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野薔薇に寄す

 沈み行く太陽に杯をかざす。夕日を透かして揺れる琥珀色の液体は、まるで黄昏時の海のよう。遠く、中央広場の時計台から響いてくる鐘は、さながら出航を知らせる鐘の音か。
「夕の三刻か。やれやれ、今日は思いのほか仕事が長引いたからな。ゆっくり酒も飲めんか」
 礼拝の時間まで、あと半刻ほどしかない。仕事を終えてから夕刻の礼拝までのわずかな時間、こうして夕日を相手に酒を傾けるのが、彼の少ない楽しみの一つであり、息抜きでもあった。何より、この時間なら他の神官達は礼拝の準備に追われており、滅多なことでは邪魔が入らない。高司祭という面倒な肩書きも、こういう時ばかりは有難く思えるものだ。
 杯を傾けながら、それにしても、とダリスは独り言ちる。「おつかい」以降、あのラウルが妙に大人しい。仕事を放り出して街に出かけることもなく、そればかりか神殿の書庫に通いつめ、文献を読み漁っているというのだから驚きだ。
(どういう風の吹き回しやら……)
 と、廊下の方から慌しい足音が聞こえてきて、ダリスは苦笑いと共に杯を置いた。
「今日はとことん、ついてないな」
 そそくさと杯を隠し、椅子にどっかりと腰を降ろす。そうして適当な本を手に取ったところで、扉を叩く音が響いた。
「入りたまえ」
 もっともらしい声を出して、入室を許可する。次の瞬間、勢いよく駆け込んできたのは見慣れた顔の神官だった。
「大変です、高司祭!」
 ぜいぜいと肩で息をする神官を見やり、苦笑いを浮かべるダリス。
「お前はいつもそればかりだな」
 やってきたのは、教育係として長年ラウルの面倒を見てくれていたクリスト・バル=オーロ神官。温厚で人の良い彼は、神殿内における数少ない「味方」であり、ラウルが問題を起こすたびにダリスのもとへと駆け込んでくる。
「今度は一体どうした? 小僧が神殿長の頭にバケツでも落としたか?」
 オーロが来たということは、どうせラウル絡みのことだろう。そう思って茶化してみたが、彼は全く取り合わずに、困惑した表情でこう訴えてきた。
「つい先程のことなんですが、書庫から禁帯出の本が一冊なくなっていることが分かりまして」
「本?」
 首を傾げるダリス。持ち出し禁止の本が一冊なくなったからと言って、書庫の責任者でもないダリスに何故そんなことを言ってくるのだろう。
 と、オーロの視線が彼の机の上、山と積んである本に向けられているのに気づいて、ダリスはむむ、と眉根を寄せた。
「私じゃないぞ」
「分かってます!」
 猛然と言い返すオーロ。こう見えて相当にずぼらなこの高司祭が、本の返却を忘れて自室に小山を築くのは今に始まったことではないが、さしもの彼も禁帯出の本を持ち出すことはない。
 その時、扉の方からわざとらしい咳払いの音が聞こえてきて、ダリスはひょい、とオーロの後ろを見やった。
「失礼致します」
 開け放たれた扉の向こうで律儀にそう断ったのは、茶色の髪をした若い神官。その血色の悪い顔を見て、思わず目を瞬かせる。
「リヒャルト=ドゥルガー神官、君かね」
 わざわざ名を呼んだのは、この神殿内にもう一人同じ姓を持つ人間がいるからだ。高司祭位に就いているそちらは副神殿長の任についており、ドゥルガー副神殿長と呼ばれる。
 その息子こそが彼、リヒャルト=ドゥルガー正神官。よく言えば真面目、悪く言えば融通の聞かない性格のリヒャルトは、ラウルとはまさに犬猿の仲だった。そんな彼がオーロと連れ立ってダリスのもとにやってくるなど、誰が想像が出来るだろう。
「休憩時間中、お騒がせして申し訳ありません。ラウル=エバストに関する件で、オーロ神官と共にご報告に上がりました」
 言いながら、恨めしそうにオーロを見るリヒャルト。どうやら、ここまで走ってくる途中で追い越されたらしい。
「まあ入りたまえ」
 再び失礼致します、と断って部屋に足を踏み入れたリヒャルトは、つかつかとダリスの前までやって来た。
「それで? 小僧がどうかしたのかね?」
「私は、書庫から本を持ち出すラウル=エバストの姿を目撃しました。二日前のことです」
「書庫の本がなくなった時期とも一致します」
 慌てて補足するオーロ。その妙に緊迫した声が、ダリスの表情を強張らせる。ただの禁帯出本ならば、彼がここまでうろたえるわけもない。
「……何がなくなった?」
 慎重な問いかけに、二人は口を揃えて答えた。
「『陰暗の書』です!」
「なに……?」
 その言葉に、流石のダリスも顔色を変えた。それは禁帯出どころか、閲覧にも許可の要る書物。様々な禁呪について、その術式から実践方法までが詳細に書き記された、まさに禁断の書である。
 しばし呆然と二人の顔を見比べていたダリスだったが、最初の驚きが去ってしまうと、あとはひたすら、込み上げてくる笑いを噛み殺すのみだった。
「そいつは、また……けったいなものを持ち出したものだ」
 どういうつもりか知らないが、相変わらずやることが突拍子もない。慌てふためくお歴々が目に見えるようで、つい口元がひくついてしまう。
「高司祭! 笑い事じゃありませんよ!」
 ぴしゃりとたしなめられて、ダリスはすまない、と頭を掻いた。気を取り直し、緊張した面持ちのドゥルガーに視線を転じる。
「詳しく聞かせてもらおうか」
「はい。二日前の、夕の二刻過ぎだったと記憶しています。書庫の前を通り過ぎた時、ちょうど書庫から出てきたラウル=エバストとすれ違いました。本を小脇に抱えていることには気づいたのですが、まさかそれが『陰暗の書』とは思いもよらず、その場は言葉を交わすことなく別れました」
 ところが、今日になって『陰暗の書』が紛失していることが発覚し、もしやと思って書庫に出向いたところ、別件でラウルを探していたオーロとばったり遭遇したというのである。
「私は即刻、神殿長にご報告するべきだと思いましたが、オーロ神官がどうしても、先にエバスト高司祭の耳に入れる必要があると主張されまして、こうしてご報告に上がった次第です」
 ちら、と隣を窺い、不服そうに付け足すリヒャルト。ふむ、と顎を掴んで、ダリスはオーロを見やった。その顔は笑っていたが、琥珀色の双眸には鋭い光が宿っている。
「それで? 本を持ち出した張本人はどうした」
「私も昼前から彼を探しているのですが、どこにも見当たらないのです。恐らくは街に出たものと……いかがいたしましょう、高司祭」
 悲痛な面持ちのオーロによしよし、と手を振って、ダリスはゆっくりと立ち上がった。
「ひとまず、この件については私が預かろう。神殿長への報告は私が戻ってからにしてくれ」
 そう言って、いそいそと外套を羽織るダリス。慌てたリヒャルトが、悲鳴じみた声を上げた。
「エバスト高司祭、どちらへ行かれるおつもりですか!?」
「なに、どら息子を連れ戻しに行くだけさ」
 にやりと笑い、絶句するリヒャルトの横を通り過ぎる。そうしてダリスは、まるで散歩にでも行くような足取りで自室を後にしたのだった。

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