2.律動する大地
 ぱん、と乾いた音が谷に響く。
「いい加減にしなさい」
 力強い言葉に気圧されて、叩かれた頬を押さえたまま目を瞬かせるザドリ。その目の前には、今まで見たこともない表情で佇んでいるエルクの姿があった。
「土鬼に立ち向かえとは言わない。僕だって何もできなかった。でもね、危険を顧みず助けてくれた人に向かって、そんな酷い言葉を吐くなんて許せない」
 そこにいる誰もが驚愕し、エルクを見つめていた。いつも穏やかで、少し離れたところで静かに笑っているようなエルクが、こんなにもはっきりと怒りを表したことなど、これまで一度もなかった。
「謝りなさい。君がしなきゃいけないのは相手を口汚く罵ることじゃない。助けてもらったことに心から感謝することだよ」
 その言葉はどこまでも静かで、それだからこそ逆にエルクの怒りが切々と伝わってくる。
「なっ……なんだよ! 養い子のくせに、生意気なこと言うなよ!」
 空回りする威勢に、しかしエルクは挑発されたりしなかった。だから何? と冷ややかに年下の少年を見上げ、平坦に続ける。
「僕が養い子なのと、君が二人を侮辱したことには何の関係もないでしょう」
「う、うるさい! 黙れ黙れ黙れ!!」
 駄々っ子のように怒鳴り散らし、周囲からの冷ややかな視線に頬を紅潮させ  そしてザドリは禁断の言葉を吐いた。

「尖り耳のくせに!」

 凍りついたエルクの頭布をぐいとつかみ、一気に引っ張る。慌てて手を伸ばしたが、もう遅い。
「お前……」
 驚いたようなラーンの声に、慌てて両耳を押さえる。
 薄茶色の髪から覗く、先端が僅かに尖った耳。異端を目ざとく見抜く子供達は、いつだってこの耳をからかい、嘲ってきた。大人達もこの耳を見るたび無遠慮に眉を顰めた。だから、ずっと隠してきたのに。
「その耳、あの化け物と同じじゃないか!」
「違う、僕はっ――!」
 ぶんぶんと頭を振り、何とかザドリに反論しようとするが、肝心の言葉が出てこない。何か言わなければ、と焦れば焦るほど、言葉は泡となって喉の奥で弾けてしまう。
 そこへ、とどめの一撃が来た。
「どれもこれも全部、お前のせいだ! お前が村に来た時も、同じように化け物どもを引き連れてきたんじゃないか!」
 刹那、まるで世界が止まってしまったかのように、すべての音が止んだ。
 何も聞こえない。何も見えない。ただ、ザドリの声だけが、頭の中に反響して止まない。

 オマエガムラニキタトキモ――バケモノドモヲヒキツレテキタ
 バケモノドモヲ――

「エルク!」
 急に飛び込んできた声はラーンのものだった。その怒鳴り声で呪縛が解けたかのように、どっと音と光が降ってくる。
 気づけばエルクはラーンにしかと抱きとめられていて、自分が倒れそうになっていたことを遅れて悟った。
「お前――ザドリ、だったな」
 頭上から、怒りを孕んだ声が響く。首だけ動かして幼馴染を窺えば、彼もまた気が抜けたかのように地面にへたり込み、呆然とラーンの怒声を浴びていた。
「お前、言っていいことと悪いことの区別がつかないのか!? 俺達を疑うならまだいい。だが村の仲間を疑うなんて、一番やっちゃいけないことだろうが!」
 雷のような怒声に慄いたのは、ザドリだけではなかった。気まずそうに顔を見合わせた大人達は、先ほどまで英雄だ宴だと浮かれていたのがウソのように、神妙な顔をして下を向いている。ザドリと同じことを、ちらとでも考えてしまったのだと、そう顔に書いてあるようだった。
「ザドリ。あなたはエルクより年下のはずですね」
 怒り狂うラーンには任せられないと悟ったか、続きを引き受けたのはリファだ。
「なぜ、そのことを知っているのですか? 村長は箝口令を敷いたと言っていました。その場に居合わせた大人はともかく、子供らが知っていていい話ではありません。誰があなたの前でそんな話をしたのですか」
 それは、と口ごもるザドリに、リファは淡々と畳み掛ける。
「言わずとも大体想像はつきますけどね。エルクを村に入れることを強硬に反対した大人がいたと聞きました。よそ者を、しかも曰くつきの人間を迎え入れれば災厄を招くと……。そう言えば、他の子供達は家族と来ていますが、あなたの親御さんは見当たりませんね?」
 ぎょっとして顔を上げるザドリ。その顔が、驚きと恐怖に彩られているのを見て取って、リファは冷酷に断言した。
「あなたのお父さんですね、強硬な反対派は。だからあなたも親を見習ってエルクに辛く当たるんですか」
「ち、違う、俺っ――」
「ザドリ、どういうこと? 僕は――僕は、何も知らない!」
 ラーンの腕を振り払い、へたり込んだままのザドリに詰め寄ろうとして、横から伸びてきたリファの腕に引き留められる。華奢な手は思いのほか力強く、そして暖かく――思わず振り返れば、海のような瞳が優しく見つめていた。
「エルク。それは彼に聞くことではありません。帰りましょう、あなたの家へ。あなたの帰りを待ち侘びている人達がそこにいます」
 十四年もの間、血の繋がらない子供を慈しみ、育ててくれた二人。彼らにこそ真実を問いなさいと暗に告げるリファに、疑問と驚きでいっぱいになっていた心がふわりと解れたのが分かった。
「――はい。そうします」
 素直な返事に、金髪の魔術士はいい子ですね、と微笑んで、優しく頭を撫でてくれた。