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第二章[9] |
「……嘘だろぉ?」 『貴公子』と名乗るからには男だと思っていたのに、その正体が年端もいかない少女とは。こんな子供に警備隊やら城中やらが翻弄されていたのかと思うと、滑稽でならない。 しかし、この時間、この城内にいるという現実こそが、彼女が怪盗《月夜の貴公子》である事実を如実に物語っている。 そんな少女は、奇妙なほど真摯な態度でラウルへと語りかけてきた。 「お前はこの城の者ではないだろう。頼む、見逃してくれ。時間がない」 その言葉に、ラウルはふと首を傾げる。 「これから王女をかっさらいに行くってのか?」 それにしては何か妙だ。そう、少女の装備はあまりにも軽装過ぎて、とてもこれから大勢の警備兵を掻い潜って王女の元へ急いでいるようには見えないのである。 いや、そもそもこんな子供が同じ年頃の王女を連れ去ることなど出来るのだろうか。力づくで連れ去ろうというには、目の前に佇むこの少女は些か華奢すぎる。とてもではないが人一人を抱えて城を脱出するなど不可能だろう。 そんなことを考えている間にも、少女はとうとう痺れを切らしたのか再びラウルへと向かってきた。 「すまない!」 律儀にそう言いつつ、ラウルの右腕を狙って短剣が的確に振るわれる。無論、黙って切られてやるわけにはいかない。身を捻ってその一撃をかわし、こちらも小刀を一閃させた。 ヒュンッ、と空を切る音が響く。肩を狙った一撃だったが、少女もまた咄嗟にその場に転がり、すぐさま立ち上がって再び立ち向かってくる。その身のこなしはしごく優雅で、尚且つ無駄がない。子供だと思って油断していては危険だ。そう判断し、気を引き締める。 「おいっ」 突っ込んでくる短剣をすれすれでかわしつつ、反撃する代わりに少女を押さえ込もうと左手を伸ばす。しかし少女とて黙って捕まってくれるわけもなく、するりと体を捌いてラウルの手を逃れようとする。 「このっ」 「わっ」 少女の体がラウルの手を完全にすり抜ける直前、かろうじて宙になびいた黒髪が指に触れた。咄嗟にそれを引っつかみ、ぐいと引いて少女を取り押さえようとした、その時。 すぽんっ、という間の抜けた音と共にラウルの手に残されたのは、黒い髪。 「え?」 呆然と目の前を見ると、そこには鮮やかな紅茶色の髪が広がっていた。 「返せ」 がっちりと固定されていたらしい黒髪のかつら。それが取れたのだ、相当に痛かったのだろう。目に涙を滲ませながら少女は手を伸ばしてくる。 「あ、ああ……」 突然のことに思考が停止してしまい、言われるがままにかつらを渡そうとするラウル。その耳に、遠くから轟く複数の足音が聞こえてきて、ラウルは弾かれたように少女から離れる。 一方、その音に血相を変えた少女は、ひらりと身を翻すと、柱の間をすり抜けて庭へと躍り出た。そのまま脱兎の如く走り出す少女の影が長く地面に伸びる。 「お、おいっ!」 慌てて追いかけようとしたその時、今度はけたたましい怒声が響いてきた。 「おい、いたぞ!」 「あそこだ!」 はっと廊下の先を見る。そこには、大勢の警備兵達が大挙して押しかけてくる姿があった。しかも、彼らは一様にラウルを目指してきているではないか。 「げっ」 まだ距離があるし、何しろこの暗闇だ、恐らくはこちらをラウルだとはっきり認識しているわけではないだろうが、それにしてもこの状況はいかんせんまずい。どうみてもマズい。 (これは、もしかして……) 「見つけたぞ、怪盗《月夜の貴公子》!」 「貴様っ! 王女をどこへ連れ去るつもりだ!」 そんな声を聞いて、ラウルはその場で頭を抱えそうになった。 (冗談だろ!?) どうやら完全に勘違いされているようだ。慌てふためくラウルに、横から鋭い声が飛んでくる。 「神官!」 見れば、とっくに逃げ出したかと思っていた少女がそこにいた。そして、ラウルに向かって手を伸ばしてくる。 「来い! こっちだ」 「はぁ? なに言ってんだ、お前」 「いいから来るんだ」 焦りを含んだ声。そう、少女もまたラウル以上に焦っているのだ。しかしなぜ彼女がこうも焦りを感じているのか、その時のラウルには皆目見当がつかなかった。 「俺はっ……」 「急げ!」 そう言うが早いか、少女はラウルの元へと駆け寄るとその腕を掴む。そして、強引に走り出そうとした次の瞬間、とうとう渡り廊下の入り口まで警備兵達が押しかけてきた。どの顔も憤怒の表情を浮かべ、血走った目で武器を構えている。 「ええい、神妙に縛につけ!」 「仲間の仇、覚悟!」 「ち、ちょっと待て! 俺はちがっ……!」 いきり立つ警備兵達をなんとか宥め、誤解を解こうとするラウル。と、兵の一人が月明かりに照らされたラウルの顔を見て素っ頓狂な声を上げる。 「ああっ! あなたはっ……!」 「どうしたヒューゴ……ま、まさか……」 その声をいぶかしみ、兵士を押しのけるように前に出てきた年配の兵士もまた、ばつの悪い顔をして佇むラウルを見て絶句する。 「違う、だから――」 弁解の言葉を紡ごうとしたラウルをすっと片手で制し、少女は懐から取り出した何かを彼らに向かって投げつける。そして――。 『闇のもたらす安らかな眠りよ!』 「え?」 鋭く唱えられた神聖語。目を剥くラウルの前で警備兵達はバタバタと廊下に倒れていく。その頭上でひらひらと宙を舞っているのは、ラウルもよく知る呪符。そう、術を封じ込め、神聖語の合い言葉で発動するあれである。しかもそれはラウルの仕える闇と死の神ユークがもたらす眠りの神聖術に他ならなかった。 「お前、なん……」 「話は後だ。ついてこい、神官!」 そう言って、少女はラウルの腕を掴んだまま再び走り出した。その細腕からは想像出来ないほどの力に引き摺られそうになって、ラウルは少女の手を振り払い、そして自分の足で走り出す。 そうして少女の隣に並んだラウルは、真剣な表情を浮かべ、ひたすらにどこかを目指して疾駆し続ける少女の顔をそっと覗き見た。 月明かりに照らされた白い横顔。夜風になびく紅茶色の髪。そして、闇の中でもひときわ輝いて見える紫の瞳。 その瞳に漲る強い意思の力に、思わず息を呑むラウル。 夜目にも鮮やかな紫の双眸。まるで宝石をはめ込んだようなこの瞳を、どこかで見た気がする。しかも、つい最近――。 「まさか……」 ラウルの呟きに、少女は何だ、とばかりに小首を傾げた。あどけないその動作が、ますます確信をもたらす。 見覚えがあるはずだ。つい数刻前に、ラウルは彼女の肖像画を拝んでいるのだから。 「ローラ姫、なのか?」 ラウルの呟きに少女は小さく頷いてみせたが、それ以上の答えは返さず、代わりに足を速めた。 中庭といえど、ここは広大な城の一部。木々が生い茂り、整えられた花壇が続く。その間を縫うように伸びる石畳の遊歩道を、少女はただひたすらに走り続ける。 「おい、一体どこへ行くつもりだ?」 思わず問いかけると、少女は事も無げに答えた。 「脱出するに決まっているだろう。無駄口を叩いていないで早く来い」 「ああ……って、なんで俺がお前についていかなきゃならないんだ」 思わず素直に従いそうになって、慌ててラウルは少女を睨みつける。そんな彼に少女は一言、 「誤解を自力で解く力があるというなら、置いていっても構わないんだが」 その言葉に唇を噛むラウル。先ほどの兵士達はかなり頭に血が昇っていた。あれを宥め、自分が怪盗《月夜の貴公子》とは無関係であることを理解してもらうには、相当の労力を要するだろう。いや、むしろあの状況で無関係というには如何せん説得力がなさ過ぎる。 「……分かったよ」 ため息混じりにそう答え、諦めの表情で少女の後を追うラウル。 どういうことかは分からないが、巻き込まれたからにはせめて説明くらいはしてもらう権利があるはずである。それには、ひとまずこの少女についていくしかなさそうだ。 (くっそー……なんで俺がこんな目に……) 運が悪いの一言では説明がつかない。何か作為があるとしか思えないが、この状況で呑気にそんなことを考えてはいられない。 それにしても、分からないことが多すぎる。その筆頭が目の前を走る少女だ。 「なあ、なんであんたが……」 「後でちゃんと話す! いいから走れ」 振り返りもせずにそう言ってくる少女。仕方なく、ラウルは黙って少女の背中を追いかける。 そして二人の姿は闇へと紛れていき、やがて忽然と姿を消した。 |
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