っちゃいますよ!」
「おい、預かりもんなんだから失くしたらまずいんだぞ」
 泡を食って東屋を飛び出そうとした二人の目の前で、陶器のカエルがぴょん、と飛ぶ。
「えっ!?」
「なにっ!!」
 目を剥く二人を笑うように、滑らかな白磁の頬を膨らませ、気持ちよさそうにケロロロ、と鳴くカエル。
「なっ、なっ……なんで動いてるんですか!?」
 ずり落ちた眼鏡を持ち上げ、ぐいと身を乗り出すカイト。そんな彼をからかうように、カエルは軽やかにぴょんぴょんと跳ねて、清らかな水の流れへと身を躍らせる。
「ええええええ!?」
 すいすいと泳ぐそのさまは、生きたカエルそのものだ。
 絶句する二人に、枝の上からひそやかな笑い声が振ってくる。
「アイシャ!? これはどういう――」
「《楽園》の魔法」
 いたずらっ子のような瞳でほほ笑むアイシャ。それもまた、《楽園》の魔法なのかもしれない。
「……驚くだけ損か」
 千年前の夢が息づく場所だ。何が起きても不思議ではない。
 はあ、と大きく息を吐き、湿った空気を胸いっぱいに吸い込んで。
「しばらくはここで、冬を忘れてのんびりするとしようか」
「ですね。そうと決まれば、中断してた調査を再開するとしましょうか! さー、張り切ってやるぞー!」
 俄然やる気を出すカイトに無茶すんなよと釘を刺しつつ、東屋の長椅子にごろりと横になる。
「ああっ、エスタス! 手伝ってくれないんですか!?」
「少しはのんびりさせろよ。あとで手伝うから」
 ぶーぶーと文句を言う相棒を適当にあしらって目を閉じれば、梢のざわめきが通り過ぎていく。


 乳白色の空
 むせ返るような熱気
 生い茂る南国の緑
 鳥の囀り 舞い踊る蝶
 虫たちの囁きと カエルの合唱
 そこは きっと
 女神が掬い上げた てのひらの楽園――


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