てのひらの楽園

 乳白色の空
 むせ返るような熱気
 生い茂る南国の緑
 僕らはそこを《楽園》と呼んでいた――


 つるりとした白磁の肌に、さっと刷かれた鮮やかな緑。
 金泥に縁どられた真ん丸の瞳が、こちらをじいっと見上げている。
「なんですか、これ」
 首を傾げるエスタスに、帽子に積もった雪を払っていた村長は細い目を更に細めて答えた。
「カエルです」
「いや、それは分かりますけど」
 村長が持ち込んできたソレ――机の上に置かれた小さな陶器の置物は、誰がどう見てもカエルをかたどったものだ。大きさも造形も本物そっくりだが、鮮やかな金泥の装飾がされたカエルなど見たこともない。
「今日届いた荷物に紛れていたんですよ。珍しいものなので、カイト君に見てもらおうと思ったんですが――」
 言いながら、きょろきょろと辺りを見回して首を傾げる村長。
「てっきりこちらにいらっしゃると思ってたんですが?」
「二階で本を読みふけってますよ。ずっと心待ちにしていた本が届いたらしくて、飯の時間にも降りてこないんです」
 今朝方エスト村に届いた荷物は、今年最後の定期船が運んできたものだ。まだ新年まで一月ほどあるが、本格的な雪は半月も前から降り続いている。これが更に積もると荷物はおろか手紙の配達も滞るようになり、村は雪解けまで外部との交流が絶たれて陸の孤島と化すわけだ。
「カイトさんらしいですねえ」
「夕飯はご馳走だから、匂いに釣られて降りてくるわよ」
 背後から響いてきた朗らかな声に、村長はおやおやと笑顔を見せた。
「レオーナ、さっき届いた酒の味見役は入用じゃありませんか?」
「残念でした、もうエスタスが味見してくれたわよ」
 とほほ、と肩を落としてみせる村長にくすりと笑みをこぼしつつ、『見果てぬ希望亭』の美人女将レオーナは手にしたお盆から湯気の立つ茶器を食卓に手際よく並べていく。
「今日はご馳走とは、何かいいことでもありました?」
「いやねえ、もう忘れたの? 今日はエドガー達が狩りに行ってるでしょう?」
 そうでした、と頭を掻く村長。厳しい冬の到来を前に、村人達は食料や薪の備蓄に余念がない。
「きっと大物を獲って来てくれるわよ」
 ほくほく顔のレオーナ。彼女の夫にして『見果てぬ希望亭』の専属料理人エドガーは、”戦う料理人”の異名を持つむくつけき大男だ。熊と見まごう外見にそぐわぬ繊細な料理を作るが、包丁だけでなく斧や弓も自在に操る。今頃は林の中で鹿でも狙っていることだろう。
「オレも行こうかと思ったんですけど、アイシャがあの調子なんで」
 ひょい、と指さした先には、ぱちぱちと燃え爆ぜる暖炉の炎。煮込み料理もできる大きな暖炉の前には、なにやら毛皮の塊のようなものが転がっている。炎を前に微動だにしないその塊からは、よく見れば褐色の腕が伸びていて、火の女神を崇める如く燃え盛る炎に両手をかざしていた。
「えーっと、あれはアイシャさんですか?」
 困惑気味に頬を掻く村長に、やれやれと肩をすくめるレオーナ。
「去年もこうだったけど、今年は更に寒いでしょう? もう暖炉の前から離れられないみたいでね」
「気づくと焦げかけてるもんで、誰かが見てないと危ないんですよ。あっ、ほら言わんこっちゃない、アイシャ! どっか焦げてるぞ!」
 泡を食って駆け寄るエスタスと、裾を焦がしながらも暖炉の前から離れようとしないアイシャ。そしてここにはいない知識神の神官カイト。彼ら三人組がエスト村にやってきたのは去年の秋だったか。村にほど近いルーン遺跡探索の拠点としてこの村を選んだ彼らは、村に一軒しかないこの酒場兼宿屋『見果てぬ希望亭』を定宿として、月の半分は遺跡に潜りっぱなしの生活を送っている。
 とはいえ、北大陸の冬は長い。雪が積もれば遺跡までの道も閉ざされて、遅い春の到来をひたすら待つのみだ。故にこの時期の彼らは村での雑事を請け負って日銭を稼ぐ日々を送っており、今日もエスタスは朝から薪を割り、カイトは子どもらに勉強を教え、そしてアイシャはひたすら暖炉に当たっている。
「今年は例年になく冷え込んでいますから、南大陸出身の彼女には堪えるでしょうねえ」
「そうなのよ。それに何か、ずっと顔色も悪いし……ちょっと心配だわ」
「確かに、最近妙に青ざめてますよね」
 褐色の肌を持つアイシャの顔色は分かりづらいのだが、最近はなんとなく色褪せているような印象を受ける。それが体調不良によるものなのか、単純に寒いからなのかが分からずレオーナも気を揉んでいるのだが、何しろこの村には医者がいない。簡単な怪我の手当て程度ならレオーナや村長でも出来るが、病気となるとお手上げだ。
「本人に聞いても、大丈夫としか言わないんですよ」
 ちらり、と毛皮の塊に視線を投げかければ、小さなくしゃみがそれに応えた。見れば暖炉の炎が小さくなってきている。
「薪を取ってきます」
 上着をひっつかみ、飛び出していくエスタス。両開きの扉をばん、と開ければ、待ってましたとばかりに雪が吹き込んでくる。扉の向こうは見事な銀世界だ。雪まみれの広場ではレオーナの子ども達が雪遊びに夢中になっているが、あと少しすれば両手と両頬を真っ赤に染めて逃げ帰ってくることだろう。
「いやはや、子ども達は元気ですねえ。羨ましいことで」
 年寄りじみた感想を述べつつ、すでに冷めかけているお茶に手を伸ばせば、レオーナがあら、と鈴のような声を上げた。
「どうしたの、このカエル?」
 つるりとした緑色の背中をそっと撫でるレオーナに、村長はそうでした、と笑う。
「今日届いた荷物に、南大陸からのものがあったでしょう? あれに紛れていたんですよ」
「ああ、リンドさんが頼んでたやつね。いつもの煙草の箱と、その他にも何か入ってたみたいだけど」
「南大陸でしか取れない香辛料の類を送ってもらったそうなんですが、その中に紛れていたそうで。カイト君に聞けば何か分かるかと思って預かってきたんですけどねえ」
「呼びました?」
 階段の方から聞こえてきた声に振り向けば、そこには朝からずっと自室にこもっていた知識神の神官が、本を小脇に抱えて降りてくるところだった。
「いやあ、読みふけってたらいつの間にかこんな時間になっちゃいましたよ。レオーナさん、何か食べる物あります?」
「はいはい。待っててね、すぐに用意するから」
 お盆を抱え、厨房へと消えていくレオーナ。入れ替わりに席へ着いたカイトは、エスタスのために用意されていたお茶を遠慮なく飲み干して、そこで初めて机の上に置かれた緑色のカエルの存在に気が付いたようだ。一目見るなり嬉しそうな声を上げて、つるりとした頭に指を伸ばす。
「珍しいですねえ。南大陸の船乗りが持っているお守りじゃないですか」
「お守り?」
「ええ。元々は船に積む水の鮮度を見るために、樽に生きたままのカエルを入れていたそうなんですが、そこから転じて『船乗りのお守り』となったらしいんです。大体は木彫りの首飾りや帯飾りなんですけど、陶器というのはなかなか凝ってますね。これはオーリン王国のものかな? この模様の感じだと恐らくガラン地方の……」
 またぞろ長くなってきた話を適度に聞き流しつつ、村長は小さなカエルをそっとつまみ上げ、てのひらに乗せた。
「なるほど、君はお守りでしたか。きっと荷降ろしの際か何かに、船員さんの私物が紛れてしまったんですねえ」
 できることなら持ち主に返してやりたいところだが、次の定期船がやってくるのは来年の春。あと三月以上は待たねばならない。
「定期船が来るまでうちで預かっておきましょうか」
 懐にしまい込もうとした瞬間、ひょいと伸びてきた褐色の手が、まるでトカゲが獲物をしとめるかの如く小さなカエルを掻っ攫っていく。
「アイシャさん!?」
 珍しく慌てた声を出す村長の隣に、いつの間にかやってきた毛皮の塊――もとい、精霊使いの少女アイシャは、陶器のカエルをそっと掌で包み込み、ぽつりと呟いた。
「南の匂い」
 陶器製なのだから匂いなどつくはずもない、そう反論しようとしたカイトをそっと押しとどめて、村長はそっと少女を窺う。
「故郷を思い出しますか? アイシャさん」
 穏やかな問いかけに、南の国から旅をしてきた少女は小さく頷いた。
「懐かしい、匂い」
 己のことなどほとんど話さない彼女が珍しく零した郷愁は短く、そして深い。
 そのまま黙り込んでしまったアイシャを気遣うように、村長はわざと明るい声でカイトに話題を振った。
「そう言えばカイト君、何の本を読んでいたんですか? 届くのにずいぶん時間がかかったと聞きましたが」
「そうなんですよ! 夏頃に注文したんですが、なかなか届かなくて大変でしたよ。南大陸における動植物についてまとめた本なんですが、それはもう、珍しいものばかりでしてね! そうそう、そう言えば興味深い記述を見つけたんです、ほらここ――」
 抱えていた本を開いて机の上に置いた瞬間、まるで示し合せたかのようにばんっと扉が開く。
「ただいまー。ん? どうしたんだカイト? そんなところで固まって」
 雪まみれになって戻ってきたエスタスに、カイトは猛然と抗議の声を上げた。
「エスタス! びっくりさせないでくださいよ!」
「だから何がだよ? ほらアイシャ、薪の追加持ってきたぞ、ってあれ?」
 騒がしい相棒の脇を通り過ぎ、抱えていた薪の束を暖炉脇に積もうとして、さっきまで暖炉の主と化していたアイシャの姿がないことに気づく。
「アイシャ?」
 キョロキョロと辺りを見回せば、ちょうど毛皮の塊を脱ぎ捨てて数日振りにいつもの姿に戻ったアイシャが、颯爽と扉から出ていくところだった。
「アイシャ!? どこ行く気だ!?」
 ばん、と扉を開け放ち、南国の娘はきりっと言い放つ。
「《楽園》へ」
「はあ!?」
 思わず声を揃えてしまった男性陣には構わず、くるりと踵を返すアイシャ。そこに、どんと立ちふさがる黒い壁。
 ぼふん、とぶつかったアイシャをものともせず、その「黒い壁」は重低音で問いかけた。
「どこに行く」
 肩にどでかい獲物を担ぎ、手には使い込まれた大型の弩。背中には矢筒と共に馬鹿でかい斧を背負った『料理人』エドガーは、驚きの表情で固まった少女をずずいと室内に押し戻すと、声を聞きつけてやってきたレオーナに弩を預け、ようやく空いた手で焦げ茶色の頭をぐりぐりと撫でる。
「おやつの時間だぞ。出かけるのはその後だ」
 有無を言わさぬ迫力に、子どものようにこくんと頷いて、スタスタと暖炉の前に戻るアイシャ。
 そして気が抜けたように立ち尽くす男性陣をちょいちょいと手招きして、エドガーは担いでいた獲物をぼん、と押しつけた。
「うわっ! でかい鹿だなあ、よく獲れましたね」
「お、重いですねえ。納屋に運んでおけばいいですか?」
 村長の言葉に頷いて、さっさと厨房へ向かうエドガー。心得たようにレオーナが扉を開けて、まだ雪遊びにご執心な子ども達を呼び戻す。
「みんなー! おやつよ!!」
 広場から上がる大歓声に驚いたように、屋根の雪がどさりと落ちた。

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