5.疾風のごとく
 夜の森に、木々のざわめきだけが響く。
「静かですねえ」
 毛布を掻き寄せながら呟くエルクの声もまた、闇に吸い込まれていくようだ。
 森を入ってすぐのところにぽっかりと開けた場所を見つけ、そこを今夜の寝床と決めた三人は、携帯食料でささやかに腹を満たし、夜風が奏でる梢の歌声に耳を傾けていた。
「鳥や獣も、夜は眠るんですね」
「必ずしもそうじゃないけどな。まあ、そいつはどうやら夜行性じゃないらしいが」
 ラーンが指差した先には、エルクの膝の上ですやすやと寝息を立てているロキの姿。曲りなりにも妖獣らしく、食事を必要としない彼だったが、睡眠はどうやら必要らしい。日が暮れた辺りからうとうとし始めて、三人が夕食を取り終えた頃にはすでに深い眠りに落ちていた。
「そんなんが本当に妖獣なのかねえ?」
 思わず疑いの目を向けるラーンだったが、飛んで光るところを見てしまった後では、『ちょっと変わったトカゲ』などと気楽なことは言っていられない。まして意思の疎通まで可能なのだから、いよいよもって普通の生き物ではないことくらいは、ラーンにも分かる。
 と、近くの茂みが静かに揺れて、葉陰から金色の輝きが零れた。暗闇の中でもなお輝く金の髪と叡智を湛えた青い瞳。近くまで水を汲みに行っていたリファは、一瞬息を呑んだエルクにやさしく微笑みかけると、お土産です、と草の束を差し出す。
「なんですか、これ?」
「清水のそばに生えていたんですが、炎症を抑える効果のある薬草です。少し揉んで、患部に直接貼り付けて使います。ほら、足を出してください」
 言うが早いか、エルクの足に巻かれた包帯を取り、てきぱきと手当てを始めるリファ。初めて見る薬草に興味津々のエルクだったが、リファの診断通り、時間が経つにつれ腫れ上がってきた足首の痛みをどうにかするのが先決だ。
 あとでちゃんと教えてもらおうと心に決め、せめてリファの鮮やかな手つきを見逃すまいと目を凝らす。この先、応急手当ての方法は知っておいて損はないはずだ。
「この薬草は、知り合いの森人に教えてもらったんですよ。日持ちしないのが欠点ですが、この草はあちこちに生えていますからね」
 何気なく紡がれたその言葉に、エルクは緊張の面持ちで呟いた。
「森人、かあ」
 深い森の中に集落を構え、他種族との関わりを頑なに拒む彼らは、この西大陸を起源とする孤高の一族だ。その縄張りにうっかり近寄ろうものなら、弓矢と精霊術による攻撃を容赦なく浴びることとなる。故に、西大陸の人間にとって森は「迂闊に踏み込んではならない危険な場所」であり、よほどの事情がない限りは奥深くまで分け入ろうとはしない。
「この森にも森人の集落があるっていうのは、確かなのかよ?」
 ラーンが訝るのには理由がある。このオルソンの森はせいぜい、小さな町一つ分くらいの広さしかない。簡単に踏破出来るような規模の森では他種族と遭遇する確率も跳ね上がるため、それなりに大きな森でなければ、彼らは集落を作らないというのが定説だ。
「私が聞いたのはだいぶ前の話ですが、彼らは長命ですからね。そうそう住処を変えることもないでしょう。用心のためと思って、一日くらい我慢してください」
 普段、野営をする場合には夜通し火を焚いて非常時に備えるのが常だが、ここでは迂闊にそれをやると森人に見咎められかねない。おかげで夕食を水と干し肉で済ませるしかなかったラーンは文句たらたらだ。
「こんな入り口付近なら、火を焚いても文句ないと思うんだけどなあ」
「念のためですよ。季節的に暖を取る必要がないんですから、見咎められると分かっていることをわざわざやらかすこともないでしょう」
 これが真冬であったなら話は別かもしれないが、すでに七の月も半ばを過ぎている。いかな夜の森といえども凍えるほど寒くはならない。
「でもまあ、念のために見張りは立てとかないとな。お前、先と後とどっちがいい?」
 さっさと順番を決めようとしている二人に、エルクは大慌てで割り込んだ。
「あのっ! 僕も見張り、やりますから!」
 その言葉に、しかし二人は揃って首を横に振る。
「いや、今日はいい。昼間あれだけ暑い中を歩いたから、疲れてるだろ」
「そうですよ。心配しなくても、もう少しあなたに体力がついたら、ちゃんと当番に入ってもらいますから。今はきちんと体を休めることに専念してください」
 二人がかりで諭されては、それ以上強いことは言えない。はあい、と残念そうに返事をして、ずり落ちかけた毛布を肩の上まで引き上げる。そうして、気まぐれな夜風の子守歌にしばし聞き入っていたエルクだったが、ふと不思議そうに呟いた。
「……不思議だな。夜の森ってもっと怖いものだと思ってました」
 つやつやした緑色の鱗を撫でながら、木々の間から覗く夜空を見上げれば、天鵞絨の空に輝く三日月はふんわりと優しく微笑んでいるようにも見える。
「それはきっと、ロキのおかげですよ」
「ロキの?」
 思わず驚いた声を上げてしまったら、膝の上で緑の体がぴくりと揺れた。起こしてしまったかと思ったが、何事もなかったように再びすーぴーと寝息を立て始めたので、ほっと息を吐いて、その小さな頭をそっと撫でてやる。
「彼がいるおかげで、森の獣達も我々に対して警戒を解いてくれているようです。他の妖獣も彼がいる限りは姿を現そうとしないかもしれませんね」
 猫のように丸くなり、呑気な寝息を立てているこの小さな生き物が、そんな大層な力を秘めているとは、とても信じがたい。
「ロキは……一体、何者なんでしょうね?」
 川の中州で出会った、不思議なトカゲもどき。大地の力を宿していることは分かったものの、博識のリファでさえ、その正体を特定できなかった。
「妖獣も様々な種類がいますからね。私が知らない種類があっても不思議ではありませんが――本来、これほどの知性を有する妖獣は、自身の縄張りから出てくることなど滅多にないはずなのですよ。そこが気になりますね」
 しかも、当のロキは名前以外、何も覚えていないと来た。いつからあの中州にいたのかも、どうして自分が喋ったり飛んだりできるのかも、そしてなぜ自分の体が時折光るのかも、皆目分からないと来ている。
「しかしまあ、一つだけはっきりしてることは  あいつらが捜してる『謎の光』と関係がありそうだってことだよな」
 昼間、河原で遭遇した黒ずくめの集団。彼らは『大地溝からこちらの方に飛んできた不思議な光』の実態を調査していると言った。
 しかし、港町ベルタから大地溝沿いに旅をしてきたラーンとリファは、そのような光を目撃したこともなければ、そんな噂話もとんと聞いた覚えがない。
 一方、半月以上前から大地溝近辺で怪しげな集団が目撃されているという話。更に、大地溝に残されていた謎の祭壇と、そこに住まう大地の精霊から聞いた『くろいにんげん』と『にげたぬしさま』の話。そして彼らが捜す『空飛ぶ謎の光』と、川の中州で震えていた、光って飛ぶトカゲもどき。
 それらを総合すると、浮かび上がってくるのは――。
「まさかとは思うが――こいつが大地溝から逃げ出した『大地の竜』ってことは……ないよな?」
 自分で言っておきながら、あり得ないとばかりに引き攣った笑みを浮かべるラーンに、リファも苦笑混じりに首を横に振った。
「それはないでしょう。竜特有の精霊力も感じられませんしね。ただし状況的に無関係とも思えません」
 大地溝に眠る竜を使って何かをしようとしていた邪教集団『黒き炎』。何らかの儀式を行ったものの、肝心の竜に逃げられてしまった彼らは、その手掛かりとなる『謎の光』を追って旅を続けていると見てよいだろう。
「光って飛ぶ謎の存在。彼らの探していたものとロキの特徴とは、大部分で合致します。大地の精霊力を宿しているというのも気になりますしね。それを考えると、あの時エルクがロキを保護したのは大正解だったということですね」
「えっ、いえその、僕……何も考えてなくって、ただ放っておけないなって」
 あの時、中州で不安げに震えていたロキ。その姿を見て、咄嗟に守らなければと思った。ただそれだけのことだ。
「それでいいんだ。迷った時は自分の直感を信じろって、よく言うだろ」
「さすが、直感だけで生きている人が言うと説得力がありますねえ」
 さらりと言ってのけ、むうと口をつぐんだ相棒を横目に、柔和な笑顔でエルクに向き直るリファ。
「何はともあれ、彼らがロキを狙っているのかもしれない以上、注意するに越したことはありません。人前で飛んだり光ったりしないように、エルクからロキに言い聞かせて下さいね」
「はい、分かりました!」
 ただでさえ、珍しい生き物だというだけで好事家に狙われないとも限らない。ロキさえ嫌がらなければ、町中などでは背負い袋の中に入っていてもらった方がいいかもしれない、などと思案していると、不意にラーンが口を開いた。
「そういや、大地溝に伝わる竜の伝説って、どんなんだ?」
「え?」
 予想外の質問に目を瞬かせたエルクだったが、考えてみれば彼らは他大陸から渡ってきた人間だ。西大陸の伝承について詳しいはずもない。
「いやあ、船の上で西大陸についての簡単な説明は受けたんだけどさ、歴史だの伝承だのは興味ないから全部右から左へ通り抜けちまったんだよな」
「ええ、ええ。そうでしょうとも。歴史の話になると途端に舟を漕ぎ出していましたもんね」
 やれやれ、と大仰に肩をすくめてみせるリファ。中央大陸から西大陸までの長い船旅、その時間を有意義に使おうと、まずは西大陸語の講義から始めたというリファだったが、相手がこのラーンでは相当苦労したに違いない。
「草原地帯で暮らす人々は、昔から伝承を歌の形にして親から子へと伝えていると聞きましたが、エルクの村にもそういった歌が伝わっているんでしょうか」
「はい、あります。今はお祭りの時にしか歌われなくなりましたけど、おばば様が村の子ども達を集めて教えてくれるんです。そうやって長い間歌い継がれていると聞きました」
 かつて遊牧をして暮らしていた人々は、文字を持たなかったという。その代わりに用いられたのが歌だ。彼らは歴史や伝承、先祖の教えや家系図までも歌で伝えていった。
 やがて定住の道を選んだ彼らは文字で歴史を綴ることを学び、それらの歌は徐々に廃れていった。現在では、伝承を後世に伝える歌が残っている程度だが、二弦の弦楽器に伴われて紡がれる伝承歌は美しくも哀愁漂うもので、おばば様にねだって何度も歌ってもらったものだ。
「お、いいなそれ。ちょっと歌ってくれよ」
「ええっ!? いやその、僕、歌はあんまり得意じゃないんでっ」
 慌てて手を振るエルクだったが、ラーンは頼むよ、と拝む真似をしてみせる。
「俺の故郷にはそういうのがないからさ、聞いてみたいんだ」
「私からもお願いします。一度聞いてみたいと思っていたんですよ」
 こうも熱心に言われては、どうにも断りにくい。悩んでいるところに、駄目押しの一言が来た。
「怪我して迷惑かけた、なんてぐだぐだ悩んでた罰として、な?」
「うっ……。分かりました」
 運んでやった手間賃代わりに、などと言わないところが、実にラーンらしい。
「……言っておきますけど、本当に下手ですからね」
 そう前置いてから、ごほんと咳払いを一つ。
 そして、夜風を伴奏におずおずと紡ぎ始めたのは、ランカ村に伝わる伝承歌の一つ、『大地の歌』だ。