4.空に潜る
 予想外の言葉に、ええっと目を丸くするエルク。ラーンも訝しげに、そんなことができるのかと目で訴えかける。二人の反応を満足げに見つめ、リファはおもむろに懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「実は、今は使われていない旧道があるんですよ」
 どれどれ、と二人して覗き込めば、それは一体いつの代物なのかと首を傾げたくなるほどボロボロの地図だった。見慣れない地名が踊っていることにも驚いたが、何より国境線がまるで違う。北の大国レイドは小さな都市国家として記され、大陸中央部のベルファール王国は大分南寄りに描かれている。ベルファールに近いハーツォの森は随分と小さく、名前すら記されていない。変わっていないのは大陸の脇腹を抉る大地溝と、その大地溝沿いに伸びる金風街道、そして大陸を南北に流れるセム川の位置くらいだ。
「あれ? この街道が載ってない」
 現在三人が進んでいる青嵐街道、ベルファール王国とレイド国を繋いで大陸を南北に走るこの道は、百年ほど前に整備された街道だ。その青嵐街道があるべきところに、現在とは若干道筋の違う細い街道が記されている。
「青嵐街道が出来る前、人々が使っていた旧道があるんです。現在の道と重なっている部分もありますが、この辺りはよくセム川が氾濫したため、それを迂回する形で道が伸びていたんですよ」
 白い指が示すのは、ちょうど三人がいる河原の辺り。現在は川と平行して街道が走っているが、この地図上では川を迂回して森を掠めるような形で道が伸びている。
「こちらの道を途中まで進んで、オルソンの森を突っ切れば、ダロスの町はすぐそこです。町の中で待ち伏せるのも手ですよ」
 ここからダロスの町までは、途中に小さな農村が幾つかあるだけだ。彼らが情報収集をして回っているのなら、辺りを捜索しつつダロスまで出る可能性は高い。
「そうだな。そうするか」
 あっさりと同意したラーンだったが、エルクは怯えた様子で二人を窺う。
「あの、森の中を突っ切るって……迂闊に足を踏み入れたら、その……森人の怒りを買いませんか?」
 西大陸の森には、森人と呼ばれる種族の集落が数多く存在する。彼らはファーンに生きる八大種族の中でも特に排他的で、他種族との接触を極端に嫌うばかりか、集落の場所を決して他種族に明かさず、近づいた者を徹底的に排除することで有名だ。そうと知らずにうっかり足を踏み入れて、這う這うの体で逃げ帰った旅人や狩人の逸話は大陸各地に伝わっている。その血を引いていることを最近知ったエルクだが、その存在はまだ遠く、お伽噺の域を出ない。
「オルソンの森は小さいので、森人達もさほど住んでいないそうなんです。心配なら姿を隠す魔法を使いますから大丈夫ですよ」
 笑顔で請け負うリファに、それなら、と安堵の息を吐くエルク。
「もし森人に出くわしたら、お前の親のことを聞いてみるのもいいんじゃないか?」
 実に呑気な提案にリファは眉をひそめたが、当のエルクは考えてもみなかった、と目を瞬かせた。
「そうか、根気よく探せば、いつか僕の両親を知っている人に会えるかもしれないんだ」
 顔も知らないどころか名前すら分からない両親のことは、村長夫婦から聞かされてはいても、どこか遠い存在だった。しかし、気にならないと言えばもちろん嘘になる。どんな人物だったのか、なぜ『黒き炎』に追われていたのか……。それだけではない。種族の壁を乗り越えて結ばれた経緯、求婚の言葉、日々の暮らし……次々と溢れ出てくる疑問に、自身でも驚きを隠せない。
 戸惑うエルクを穏やかに見つめ、リファはそうですね、と頷いた。
「森人の知り合いがノーラの森にいますから、うまく連絡がついたら調べてもらえるよう頼んでみましょうか」
 さあ、忙しくなりますね、などと言いながらもどこか楽しそうなリファに、ラーンもにんまりと笑って荷物に手を伸ばす。
「まずは旧道を辿るところからだな。日が暮れる前にどこまで行ける?」
「そうですね、順調に行けば森の手前までは辿り着けるでしょう。そこで野営をして、夜が明けたら森を突っ切りましょうか」
「よし。じゃあ水を汲んでから出発だな。エルク」
 急に名を呼ばれて、はっと顔を上げたところに空の水袋が飛んでくる。どうにか受け止めたエルクは、頼む、と拝んでくるラーンに顔を輝かせた。
「行ってきます!」
 張り切って駆け出すエルクの肩で、ロキの尻尾が揺れている。何を話しているのか、楽しそうに水を汲む一人と一匹の背中を見つめながら、リファは声を潜めた。
「ラーン。言っておきますが」
「ん? なんだよ」
「森人は理性を重んじますから、それほどあからさまではありませんが、やはり混血児に対しては風当たりが強いそうです。元々、他種族との関わりを避ける傾向がありますからね。ましてエルクの場合は母親が森人ですから、人間の男に無理やり、などと勘違いされる可能性もあります。くれぐれも迂闊なことを言わないように注意してください」
 ぎょっとして隣を窺えば、美貌の麗人は煌めく水面を眩しそうに見つめたまま、誰にともなく呟く。
「自分と違う存在を簡単に受け入れられないのは、どの種族も同じです」
 苦く重い言葉が、白皙の顔に影を落とす。しかし、困惑顔の相棒に口を挟む暇を与えず、瞬きひとつで沈鬱な影を払いのけたリファは、いつもの調子でからりと言ってのけた。
「みんながみんな、あなたのように何も気にしない人ならいいんですけどね」
「……それ、褒めてないだろ」
 不貞腐れる相棒に、ふわりと笑みをこぼすリファ。
「最大級に褒めてますよ。エルクが笑っていられるのは、あなたのおかげですから」
 躊躇いもなく差し伸べられた手に。どこまでもまっすぐなその瞳に。そして、飾らない言葉と素っ気ない優しさに。
 小さな村で縮こまって暮らしていたエルクは、どれだけ救われたことだろう。
 それなのに、この相棒ときたら何の自覚もないと来た。いや、自覚や計算がないからこそ、その言動には力があるのだが、それにしてもこの天然ぶりには苛立ちを通り越して感動すら覚えるほどだ。
「よく分からんが」
 そんなリファの胸中を意に介する訳もなく、ラーンはぽりぽりと頬を掻き、分からないなりに考えた答えを紡ぐ。
「俺は思うままに動くだけだ。これまでも、これからもな」
「あなたはそれでいいんです。ただ、発言には気をつけてくださいよ。エルクは私と違って繊細ですからね」
 繊細じゃない自覚はあったんだな、と余計なことを思いつつ、おう、とだけ答えるラーン。
 背後でそんなやりとりがなされていたとは知る由もないエルクは、ほどなくして満杯の水袋を提げ、意気揚々と戻ってきた。
「お待たせしましたっ!」
 少しでも役に立てて嬉しいと、はっきり書いてあるような笑顔に、思わず頭をわしわしと掻き回せば、肩に乗ったロキが抗議めいた鳴き声を上げる。馴れ馴れしい、とでも言っているのだろうが、そこは無視して水袋を受け取ったラーンは、手早く腰帯にそれを括りつけた。
「これでしばらく飲み水には困らないな。で……そいつ、連れてくのか?」
 肩に乗ったままのロキを指差した途端、ばくりと食われそうになったので慌てて指を引っ込める。そんなロキを叱りながら、エルクは申し訳なさそうに二人を交互に見つめて、深々と頭を下げた。
「迷子みたいだし、せめて何か思い出すまで……お願いします!」
『ロキ、いっしょ!』
 当然だ、とばかりに胸を張るロキは、すっかりエルクに懐いてしまったようだ。肩から降りる気配すらないロキに、やれやれとリファを窺えば、いいんじゃないですか、と軽く言われてしまった。
「餌に困らないのであれば問題ないと思いますよ」
余りに現実的な言葉に、はたと顔を見合わせるラーンとエルク。あまりに現実離れした存在故に、そんなことまで気が回らなかったのは二人とも同じだ。
「ロキ、君は何を食べるの?」
 恐る恐る尋ねてみれば、ロキはきょとんとして、少し考える素振りを見せると、きゅるると鳴いた。
『ロキ、たべない』
 予想外の答えに、エルクとリファの目が揃って点になる。
「食べないって……何も食べないでいいの?」
『だいじょうぶ!』
 自信満々の答えに、ますます困惑して言葉に詰まるエルクに、リファが珍しく自信のない様子で口を開いた。
「これは仮定でしかありませんが……精霊は食事をしませんから、それに近い存在である妖獣も食事をしないのかもしれませんね」
 確かに、何かを食べる精霊という話は聞いたことがない。そもそも精霊には実体がないのだから食事は出来ないのだろうが、目の前のロキはれっきとした実体だ。
「ま、こいつがそう言ってるんだから食べないんだろ。餌がいらないなら楽でいいじゃないか。あとは人前で飛んだり光ったりしなきゃ、ちょっと変なトカゲだと思われるだけだ」
『へんなとかげ、ちがう!』
 抗議の声を上げるロキだったが、ラーンの言葉にも一理ある。文句たらたらのロキにそっと触れ、エルクは噛んで含めるように言い聞かせた。
「あのねロキ。もしかしたら君は、あの黒ずくめの男達に狙われているかもしれない。そうでなくても、人前で光ったり飛んだりしたら、珍しい生き物だからって狙われるかもしれない。そうしたら……」
「見世物にされたり解剖されたりするかもしれませんね」
 言いにくい言葉の続きは、リファがさらりと引き継いでくれた。その台詞に顔を引き攣らせつつロキを見つめれば、神妙な面持ちでエルクの言葉をじっと聞いていたロキは、分かったとばかりにこくんと頷いてみせる。
『ロキ、きをつける。だから、いっしょ、いく!』
力強い言葉に頷きを返し、その小さな頭を優しく撫でる。
「一緒に行こう、ロキ」
『いっしょ!』
 嬉しそうな声は木々を揺らす風に溶け合って、大空へと吸い込まれていく。
「さあ、行きましょう。目指すはオルソンの森、そしてダロスの町です」
 金の髪をなびかせたリファ、その杖が指し示す先には、忘れ去られた古き道。
「日暮れまでに辿り着くぞ。気合入れろよ!」
 大荷物をものともせず、大股で歩き出すラーン。その歩みに迷いはない。
「わっ、待って……」
 歩き出した二人に置いて行かれまいと、慌てて背負い袋を掴む。軽くなった頭をばさりと振り、勢いよく担ぎ上げれば、反動で落ちそうになったロキが慌ててしがみついてきた。
「よし、行くよロキ!」
 背には大きな荷物を背負い、肩には不思議な妖獣ロキを乗せて。
 颯爽と歩き出せば、川を渡る風が木立を駆け抜ける。
 ざわめく緑。輝く川面。旅路はきらめいて、旅人を彼方へと誘う。
 その先に何が待つのか、今はまだ分からないけれど。
 歩みを止めない限り、道は続くだろう。
空に潜る・