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第二章[6]

 世界を覆う漆黒の天鵞絨。そこに散りばめられた星々はあたかも金剛石の如く光輝き、静寂の夜を彩る。
 そして、そんな美しき夜空を煌々と照らすのは、紛うかたなき真円の白き月。
 その美しさに思わずため息をついていると、扉を叩く音が聞こえてきた。
「入れ」
 誰何しなかったのは、部屋の前に衛兵が立っていることを承知しているからだ。怪盗《月夜の貴公子》が予告状を送りつけてきたことを受け、その翌日から城内はまるで戦の最中のような物々しい警備が敷かれている。不審人物であれば扉に近寄ることすら出来ないだろう。殺気にも似た兵士達の気迫が、扉越しにここまで伝わってくるようだ。
「失礼します」
 扉が開いて一人の侍女が入ってくる。後ろ手に扉をぴたりと閉め、つかつかと少女のいる窓辺まで足を進めた侍女は、夜も更けているというのに寝巻きに着替えもせず、そればかりか床にすら就いていないその少女を怒るどころか、にこりと笑ってみせた。
「準備はよろしいですか?」
「ああ、完璧だ。あとはその時を待つのみ……」
 腕に嵌められた時計に視線を走らせて、もうちょっと、と呟く少女。
「外の様子はどうだ?」
「そりゃあもう」
 肩をすくめてみせる侍女。この日のために一段と厳重に組まれた警備体制。特に王女の寝起きしている西の塔などは、夜になってからは城内の者であっても立ち入りを禁じているほどだ。とはいえ例外はある。王女本人と国王、そして王女の側仕えをしている侍女、メアリアだ。
「父上は?」
「自分の手で怪盗を捕まえるんだといって聞かないものですから、大臣達が強引に寝室へと引っ張っていかれました」
 その光景が目に浮かぶようで、少女は思わず苦笑を浮かべた。一国の王であるはずなのに、あの父親ときたらどうにもそれらしく振舞おうとしない。それがまた、彼の魅力の一つなのだろうけれど。
「この城は見かけによらず手ごわいんだ。いかな怪盗といえど、易々と忍び入れるものか」
 王城ファトゥールは優美な外観で知られているが、その実、長期の篭城戦にも耐え得る堅固な造りを誇っている。首都ローレングのほぼ中央に位置する小高い丘の上に建てられた城はその周囲を水堀で囲み、跳ね橋を上げてしまえば城内へ入ることすら叶わない。何らかの方法で堀を越えたとして、そこには大人三人分ほどもある高い石壁が聳え立っている。
 城壁を越え、うまく城内へと入り込めても、王女の部屋がある西の塔に辿り着くまでには大勢の警備兵が待ち構えている。彼らを突破し、渡り廊下を抜けて塔へと侵入出来たとして、今度は塔内を埋め尽くさんばかりに配置された五十人もの兵士が相手だ。
 これではいかな怪盗といえど、姫を連れ去ることなど不可能。本日をもって世間を騒がせる怪盗騒ぎに終止符が打たれることになろうと、国王は王女の前で豪語した。
(まったく、父上ときたら……)
 巷で噂される王の溺愛ぶりは本当のことだ。第二王妃の忘れ形見である王女を、彼は目に入れても痛くないほどに可愛がっている。それは王女だけに限ったことではない。第一王妃との間にもうけた王子ロジオンにもまた、国王は同等に愛情を注いでいた。
「兄上はどうされている?」
「ロジオン殿下も本日の宴には欠席されてましたよ。何でも、また体調を崩されて伏せっておられるとか」
「そうか……」
 異母兄であるロジオン王子は生まれつき体が弱く、住まいとしている東の塔からほとんど出ることもない。幼い頃はそれでも天気のいい日に中庭で遊んだこともあったが、今となっては行事の折に顔を合わせる程度となっていた。
「騒がしくするとお体に障られるからって、東の塔はそりゃあもう閑散としてましたよ。こっちには溢れんばかりだっていうのに」
 この部屋に上がるだけで、何人の兵士と顔を合わせたことやら。この部屋がある塔の五階部分だけでも、恐らくは十人以上の兵士が警備に当たっている。今の西の塔付近は、まさに石を投げれば兵士に当たるという状態だ。
「あんないかつい甲冑なんか来て廊下にぞろぞろ立たれちゃ、通るだけで一苦労ですよ。あちこちぶつかっちゃって、痣が出来てたらどうしましょう、まったく」
 芋の子を洗うような廊下の状況を思い出して顔をしかめているメアリアに、少女はふと表情を変えて尋ねた。
「なあメアリア」
「なんですか? 姫様」
「メアリアは今日の宴に出たんだろう? どんな人間だった? その神官は」
 急遽催された晩餐会は、西の辺境からやってきた神官をもてなすものだった。彼は昨年末、影の神殿と呼ばれる者達を壊滅させ、彼奴らが利用せんとしていた竜の卵を最後まで守りぬいたのだという。
 その話を国王から聞かされた時、少女は是非会ってみたいと目を輝かせた。それを聞いた国王は神殿へ、彼がやってきたらすぐに城へ通すように言いつけた。そしてその日を楽しみに待っていたのだが、よりにもよって今日、この日にやってくるとは思わなかった。
 体調が優れないと嘘をついて晩餐会を欠席したのは、この時の為に少しでも力を温存しておきたかったから。ただでさえ堅苦しい席は苦手なのだ、余計な神経を使って気力や体力を消耗しては、折角の計画が台無しになってしまう。
「そうですねえ、想像していたより大分若い、結構男前な神官様でしたよ」
 宴の席を思い出しながらメアリアは答える。給仕として駆り出されただけだから話をすることなどもっての他、近づくことすら出来なかったが、遠目でもその見事な黒髪と整った顔立ちは見て取ることが出来た。
 見たまま全てを少女に話して聞かせると、少女はさも残念そうに肩をすくめる。
「是非とも、直接会って話がしたかったのだがな」
 そう呟きながら、少女は再び腕時計に目を走らせる。そして、メアリアに力強く頷いてみせた。
「よし。メアリア、手筈通り頼む」
「はい」
 短く答えて、侍女は裾を持ち上げて歩き出す。幼い頃からいつも側にいてくれた彼女は、ただの侍女ではない。無二の親友であり、頼れる姉貴分であり、そしてもっとも信頼できる協力者。
 その見慣れた背中に、少女は小さく言葉を投げかける。
「……いつもすまない」
「いやですね。もう文句を言う気も失せたって言ったでしょう。くれぐれも、お気をつけて。ローラ様」
「ああ」
 では、と優雅に一礼をして扉の向こうに消えていくメアリア。廊下からは相も変わらず、ぴりぴりとした兵士達の気配が漂ってくる。
 ぱたん、と扉が完全に閉まったのを確認して、少女は窓辺にすっくと立った。
 絨毯の上に伸びた青い影。それはまるで凛々しき戦乙女の雄姿のよう。
「よし」
 懐にしまい込んだ札をそっと確かめ、そうして少女は再び腕時計に目をやった。
「……もう少し」
 そう。あともう少しで、月は最も光り輝く。

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