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第二章[8] |
どこか遠くで絹を裂くような悲鳴を聞いた気がして、ラウルはふと足を止めた。 「……気のせい、か?」 耳を澄ますが、先ほど聞こえた声はもう響いてこない。きっと風の音かなにかがそう聞こえたのだろう、と、ラウルは再び歩き出した。何しろ、すでに闇の三刻を告げる鐘は鳴り終えている。急がなければならない。 薄暗い城の廊下。この辺りは警備の兵も配置されておらず、所々を照らす燭台の光もラウルの足元までは届いてこない。 「この辺りのはずなんだが……」 伝言にあった「東の渡り廊下」は、だだっ広い城内の外れに位置していた。 途中、警備兵やら通りすがりの侍女やらにそれとなく道を尋ね、告げられた刻限に間に合うよう絨毯敷きの廊下を突き進む。暗闇なので傍目からは分からないが、その顔は甚くにやついていた。 (誰だか知らないが、まあ折角のお誘いだしな。顔くらいは拝んでも罰は当たらないだろう) 伝言を預かってきた侍女は、身分ある女性からの誘いだと仄めかしていた。高貴な方々というのは時折火遊びに興じるというが、そういった類のお誘いなら喜んで受けて立つ――と言いたいところだったが、王に招かれて滞在している身で下手なことをしでかす訳にもいかない。ここはやはり「真面目一辺倒な神官」を演じておくに限る。即ち「何故呼ばれたのかは分からないがひとまず素直にやってきた純朴な青年」を装えばいい。あとは何があっても「この身は神に捧げられていますから」の一言で押し通せる。いやはや、便利な台詞があったものだ。 (ま、こんなところで危険な遊びに興じなくったって、行くとこ行きゃいくらでも遊べるわけだし) そんなことを考えながら歩いていると、不意に明るい場所に出た。 回廊かと一瞬思ったが、よく見るとそれは塔へと続く渡り廊下だった。左右に広がるのは城の中庭。風にざわめく木立の影がラウルの足元まで延びている。 渡り廊下の先には固く閉ざされた鉄製の門扉。その上に掲げられた紋章はラウルの知るところではなかったが、ひっそりと静まり返った塔は月に届かんばかりに高く、夜空に聳え立っていた。 「……ここか」 改めてきょろきょろを辺りを見回すが、人の気配は微塵も感じられない。遅刻したことに腹を立てて帰られてしまったのだろうか、と思いながらひとまず渡り廊下を進もうとした、その時。 「ん?」 前方に何か動くものを感じて、ラウルは足を止めた。 渡り廊下の天井を支える何本もの柱。その手前から三本目と四本目の中間辺りで、何か揺れる影がある。 (なんだ……?) 眉をひそめつつ近づくと、揺れているのは渡り廊下の上から庭側へと垂らされた一本の縄だと分かった。夜風にゆらゆらと揺れるそれは黒く染められており、とてもではないが王宮の渡り廊下には似つかわしくない。 (なんでこんなとこに縄が……) どこから垂らされているのだろうかと、ひょいと上を見上げたその瞬間。 子供が空から降ってきた。 「いたた……」 着地に失敗して尻をさすっているのは、年の頃十代半ばだろうか、華奢な体つきの子供だった。簡素な服の上に革の胸当てを着込み、腰には短剣、足にはしなやかな革靴と、まるでこれから戦いでも始めるかの如きいでたちをしている。しかし、地面に尻餅をついていてはちっとも様にならないというものだ。 「メアリア、ちゃんと……」 すぐに立ち上がり、尻についた土埃を叩きながら誰かに抗議しかけて、ようやくその子供は目の前に立つラウルの存在に気づいたようだった。 煌々と地上を照らし続ける月明かりのおかげで、互いの姿ははっきりと見てとることが出来る。 それは少女だった。まだ幼いながら、わずかに膨らみを帯びた胸やほっそりとした腰つきから一目でそうと分かる。 長い黒髪を首の後ろで束ね、きょとんとラウルを見つめる少女。しかし次の瞬間、彼女は腰の短剣を引き抜くと、まるで猫のように俊敏な身のこなしでラウルへと飛びかかってきた。 「すまない!」 なぜかそんな謝罪の言葉と共に短剣を振りかざす少女。しかし。 キィンッ……! 金属同士の触れ合う音が、渡り廊下に響き渡る。 「おいおい、なんだよ一体」 咄嗟に引き抜いた小刀で少女の一撃を受けたラウルは、呆れ返った様子で目の前に迫る少女を睨みつけた。 「だから、すまないと言っている。見逃すか、さもなくば倒されてくれ」 一旦その場を飛びのき、再び短剣を構えて少女はそんなことを言ってきた。その言葉、そしてその髪の色に、ラウルはひょっとして、と眉をひそめる。 夜風に流れる黒髪。どう見ても城の者とは思えないそのいでたち。そして、予告の夜。 「……お前、もしかして例の……?」 拍子抜けした顔で言うラウルに、少女は馬鹿正直にこくん、と頷く。 「そうだ。私が怪盗《月夜の貴公子》だ」 |
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