<< >>
番外編 追憶の《青》 [2]

「ラウルったら、オカマ口説いたんだって?」
 朝食を盆に載せてやってきた少女の言葉に、ラウルは机の上に突っ伏した。
「……おいおい、なんでそのこと……」
「昨日、遅くに来たお客さんが言ってたわよ?でもきれいな人だったんでしょ?いいじゃない」
「よくねぇっ!……つぅ……」
 二日酔いの頭で怒鳴ったものだから、途端に激痛が走って椅子の背にぐったりともたれかかるラウル。その様子を面白そうに見ていた少女は、ラウルが頼んだ朝食の皿を机に並べながら、なおも言葉を続ける。
「アタシも見たかったなあ、その人。ねえ、今度連れてきてよ」
「なんで俺がっ……大体、名前すら知らないんだぞ」
「あれ?じゃあ振られたの?」
 腕落ちたんじゃない?などと笑っている少女は、ラウルがよく立ち寄る食堂の看板娘だ。常世通りに近いこの店は飲み明かした後に朝飯を取るにはもってこいで、看板娘のミルトとはすっかり顔馴染みである。
「うるせー、大体、男を落としてどうすんだ」
「あれぇ、美人ならなんでもいいんじゃなかったの?」
 昨日ジェットに言われたような事をまた言われて、しかしラウルはもはや怒鳴る気力もなく朝食の皿に手を伸ばした。食欲はあまりないが、これから神殿に戻ってお説教を聞く羽目になるかと思うと、きちんと栄養をつけておかないと気力が持たない。
 だるそうに食事をつつくラウルを、ミルトはやれやれ、という目で眺める。
「まったく、これでユークの神官様だっていうんだから、不思議よね」
 初めて彼に会った時、ミルトは街の不良だと信じて疑わなかった。もっともその時は喧嘩の後で、顔は腫れてるわ口の端は切れているわ、服はところどころ破れて血までついているわで、ミルトでなくともそんな第一印象を抱くのは当たり前だったろう。
 それが次に会った時、彼は黒い神官服に身を包み、朗々と聖句を唱えていた。葬式の場であったからそれが当たり前なのだが、あまりの印象の違いに、そこが葬儀の場であることも忘れて素っ頓狂な声を上げ、顰蹙を買ってしまったくらいだ。
 ユーク正神官ラウル=エバスト。それが彼の正式な身分だった。ついでに付け加えるならば、彼は養子ではあるが現ユーク本神殿長の息子でもある。
 普通「神官」といえば、誰もが厳格で品行方正な真面目人間、という姿を想像するだろうが、このラウルときたら、女は口説くわ酒には強いわ賭博はやるわ、とてもではないが聖職に就くものとは思えない。
 そんな彼が暮らしているのは、街の外れにある荘厳な作りのユーク本神殿だ。死を司る神ユークを崇めるユーク神殿は葬儀全般を取り仕切る場所でもある。
 この本神殿に部屋をもらっているラウルは、度々神殿を抜け出して街に繰り出している。しかし酒に酔おうが、女と夜を共にしようが、朝にはきちんと神殿に戻る事が多い。とはいえ朝帰りは立派な規律違反であり、戻った途端にお偉い方に捕まってこっぴどく説教をされるのはもはや日課となっていた。余りにもしょっちゅう小言を食らっているものだから、今となっては聞き流すのも得意技になっており、さほど苦にもならないのだが、
(あー、めんどくせ。今日は戻るのやめとくか……)
 今日はどうもそんな気がしなかった。神殿長の息子とはいえ、彼はただの神官だ。いないからといって神殿の業務に支障をきたすわけでもない。
「なあミルト、今日……」
「駄目よ。アタシは友達と遊びに行く約束してるの」
 あっさりと断られて、ちぇっと舌打ちするラウル。そんなラウルに紅茶のお代わりを注いでやりながら、ミルトはふと、机の上に無造作に置かれたあるものを見つけた。
「なに、それ?」
「あ?……ああ、これか。……拾ったのさ」
 それこそは、昨日ジェットが拾い、ラウルに押し付けた襟留めだった。何気なく服の隠しにしまったまま、ついさっきまで存在すら忘れていた。なにか肌に当たるのでなんだろうと引っ張り出したら、昨日の襟留めだったわけだ。
「欲しいならやるよ」
 ラウルが持っていても仕方のないものだ。拾った経緯を簡単に話してミルトに押し付けようとしたが、彼女は首を横に振る。
「いらないよ。こんないい襟留めつけられるような服なんて持ってないし」
「じゃあ……」
 適当に処分してくれよ、と言おうとしたラウルを遮って、ミルトはその襟留めをラウルの手に戻すと、さも当然のこととばかりに言い放った。
「落とし主に返してあげなよね」
「はぁ?なんで俺がそんなことしなきゃなんないんだ」
「どうせお仕事サボるつもりなんでしょ?暇つぶしに行ってくればいいじゃない」
「行くって、どこにだよ」
 憮然と聞き返すラウルに、ミルトはぴっと人差し指を立ててみせた。
「《猫足広場》のマレイン一座」
「ん?……どっかで聞いたな、それ……って、なんでお前がそんなこと……」
 それは確かに、昨日の女性が告げた言葉だった。しかしなぜこの少女がそれを知っているのだろう。
 怪訝そうな顔で見上げてくるラウルに、ミルトはあっけらかんと言う。
「だから、昨日の一部始終を見てた人がいたんだって。あんな通りのど真ん中で騒いでれば人の目にも留まるでしょ?その人が昨日うちに来て、そりゃあもう詳細に話してってくれたのよ」
「……誰だよ、そんな余計な真似しやがった奴は……」
 ミルトの言葉にも一理ある。あれだけの観衆がいたのだ、衝撃の事実をあの男が告げた時には大分人も減っていたが、それでも通りには大勢の通行人がいた。つまりは、ラウルの失態をかなりの人間に見られたわけで。
「……ああ、もう……」
 再び机に突っ伏すラウル。そんな彼のうなだれぶりにはお構いなしに、ミルトはびしっと言いつけた。
「いい?ちゃんと届けてあげるのよ?《猫足広場》のマレイン一座だからね。聞いた話じゃ結構面白い興行やってるらしいから、ついでに見てくればいいじゃない。暇つぶしにさ」

「……どうして俺がこんなこと……」
 憎々しげに手の中のものを握り締めて、ラウルは広場に張られた天幕の前に立っていた。 太陽は中天に差し掛かり、猫足広場と名づけられた街外れの広場にも燦々と光が降りそそいでいる。普段は子供や年寄りしか立ち寄らないような小さな広場に、今はくすんだ色の天幕が張られ、中からは賑やかな楽の音が響いていた。
 天幕の入り口、今はきっちりと閉められた幕の上には、「マレイン一座」と書かれた派手な装飾の看板が備え付けられている。ここへ来る道すがら聞いた話では、十日ほど前ほどからこの広場で興行を行っている、小さな旅芸人の一座だという。軽業や手品のほか小芝居も上演して、小さいながらも客の入りは上々らしい。
 そのマレイン一座の天幕の前で、ラウルは苦虫を噛み潰したような顔で入り口を睨んでいた。誰か出てくれば、と思って待っているのに、もう半刻近く誰も出てくる気配がない。楽の音や何かの掛け声、また歌なども聞こえてくるから、練習の真っ最中なのだろう。
(ったくよお……)
 ミルトの言葉に従うつもりなど毛頭なかった。食事を終えた後も散々粘っていたラウルだが、混んで来たから早くどけ、とミルトに追い出され、どこか適当な場所で暇をつぶそうと街をほっつき歩いているうちに、いつの間にか《猫足広場》についてしまったのだ。
(早く誰か出て来いよ…!)
 心の中で呟きつつ、ふと手を開いて、問題の落し物を見つめる。
 古風な襟止め。昨日は暗くてよく見えなかったが、太陽の下で鈍い光を放つそれは、精緻な細工が施された純銀製のものだった。年代物だがよく手入れされていて、黒ずみひとつない。それほど大事にしていたものなのだろう。
 とはいえ、別に届ける義理もなにもない。リゲルが上物だと言っていたから、誰のものとも分からぬ髪など捨てて、そこいらで売って小銭に替えてしまえばいい。
 そう思っていたはずなのに、気づけば彼はそれを届けにやってきている。
 こんなところをあの二人に見られたら、つくづくお人よしだよな、と笑われるに違いない。
 ―――と。
「お兄さん」
「おにいさん」
 唐突に、目の前から声が聞こえた。しかも見事に重なっている。
 顔を上げると、そこに可愛らしい少女の顔が二つあった。しかも、顔だけでなく髪型や服装まで見事に同じ。一瞬、二日酔いのせいでものが二重に見えているのかとも思ったが、よく見ると、上から下まで完璧に同じように見えた二人は、それぞれ手にしているものだけが異なっていた。一人は太鼓のばちを、一人は縦笛を握り締めて、ラウルの顔を見上げている。
「何か御用ですか?」
「なにかごようですか?」
 再び重なる声。そして、立ち尽くすラウルの手の中のものを覗き込んで、これまた同時にぽん、と手を打つ。
「お兄さん、昨日姉ちゃんを助けてくれた人?」
「わざわざとどけにきてくれたんだ」
 今度の台詞は二人別々だった。そして嬉しそうに入り口の幕を上げ、ラウルを手招きする。
「入って、お兄さん」
「おねえちゃん、よころぶよ!」
「え、いや、俺は……」
「ほらほら、早くっ!」
「はやくぅ」
 業を煮やしたのか、一人がラウルの腕をぐいぐいと引っ張り出した。一生懸命なその顔に、ラウルはふぅ、と息をつく。
「……分かったよ」
 仕方なしに、ラウルは引っ張られるまま幕をくぐった。

 天幕の中は意外に広く、そして薄暗かった。
「待っててね、今呼んでくるから」
「すぐだよ」
 ラウルを客席であるござの上に座らせて、二人は足早に舞台の方へと走っていく。
「っておいちょっとまて!俺は……」
 会いにきたわけじゃない、直接渡す必要は、と言いかけたが、すでに二人の姿が見えなくなっている事に気づいて、口を閉ざす。
「ったく……」
 仕方ない。渡すものを渡したらさっさと帰ろう。そう心に決めて、改めてラウルは天幕の中を見回した。
 地面に敷かれたござは、三十人も座れればいい方だろう。そしてその奥にある粗末な舞台の上で、今は数人の男女が大道芸やら楽器の練習に励んでいた。一心不乱に練習に打ち込む彼らは、ラウルのことなど気づいてもいない様子でひたすらに玉の上に乗ったり、笛を吹いたり太鼓を叩いたりを続けている。
 こうした舞台裏を覗ける機会というのもなかなかない。そう思って物珍しそうに舞台を見ていたところ、ふと自分が入ってきた入り口とは違う幕の切れ目から顔を出して辺りを伺っている髭面の男と目が合った。
「おお、あんたかね」
 どかどかと近づいてくる男。体格のいい、まるで熊のようなその男は、ラウルの目の前まで来ると人懐こい笑顔を浮かべた。
「うちのもんが世話になったらしいな。ああ、俺は座長のマレインだ。みんなは親方と呼んどる」
 そういいながら手を伸べてくるマレインに、ラウルは不承不承その手を握り返す。
「ラウルだ。俺は……」
「ああ、わかっとる。落し物を届けにきてくれたんだろ?昨日帰ってきてから、襟留めがない、ないと騒いでな。夜も遅いのに探しに戻るといって聞かないもんだから、みんなで必死に止めたんだ。今あの双子が呼びに行ってるから、もう少し待ってくれ」
「いやだから、別に俺は……」
「しかも、聞いた話じゃ昨日、お前さんあのクライドとか言う男をのしてくれたんだって?すまなかったなあ、手を煩わさせて。本当なら俺がやるべき事だったんだが……」
 そう言って、頼んでもいないのにマレインが話して聞かせたところによると、あのクライドという男はアストアナ地方の商人の息子で、父親の商用に付き合ってこの街に来たらしい。そしてふらっと立ち寄ったこの広場で彼らの興行を見て一座の看板女優に一目惚れし、五日も通い詰めた挙句、昨夜半ば強引に飲みに連れ出したのだという。
「ちょうど俺が人と会ってる時で、他の連中も後片付けで止める暇もなくてな。気づいたら衣装のまま連れ出されてるわ、しかも遅くになって頬を腫らして帰って来るわ……。で、聞いたら向こうが勝手に勘違いして強引に言い寄った挙句、訳も聞かずにひっぱたいたっていうじゃねえか」
 とんだ野郎だ、と怒りを露わにするマレインに、ラウルはなるほどな、と呟きつつ肩をすくめる。
「しかし、あの男が憤るのも無理ないんじゃないのか?惚れた相手がお……」
「まあ!」
 唐突に背後から声が上がった。はっと振り向くと、そこに鮮やかな《青》があった。

 無言で差し出した襟留めを大事そうに受け取って、彼女は顔をほころばせる。
「本当にありがとう。助けてもらったばかりか、わざわざこれを届けに来てくれるだなんて……」
 昨日とは違う簡素な薄紅色の服に身を包んだ彼女は、しかしそこだけは変わらない青い双眸でラウルを見つめていた。薄く化粧の施された顔、きれいに結われた淡い金の髪。そしてほっそりとした白い腕。それらは、これが男だなどと信じがたいほどにたおやかで、美しかった。
 しかし。たとえどこからどう見ても別嬪さんであろうが、男は男だ。
「……別に来たくて来た訳じゃねえ。ただ、それが大切なものらしいから、仕方なく……」
 ぶっきらぼうに答えるラウルに、彼女はそうなのよ、と愛しげに襟留めを撫でる。
「これは、私に残されたたった一つのものだから」
 謎めいた物言いに、ラウルが首を傾げる。その様子に言葉を続けようとした彼女は、不意に舞台から響いた「おーい、はじめるぞ」という声に、弾かれたように振り向いた。
「今行くわ!」
 そう答えて、再びラウルに向き直る。そして
「ごめんなさい、今お芝居の稽古中なの。あとでゆっくりお話したいから、もうちょっとだけ待っていてくれる?」
「え、お、おい」
 なんで俺が、と抗議する前に、彼女はマレインに向かって
「親方、お願いね」
 というが早いか、衣装の裾を翻して舞台に走っていった。
「ああ、分かってるとも!」
 その背中にそう答えて、マレインはラウルを見る。
「まあゆっくりしていけや。ついてこい、裏で昼飯でも馳走するから」
「いや……っ」
 丁重に断ろうとしたラウルの腹がくぅ、と鳴った。
 二日酔いに負けて、ちゃんと朝飯を食べ切って来なかったからだろう。そんなラウルの腹の虫を聞いてマレインは豪快に笑い、さぁさぁとラウルの背中を押して歩き始めた。

「記憶喪失?」
 野菜と鶏肉の煮込みをほおばりながら、双子の言葉にラウルは目を見開いた。
「そうなんだ」
 頷いて見せたのは、先ほど太鼓のばちを持っていた少年。名はレネーだとさっき教えてくれた。まだ十歳になり立てだが、軽業を担当するれっきとした一座の一員だ。
「半年くらい前かなぁ、道端で倒れてたのを親方が拾ったんだ」
「びっくりしたよね。キズだらけで、あたまにもけがしてて」
 舌足らずに話す少女はユノー。双子の妹である彼女も、同じく軽業を担当している。
「親方ってば人がいいからさ。お医者さんも呼んだりして手厚く介抱したんだ。それで、三日後にようやく目を覚ました時には、何にも覚えてなかったってわけ」
 身分を証明するようなものは何一つ身に着けておらず、近くの町で聞き込みをしても何の情報も得られなかった。唯一の所持品といえば年代物の襟留めひとつ。それにも名前などはなく、中に収められた亜麻色の髪を見ても、それが誰のものなのか思い出せなかったという。
「そんなこんなで一座の仲間入りをして、最初は裏方しててもらったんだけど、お芝居に興味があるみたいだったから、冗談で女装させて舞台に出したら、なんかはまっちゃってね」
「それから、じぶんはおんなとしていきるっていいだして、で、ああなったの」
「それじゃ、最初からオカマな訳じゃなかったのか」
 匙をくわえながら言うラウルに、双子は揃って頷いた。
「でも今じゃ、女よりも女らしいって評判だし」
「きれいだし、にあってるし、あれはあれでいいんじゃないって」
 今では一座のものも完璧に彼女を女扱いしており、またあの容貌だけあって、実は男であるという事に気づく客も滅多にいないという。
「まあ、確かに言われなきゃ分からないしな……」
 と、天幕の入り口付近が騒がしくなって、どっと人がなだれ込んできた。
 先ほどまで舞台にいた人間達が稽古を終えて戻ってきたのだ。そんな彼らにねぎらいの言葉をかけながら、昼飯を配っているマレイン。料理はいつも、この座長が腕を振るっているらしい。
 一気に人であふれた天幕の中、なんとなく居心地の悪さを覚えて食事の手を止めたラウルのもとに、食事の乗った盆を持った彼女がやってきた。
「待っていてくれてありがとう。親方のお料理、おいしいでしょう?」
 伺いも立てずにラウルの隣に腰を下ろし、笑顔を向けてくる彼女。
「あ、ああ……」
 料理の味は確かに抜群だった。そう答えるラウルに、彼女はまるで自分の事のように喜んでみせる。そして改めてラウルに向き直ると、とびきりの笑顔で言ってきた。
「まだ名乗ってもいなかったのよね。私、フェリキアっていうの」
 親方がつけてくれたのだと、彼女は嬉しそうに付け加えた。それは初夏に咲く花の名なのだそうだ。彼女の瞳のように青い、可憐な花。
「あなたの名前を教えてくれる?」
 そう言ってくるフェリキアに、ラウルは渋々名を名乗る。
「ラウルだ。ラウル=エバスト」
 それを聞いた途端、まず双子が驚きの声を上げた。
「お兄さんが、ラウル?!」
「うっそー」
 なんだ?と眉をひそめたラウルの周りで、実は会話に耳をそばだてていたらしい一座の人間たちが口々に言ってくる。
「へぇー、あんたがラウル!なるほどなあ、黒い狼とはよく言ったもんだ」
「聞いた話じゃ、誰彼かまわず喧嘩をけしかけるとんでもないゴロツキだって……」
「死神の使いだなんて言うから、もっとおっかない人かと思ったら、なーんだ、結構いい人っぽいじゃん」
 どうにもひどい言われようだ。いったいどんな噂を聞いたのやら。頭を抱えるラウルに、フェリキアが
「あなたが噂の不良神官さんだったのね」
 と言ってくる。そして、にっこりとこう続けた。
「こんなに優しい人だなんて思わなかったわ」
「優しい?」
 思いがけない言葉に顔をしかめるラウル。
「おいおい、やめてくれよ」
「あらなんで?私を助けてくれたり、こうして落し物を届けてくれたりするのは、優しい人じゃない?」
「……昨日のは成り行きだ。落し物を届けにきたのは仕方なく……」
「でも届けに来てくれたでしょう?」
「仕事サボる口実が欲しかっただけだ」
 苦虫を噛み潰したような顔で答えるラウル。そして、ふと思い出したようにフェリキアの顔をまじまじと見た。
「……顔、大丈夫か」
 大の男に力いっぱい張られたのだ、二、三日は残るだろうと思っていたが、今の彼女の頬はきれいなものだ。
「あの後一生懸命冷やしたし、お化粧でごまかしてるから」
 もう痛くないし大丈夫、と答えるフェリキア。
 と、それまで黙々と自分の分の食事を片付けていたマレインが、ぱんぱんと手を叩いた。
「ほらほら、いつまで喋ってるんだ。とっとと食わないと公演の準備が間に合わんぞ!」
 その言葉に、慌てて食事をかき込む彼ら。双子とフェリキアもそれに倣って昼食を片付ける。すでに大半を食べ終わっていたラウルは、それでもその場の雰囲気に流されて食事を片付け、ごちそうさん、とマレインに食器を返した。
「どうだ、うまかったか?」
 すっかり空になった食器を受け取って尋ねてくるマレイン。
「ああ、久しぶりにうまいもん食った。どこで洗うんだ、これ」
「なんだ、気にするな。後片付けは当番制だからな」
「いや。ただで食わしてもらったんだし、自分の分くらい片付けるさ」
 意外に義理堅いラウルの態度にマレインは目を細める。そして洗い場を教えようと口を開きかけた時、一斉に食べ終わったらしい一座の人間達が
「ごちそうさまー!」
「それじゃ小道具出してくる!」
「その前に客席の掃除だろ?あ、ゆっくりしてきなよ!ラウルさん」
「親方、あとでもう一度大道具の調子見てくださいね」
 などと口々にラウルやマレインに話しかけながら、空の食器をその場に積み上げ、そして慌しく幕から出て行った。
「賑やかだなあ」
 彼らの勢いに圧倒されて、思わず目を丸くしているラウルに、マレインは苦笑を浮かべる。
「元気だけがとりえの連中ばっかりだからな。ま、そうでなきゃこの仕事はやってられんよ」
 さて、とマレインは腰を上げ、天幕の中を見渡した。ほとんどのものは出払い、残っているのは双子とフェリキアだけだ。
「今日の当番はフェリキアだったな」
「ええ。午後の公演は出番ないしね」
 最後の一すくいを口に放り込み、答えるフェリキア。その向かいでは、すでに食べ終わっているレネーが妹をせっついている。
「ユノー、早く食べないと練習する時間なくなっちゃうぞ」
「わかってるよぉ」
「あらあら、急がないでいいわよ。先に洗ってるから、食べ終わったら持ってきて」
 優しくそうユノーに告げて、フェリキアは自分の分の食器をお盆に載せてマレインとラウルのところまでやって来る。
「それじゃ頼むぞフェリキア。終わったら、準備の方はいいから衣装の繕いをやっててくれ」
「ええ、任せて」
 そう言いながら手早く、積み上げられた空の食器を大きなお盆に載せていく。少人数の一座とはいえ、一度に洗うのは大変な仕事だろう。
「それじゃな。おっとラウルさんだったか、もし良かったら次の公演と、時間があるなら夜の公演も見ていってくれや。夜はフェリキアが出るからな」
 そう言ってさっさと天幕を出て行くマレイン。一方のフェリキアは腕まくりをして、食器を山盛りにしたお盆をよいしょ、と持ち上げようとしていた。その手つきがあまりにも危なっかしくて、つい思わず手が出てしまう。
「あら?」
 持ち上げようとしたお盆が急に軽くなって、目を瞬かせるフェリキア。
「どこまで運べばいいんだ」
「裏の井戸までだけど、でも……」
 困惑した表情のフェリキアに、ラウルはそっぽを向く。
「食わしてもらったんだ、洗い物くらい手伝う」
 軽々とお盆を持って歩き出すラウルに、慌ててフェリキアが幕の入り口を上げに走る。そして、
「ありがとう。本当にいい人ね、あなた」
「……言ってろよ」
 照れくさそうに呟いて、ラウルは幕をくぐった。

「……それじゃ、何もかも覚えてないってのか」
 尋ねるラウルに、フェリキアは手際よく針を動かしながら頷いた。
「ええ、そう。名前も、生まれも育ちも、なーんにも」
 そう答える彼女の口調は明るい。
「でも、仕方ないことでしょう?悩んだって記憶が戻ってくるわけでもないし、それならとにかく、今を精一杯生きなきゃ」
 その言葉を聞いたラウルの表情が微妙に変化した事に、フェリキアは小さく首を傾げた。
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
 とにかく今を生きる事。それは、かつて養い親がラウルに諭した一言。そしてラウルの信条でもある。その言葉がフェリキアの口から出てきた事に、びっくりした。びっくりしたと同時に、なんだか彼女に親近感を覚えて、こわばっていた表情が和らぐ。
「なぁに?気になるじゃない」
 そう言って笑うフェリキアは、手馴れた手つきで糸の端を結び、余った糸を切った。そして次の繕い物を引っ張り出すと、それに合う色糸を探し出すべく裁縫箱に顔を突っ込むようにして中を漁っている。そんな仕草はまるで少女のようで、男と分かっているのに、つい可愛らしいと思ってしまう。
(……どうかしてるよな、俺。男だぜ、男!)
 自分に言い聞かせるように心の中で呟きながらも、どうしても彼女を「女」として見ている自分がいる事に焦りを感じるラウル。そして、彼の心中など知る由もなく、ようやく探し当てた色糸を針に通すフェリキア。
 二人は、先ほどとは別の小さな天幕の中にいた。衣裳部屋になっているというその天幕の中には色とりどりの衣装やら小道具やらが溢れ返っており、床に敷かれた粗末な絨毯にぺたんと座り込んで針を動かすフェリキアを、少し距離を置いて座ったラウルが物珍しげに見つめている。
 洗い物を終えたらとっとと退散するつもりだったのに、せっかくだから公演を見ていって、と懇願するフェリキアの顔があまりにも一生懸命で、どうにも嫌だと言えなかった。
 結果、時間をつぶすため、フェリキアに付き合ってここにいる。
「だからといって、オカマになる事ないだろうよ」
 怒り出すかなと思いつつ、あえてそんな事を言ってみる。するとフェリキアは、不思議そうに首を傾げてきた。
「なんで?」
「なんでって……だって、男だろ、あんた」
 さすがに年上をお前呼ばわりする気は引けて、それでも名前を呼ぶ事は余計に躊躇われて、そんな呼び方をするラウルに、フェリキアはあっけらかんと答えた。
「確かに体は男だし、記憶を失う前にはちゃんと男として生きてたのかもしれない。でも、今の私は女として生きる事に喜びを覚えてるんだもの。それでいいじゃない?」
「……そんなもんか?」
「そんなものよ。さあ、出来た」
 話しながらも器用に針を動かしていた彼女は、縫い上がったそれをぱん、と広げてみせる。
 それは昨晩、フェリキアが着ていた青い衣装だった。
「これね、今上演している「双子の姫」っていうお芝居の衣装なの。綺麗でしょう?北大陸に実在したお姫様達の物語なんだけど、一つの国の後継者争いと悲恋とが絡み合った、とても感動的なお話なのよ。私はライラってお姫様の役で、もう一人のローラ姫は……」
 衣装を胸に当ててはしゃいでいたフェリキアは、ふと話しかけている相手が妙に静かな事に気づいて口を閉ざした。衣装を傍らに置き、そっとラウルの顔を覗き込む。
「まぁ……」
 少し離れて座っていたラウルは、いつの間にやらその目を閉じて、静かな寝息を立てていた。
「そういえば、あの後も飲んでたっていうし……」
 昨日から今まで一睡もしていないのでは、眠くなって当然だ。腕を組み、体を丸めるようにして舟を漕いでいるラウルはどこか辛そうな表情を浮かべていて、フェリキアは小さくため息をつく。
「そんな格好で寝たら、体痛くなっちゃうわよ」
 とはいえ、この狭い天幕に寝具を持ち込む余裕もない。かといって彼を寝泊り用の天幕まで運ぶ力は彼女にはなかった。
「困ったわね……」
 フェリキアは少し考えた後、意を決して立ち上がった。ラウルの隣に座り込み、その頭をそっと自分の膝の上に引き寄せる。
 起きるかもと一瞬思ったが、よほど眠かったのか、ラウルは少し身じろぎをしただけで、すぐにフェリキアの膝の上で安らかな寝息を立て始める。
「ゆっくり休んでね」
 無防備な寝顔に囁いて、フェリキアは嬉しそうに微笑んだ。

 目を開けた時、まず飛び込んできたのは間近に迫った青い双眸。
「でぇっ……!」
 思わず跳ね起きたラウルに、フェリキアはくすくすと笑いながら、声をかけた。
「おはよう」
「な、なにがおはようだっ……っていうか、ここどこだっ」
 起き抜けで混乱する頭を必死に回転させて、現状を把握しようと試みるラウル。そんな彼を横目に、フェリキアはすっくと立ち上がる。
「良かった、公演前に起きてくれて。あと少ししたら起こそうと思ってたのよ」
(公演前……?そうだ、確か、時間つぶしに……)
 衣装の繕いをするフェリキアの話を聞くうちに、不覚にも眠ってしまったらしい。しかも……
「男に膝枕……男に膝枕……」
 ほぼ初対面に近い相手の前で眠りこける事すら普段のラウルでは考えられないのに、膝枕をしてもらっている事に気づかないだなんて、どうかしている。それも、男に―――!!
 自分への怒り、そして気まずさと気恥ずかしさに頭を抱えるラウル。それを面白そうに見つめながら、だって、とフェリキアは続ける。
「気持ちよさそうに寝てたから、起こすの忍びなくって」
「起こせっ!っていうか、膝枕すんなっ」
「あら、嬉しそうだったわよ?」
「嬉しいかっ!!」
 そう怒鳴ったラウルは、ふと衣装をかき集めているフェリキアの足元がふらふらしている事に気づいて、すっと怒りを引っ込めた。
「……どのくらい寝てたんだ?」
 二日酔いで重かった頭はすっきりしているし、体も大分楽になっている。ちょっと居眠りした程度ではあるまい。
「四刻と少し、かしら?」
 平然と言ってのけるフェリキアに、ラウルは唖然とした。
「午後の公演は?」
「とっくに終わって、もうすぐ夜の公演が始まるわよ。さっきまでここでみんな着替えてたけど、結構うるさかったのに全然起きないんだもの」
 よほど眠かったのね、と言いながら髪を解いているフェリキアに、ラウルはこわばった表情で尋ねた。
「……四刻も、ずっと膝枕してたのかよ」
「嫌だったなら謝るわ。でも……」
 少し悲しげに言うフェリキアの言葉を遮って、ラウルは言う。
「足、しびれてるだろ」
「え?ああ、ちょっとね。でも大丈夫よ」
 そんな長い間人の頭を膝に乗せていれば、しびれて当たり前だ。それなのに、これから公演だという彼女は、大丈夫と笑っている。
「悪い……」
 感謝すべきところを、つい怒鳴りつけてしまった。ばつの悪そうな顔をするラウルに、フェリキアはいやね、と手を振る。
「なんで謝るの?私がしてあげたかったからやっただけよ。それに本当に大丈夫だから気にしないでったら。分かったらほら、早く客席に行ってちょうだい」
 そう言って、立ち上がったラウルの背中を押す。突然どうしたんだ、と慌てるラウルに、フェリキアは恥ずかしそうに答えた。
「着替えるの!あなたがいたら着替えられないでしょ?」
「な……分かったよ」
 男のくせに何を、と言いかけたがやめた。彼女は女だ。体は男だが、心が女なのだと言うなら、女扱いするのが賢い付き合い方だろう。
 そう考えて、はたと気づく。
(ん?付き合い方?おいおい、なに考えてるんだ、公演見たらとっとと帰って、二度とここにくるもんか)
 落とせない相手と分かっている以上、これ以上仲良くする必要もない。そして相手は旅芸人。長くこの地にとどまる人間ではないのだから、ラウルがここに二度と顔を出さず、彼らが首都を去れば、あっけなく切れてしまう縁だ。あと数刻で、恐らくは永遠に―――。
「一番前で見ていてね」
 そんなラウルの心中など知る由もなく、フェリキアはそう言ってラウルを天幕から追い出し、その入り口をぴったりと閉めてしまった。やれやれ、と肩をすくめるラウルの背中に、賑やかな声がかかる。
「お兄さーん」
「いたいたー」
 色鮮やかな衣装に着替えた双子が駆けてくる。双子の後ろに広がった空は、夕焼けと夜の交じり合ったえも言われぬ色合いに染まっていた。
「起きたんだ、良かったあ」
「一番前の席、埋まっちゃうよ」
「ほら、はやくぅ」
 ラウルの手を取って走り出す双子。すでに天幕入り口には客が詰め掛けている。なるほど、評判の一座というのは間違いではないようだ。
「お、おい、引っ張るなってば」
 そう文句をつけつつ、ラウルは小さな子供達を蹴飛ばさないよう慎重に走り出した。

 マレイン一座の興行は、評判通りなかなかのものだった。
 まずは双子の軽業で人々の目を釘付けにし、座長が面白おかしく口上を述べる。その後に出てきたのは手品師の男性で、何も無いところから花を取り出したり、客に選ばせた札の種類を言い当てたりと、優雅な動作と独特の言い回しで観客を沸かせていた。次にやってきたのはなんと猛獣使いの少女で、その猛獣と言うのがなんとも可愛らしい豹の子供だったものだから、二重に驚かされた。その豹が少女とともに軽々と火の輪潜りや玉乗りをこなして見せた後は道化師の出番だ。滑稽な動きで観客をたっぷりと笑わせた道化師が引っ込むと、一転してしっとりとした小芝居が始まる。役者はたったの四人、舞台装置も貧相なものではあったが、絶妙な台詞のやり取りや動作の優美さ、そして何よりフェリキア演じるひたむきな姫ライラの美しさと儚さに、客席はすっかり魅了されていた。
 最後に一座全員が舞台に上がり、賑やかな歌と踊りで公演を締めくくる。客席からの拍手は、いつまでも鳴り止まなかった。
「ありがとうございました!」
「今月いっぱいはこちらで興行を行っております」
「またおいで下さいませ!」
 興奮冷めやらぬ様子の観客達を一座揃って笑顔で見送る中、最後尾で手を振っていたフェリキアが、最後の方に出てきたラウルを目ざとく見つけて顔をほころばせた。
「いたいた!」
 その声に気づき、足早に立ち去ろうとした彼の腕をしっかと握り締める。
「見てくれてありがとう。どうだった、私のお芝居?」
 頬は火照り、額には汗が光っている。さっき繕っていた青い衣装は夜目にも鮮やかで、彼女によく似合っていた。
「……ああ、いい芝居だった」
 素直に観想を言ってやると、フェリキアはそれは嬉しそうに瞳を輝かせた。
「ありがとう、ラウルちゃん!」
 その呼び方にラウルの顔が思いっきり歪んだが、そんな事にはお構いなしにフェリキアはラウルの手を離さぬまま、ちょうど近くにいた座長へと声をかける。
「ねえ親方!ラウルちゃんが褒めてくれたのよ」
「おお、そりゃ良かったな。さあて、片付けを始めるとするか。急げよ。今日は満員御礼だったからな、この後どこかでぱぁっと飲もうじゃないか!」
 座長の一言に、周囲が沸く。フェリキアも喜びの声を上げて、そして一言付け加えた。
「ラウルちゃんもいらっしゃいよ!ねえ親方、いいでしょう?」
「え?」
「ああ、構わないさ。ちょうどいい、いい店を教えてくれ。お前さんなら知ってるだろう?」
「おい!ちょっと待て」
「駄目?」
 上目遣いに見上げてくるフェリキア。その瞳に見つめられると、どうしても嫌とは言えなかった。
「……分かったよ」
 盛大にため息をついて、そう答える。彼女は嬉しそうに歓声を上げると、早く着替えなきゃ、と天幕へ走って行った。
「……ったく……」
 なぜ、彼女にこうも振り回されているのだろう。ラウルは頭を抱えながらも、なぜか心のどこかでこの状況を楽しんでいる事に気づいて、小さく苦笑を漏らした。
(ま、いいか。どうせ暇なんだしな)
 ここのところしばらく、面白い出来事がなかった。気晴らしに、この連中にちょっと付き合ってみるのもいいだろう。
 そう。決して、フェリキアが気に入ったからではない。この物珍しい一座を気に入っただけなんだ。
 そう思う事にして、周りを見渡す。大道具を運び出したり楽器をしまい込んだりと忙しそうな団員達。人数が少ないから後片付けも一苦労だ。一人何もしていない自分が浮いて見える。
「俺ってば、ほんとお人よしだよなあ」
 そう呟きながらマレインの元に向かうラウル。手伝える事はあるか、と尋ねてくる黒髪の青年に、マレインはにやりと笑って遠慮なく仕事を言いつけると、最後にこう付け足した。
「お前さん、さては惚れたな?」
「そんな訳あるかよ!」
 怒ったように答えるラウルに、親方はさも楽しそうに笑ってみせた。

<< >>