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第二章【7】

「それでは、頼むぞ」
 近衛隊長ヴァレルの言葉に、跳ね橋の向こうで男は軽く頷いてみせる。今一つ緊張感のない態度だったが、しかし彼が不言実行の漢であることはヴァレルが誰よりもよく知っていた。
「これまでの失態をここいらで挽回しとかないとな。そっちも頼むぜ」
 守備隊の大隊長を務めるナジードは、ヴァレルの言葉にそう答えつつも更に言葉を続ける。
「ま、城に侵入される前に捕まえちまうのが一番だ。あんたの出番がないことを祈るよ」
 城内と城の周囲はヴァレル率いる城の近衛隊が、ローレング市内は守備隊が、それぞれに厳重な警戒体制を敷いている。外も内も完璧に固め、怪盗が網にかかるのを待ち構えているわけだ。王女の身を危険に晒すわけにはいかない。なんとしても、王女の元に到達される前に奴を捕らえる必要があった。これだけの兵士を前にすれば、いかな怪盗といえど手も足も出まい。
 と、ヴァレルの背後から歩み寄ってくる足音が聞こえてきた。振り返ると、そこにはつい先ほどまで国王と共に城内の警備状況を確認していたノレヴィス公爵の姿があった。
「ここにいたか、ヴァレル」
 そう言いながら近寄ってきた公爵は、彼の視線の先にナジードがいることに気づいて軽く手を挙げてみせる。
「ナジードか。市街地の警備、しかと頼んだぞ」
「はっ……」
 畏まってみせるナジードの胸元でセインの聖印が揺れる。守備隊は境界と静寂の神セインを崇める者達が中心となって結成された首都防衛の要だ。セイン神は「守るための戦い・平和の尊厳」を提唱しており、警邏と指導によって犯罪や事件・事故を最小限にするのが彼らの狙いである。その守備隊において一個大隊を任されているナジードは、侍祭位を有する敬虔なセイン信者でもあった。
「ヴァレル隊長! お客人方は全てお帰りになられました」
 城内の確認から戻ってきた兵士の報告に頷いて、ヴァレルは跳ね橋を上げるよう命じた。本来ならば日の入りに合わせて上げられる予定だった跳ね橋だが、予定外の宴が開かれたことによって大分それが遅れてしまった。
 この跳ね橋さえ上げてしまえば、城と市街地を結ぶものは何もない。両者の間には大人の背丈を三倍したほどの深さと幅を誇る水堀が横たわり、侵入者を阻み続けている。
 ガラガラという轟音と共にせり上がっていく跳ね橋を見つめていたヴァレルは、ふと隣に立つ公爵を見た。
「公爵はお屋敷に戻られないのですか?」
 ノレヴィス公爵はローラ国中心部に広大な領地を持ち、また首都にも立派な屋敷を構えている。他の招待客と同様、彼もまた屋敷に戻るものだと思っていたのだが、そんな彼はさも当然とばかりに答えた。
「ああ、今宵は城に残らせてもらうことにした。捕らえられた怪盗の顔をいち早く拝みたいからな」
「しかし、危険では……」
「なに、警備の邪魔にならんよう、きちんと部屋に引っ込んでいるから心配は無用だ。屋敷で気を揉んでいるよりはここで奴を待ち構えている方が性に合っている。それに、国王陛下がまた騒ぎ出されたら、大臣達だけでは説得し切れないだろうからな」
 茶目っ気たっぷりにそう言ってみせた公爵に、思わず苦笑を浮かべるヴァレル。つい先ほど、その「国王の騒ぎぶり」をその目で見ただけに、彼の言葉には説得力があった。
 何しろ、最初は王女の部屋で怪盗を待ち伏せるのだと言って聞かなかった国王である。それだけはやめてくれと王女本人はおろか臣下達にも猛反対を食らったものだから、代わりに自らの目で警備体制の最終確認を行い、後のことをもっとも信頼を置く近衛隊長ヴァレルに一任して、彼はようやっと寝室へと引き上げた。その道中も文句たらたらだったのを、この公爵や大臣達が何とか宥めすかして寝室に押し込んだのである。そんな彼のことだ、素直に寝台へ横になったとは思えない。恐らくは眠らずに、怪盗を捕まえたという報告が入るのを今か今かと待ちわびているに違いない。
「陛下も血気盛んでいらっしゃる」
「まったくだ。そろそろご自分のお年を自覚してもらいたいものだよ」
 国王に対してそこまで言ってのける公爵だが、それが不遜に聞こえないのは、彼が国王ヴァシリー三世の義弟であり、また忠実な臣下であり、そして親友とも呼べる存在であるからだ。
 ノレヴィス公爵は今は亡き第一王妃の弟であり、ロジオン王子の叔父にあたる。ヴァシリー三世を公私に渡って支えてきた、まさに国の重鎮と呼べる人物だ。温厚かつ思慮深い性格は誰からも親しまれ、国王や大臣達から全幅の信頼を寄せられている御仁である。
 つい数刻前まで国王と共に城の警備態勢を入念に確認し、自らの手で怪盗をひっとらえると豪語する国王を大臣らと共に宥めていた彼は、駄々をこねる国王の様子を思い出してかくすりと笑みを浮かべ、そして改めてヴァレルを見やった。
「ヴァレル、王女を頼むぞ」
「はっ……」
 表情を引き締めて答えるヴァレルの前で、跳ね橋が上がり切ったことを知らせる鈍い金属音が鳴り響く。これで城は外界より隔絶された。
 時刻はすでに闇の二刻過ぎ。怪盗との決着をつける満月の夜は、まだ始まったはかりだ。
(さあ、来るなら来てみろ、怪盗《月夜の貴公子》……!)
 冷たい夜風が吹きすさぶ中、ヴァレルは夜空を照らす月を睨みつけた。

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