2.律動する大地
 昨晩聞いた話が蘇る。ラーンの母親を殺し、神器を奪い去った邪教集団。禍々しき炎を操り、人々の心に静かに忍び寄る――。
「金具が錆びてない。そんなに昔の物じゃないな。やっぱり、この辺りで目撃されていた黒装束の連中は『黒き炎』なのか……?」
 唸るように呟くラーン。思わず握りしめた拳の中で、首飾りがぎしりと耳障りな音を立てる。その不快な音に思わず顔をそむけた先に、エルクは再び不可解なものを見つけてしまった。
「ラーンさん、あれ、何でしょう?」
 茂みの向こう、岩肌に入った大きな亀裂のそばに小さな祭壇のようなものが組まれている。亀裂は前からあるものだが、祭壇に見覚えははい。
「前はこんなものなかったのに……」
 ここに来たのはおよそ一月ぶりだが、以前はこんなもの存在しなかった。
「ってことは、わりかし新しいものなんだな」
 大股で祭壇に歩み寄り、長身を屈めて祭壇を検分するラーンの後ろから、そっと覗きこんでみる。木組みの他には何も残されていなかったが、その下で何か光ったような気がして、思わず声が出た。
「あっ、あれ!」
「ん? ああ、なんか光ってるな。ちょっと待て……」
 革の手袋を嵌め直し、木組みの下へと手を差し入れるラーン。そして彼がそこから拾い上げたのは、光る破片だった。
「なんだこれ?」
「鏡、でしょうか」
 覗き込んだ二人の、当惑した表情までが鮮明に映し出されるそれは、恐らく鏡の破片だろう。破片から推測するに、元の形は真ん丸で、大なべの蓋ほどはありそうだ。縁には複雑な模様が掘り込まれており、実用品というよりは芸術品のように見える。
「昨日光って見えたのはこれか? ……ただの鏡に見えるけど、これも何かの神器なのかもしれないな」
 つまんだ破片を矯めつ眇めつしながら呟くラーンの隣にしゃがみ込み、他にも落ちているものがないかと木組みへ手を伸ばした、その瞬間。
「伏せろ!」
 鋭い声に、思わず首をすくめる。その頭上を何かが掠めていき、背後の岩壁にぶつかって鈍い音を立てた。
「えっ!?」
「囲まれたか」
 エルクを背に庇うように立ち上がったラーンの手には、いつ抜かれたのか長剣が握られていた。そしてその向こう、草むらを乱暴に踏み分けてこちらへやってくるのは、明らかに人とは違う姿をした  妖獣。 「土鬼!?」
 エルクよりも背の低い、ごつごつとした体。ぼろ布をまとっているだけの肌は緑がかった茶色をしており、ぎょろりとした目でこちらを見つめている。尖った耳に張り裂けた口はお伽噺に出てくる怪物そのものだ。冒険譚ではよく出てくるし、最近は街道沿いでも目撃例があるが、実物を見たのはこれが初めてだった。
 土鬼と呼ばれる彼らは普段、山中の洞窟などで長を頂点にした集団生活を営んでいるという。しかし時折、地上に現れては農作物や家畜を奪ったり、時には人間に害をなすこともある。
「ラーンさん!」
「大丈夫だ。そこでじっとしてろ」
 土鬼の数は四匹。聞き慣れない言葉を交わしながら、じわじわと距離を詰めてくる。手には棍棒のようなものをぶら下げているが、とても扱いに慣れているようには見えなかった。それでも、力任せに振り回せば獲物の頭を割るくらいは造作もないだろう。
 悪夢のような光景に足が震える。物語の中ではあっという間に勇者に倒されて終わりの土鬼が、いざ目の前にすると、足が竦んでしまうほどに恐ろしい存在だったとは。やはり物語と現実は違うのだということを、嫌というほど思い知らされる。
 しかし、目の前に立ちはだかる赤毛の剣士は、友人にでも会ったかのような気安さで、今にも襲い掛からんとする土鬼達へと声をかけた。
「出てきやがったか。仲間の敵討ちか? それともただの通りすがりか? ま、どっちにしても――」
 倒すけどな! と軽やかに言い放ち、同時に地面を蹴る。土鬼はおろか、後ろで成す術もなく硬直していたエルクでさえも、その動きをしかと捉えることはできなかった。
 白刃一閃。空間ごと切り裂くような白銀の軌跡が見えた、と思った次の瞬間、吹き上がる緑の血飛沫に視界が遮られる。
 とっさに腕で顔を庇い、そして恐る恐る目を開けたその時には、すでに戦いは終了していた。
 そこらの草を引き抜いて刃についた血を拭うラーンの向こうには、地面に倒れ伏した土鬼達の姿。それは瞬く間に土くれとなって崩れていき、谷を渡る風にさらわれて消えていく。
 余りにもあっけない幕切れに、瞬きすることすら忘れて呆然としていると、剣を収めたラーンが振り返ってぎょっと目を見開き、そして困ったような顔で手を伸ばしてきた。
「悪い。怖かっただろ」
「いえ……その……」
 差しのべられた手に掴まって立ち上がり、改めて目の前の剣士を見上げる。剣の一振りで妖獣達をあっけなく土に還した赤毛の剣士。強いとは思っていたが、まさかこれほどの腕前とは思わなかった。そして――大して歳の違わない彼がここまで強くなった理由を思うと、胸が痛んだ。
「ほら、拭けよ」
 ばたばたと体を探っていたラーンが何か突き出してきたかと思ったら、それは丁寧に折りたたまれた手巾だった。きょとんと首を傾げるエルクに、そのなんだ、と頬を掻いてごにょごにょと言い訳を始める。 「リファに言われてたけど、どうも分かんなくてな。こういうのが怖い方が当たり前で、慣れちまってる俺達の方が異常なんだって」
 いつまでも受け取ろうとしないことに業を煮やしたのか、手巾を握りしめるようにしてエルクの目に押し付ける。そこで初めて、エルクは自分が涙を流していることに気付いた。
「えっ……僕、泣いてますか」
「ああ。せめて目を瞑っとけって言えばよかったな。悪い。ほんっとーにすまん」
 いささか乱暴に顔中を拭われて、ようやっと張りつめていた心が解けていく。気遣われることがくすぐったくて、でもなんだか嬉しかった。
「おっ、おい、まだ泣くか? おーい、困ったな」
 再び溢れ出した涙にアタフタするラーンの様子が面白くて、思わず笑ってしまう。まさに泣き笑いの相となったエルクに、ラーンはなんだなんだともう一騒ぎし、ようやくほっと息を吐いた。
「すみません。守ってもらったのに、泣き出しちゃうなんて」
 怖かった。足が竦んだ。逃げ出してしまいたいと思った。
 でも――立ちはだかった背中が、とても頼もしかったから。きっと大丈夫だと、心のどこかで確信していた。
「お前すごいよ。ちゃんとじっとしてたもんな」
 慌てふためいて暴れ出す奴だっているんだから、とわしわし頭を撫でられて、また子供扱いする、と膨れてみせる。
「いやほんとだって。味方に足を引っ張られるのが一番厄介だからな。お前はちゃんと自分ができることをしたんだ。誇っていい」
 まっすぐな言葉はすとんと心の底に落ちて、じんわりと広がっていく。守られてばかりの自分でも、きちんと役割を果たしていると言ってもらえたのが嬉しかった。
 ほっと気が抜けたところで、はたと重大なことを思い出す。ここに土鬼が現れたということは――!
「ラーンさん! 皆が……!」
「そうだな、リファがついているとは言え、心配だ。急ごう!」