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第二章[10] |
怪盗《月夜の貴公子》は、まるで煙のように城内から姿を消した。 「いたか?」 「いえ、こちらには……」 「よく探せ! まだ城外には出ていないはずだ」 「はっ!」 空には満月。まるで彼らに挑むかのように、怪盗はこんなにも明るい夜を選んでやってきた。そして、いとも容易く予告を現実のものにしてみせたのだ。 それは、魂消るような王女の悲鳴から始まった。 闇の三刻を告げる鐘が聞こえてきたとほぼ同時、王女の部屋から響いてきた悲鳴に、廊下に待機していた兵士らは慌てて部屋へと駆け込んだ。 その途端急激な眠気に襲われ、バタバタと床に倒れ込んでいく兵士達。見えざる眠りの力は次第に廊下へと伝わっていき、ほんの数分の間に西の塔に詰めていた総勢五十名の警備兵全員が眠りに落ちた。 こうして彼等を無力化した怪盗《月夜の貴公子》は、鮮やかに王女を盗み出したのだった。 ほどなくして巡回の警備兵が塔の異変に気づき、この旨は直ちに近衛隊長ヴァレルの元へ報告された。 「なんということだ……!」 部下のもたらした報告に猛々しい表情を浮かべ、しかしヴァレルはあくまでも冷静に指示を下す。 「城外を警戒中の部隊に警戒強化を伝えろ。ことによっては市内探索に入る。その旨も伝えておけ」 「了解しました!」 「城内の部隊は内部をくまなく探せ! なんとしても奴を捕らえ、王女をお救いするのだ!」 「はっ!」 詰め所を飛び出して行く兵士に混ざり、自らも兵を率いて廊下を走る。 たちまち、城内はまるで戦争でも始まったかのような状況に陥った。真夜中過ぎであるにも関わらずあちこちに明かりが灯され、その中を警備兵達が血眼になって消えた怪盗と王女を捜索する。 召し使い達が不安げに見守る中、大捜索は続けられた。そして、東の塔付近で怪しげな人影を見たという侍女の証言を元に塔へ向かった警備隊は、そこでようやく憎き怪盗《月夜の貴公子》の姿を発見したのだった。 しかし。 妙な札を使って彼等を眠らせ、そのまま王女を連れて庭へと姿を消した怪盗《月夜の貴公子》。その知らせを受けたヴァレルとその配下が渡り廊下に駆けつけた時には彼らの姿はどこにも見えず、ただ廊下に倒れ伏して幸せそうに眠っている兵士達がいるのみだった。 慌てて捜索を開始したものの、高い城壁に囲まれて逃げ場のないはずの中庭のどこにも、怪盗と王女の姿は見当たらない。 「一体どこに消えたというのだ!」 庭へと逃げたからには恐らく城壁を越えて脱出を図ったのだろうが、城壁を越えても城を取り巻く水堀を越えなければ城外へ出ることは不可能だ。しかし堀を越えるには正門の跳ね橋を降ろして渡るしか方法はない。 (いや……そもそも、奴はどうやって城へと侵入を果たしたというのだ……?) 宴に招かれた賓客が帰った後は跳ね橋が上げられ、それから一度たりとも降ろされた形跡はない。何しろ馬車が通ることもある跳ね橋だ。かなりの強度と質量を誇るため、左右に取り付けられた巻き上げ機は大人三人が力を合わせてようやく動くほどの代物である。これを動かしたなら、たちどころに滑車が鎖を巻き上げるけたたましい音が鳴り響く。 そしてこれまでにそんな音は一度も聞こえてこない。だとすれば、跳ね橋が下りる前に忍び込んでいたのか、または何らかの方法で水堀を越えたのか……。 「隊長!」 そんな声に、ヴァレルは顔を上げた。駆け寄ってきたのは配下の兵士だ。その手には何か綱のようなものが握られている。 「薔薇園近くの城壁に、このようなものが!」 兵士が差し出したそれは鉤爪のついた縄だった。こんなものが城壁に取り付けられていたということは、やはり怪盗は城壁を越え、何らかの方法で水堀を渡ろうとしているに違いない。 「正門から外へ回れ! 決して怪盗を逃がすな!」 「はっ!」 隊長の命に、警備兵達が動こうとしたその時。 城壁の向こうから鈍い水音が響いてきた。それも、少し時間をずらして二度。 「まさか……!」 兵士達が顔色を変える。まだ春も浅いこの時期に、まさかこの堀を泳いで渡るなどという手段を取るとは思えなかった。しかし事実水音は聞こえ、しかも怪盗は王女を連れているのだ。 「城外の警備部隊に通達だ、急げ!」 「はっ!」 兵の一人がすぐさま笛を取り出して唇に押し当てる。甲高い警笛の音が闇夜を切り裂くように鳴り響き、すぐに城壁の向こうからも同じような笛での返答が返って来た。 「我らも行くぞ!」 「はっ!」 一斉に正門へと走り出す警備兵。彼らの装備で城壁を越えることは難しい。時間はかかるが、城の外に出るにはそれしか方法がなかった。 「なんとしても王女を取り戻すのだ!」 これだけの警備を敷いていながら怪盗を取り逃がし、そればかりかみすみす王女を連れ去られたとあっては、国王に合わせる顔がない。ヴァレルは悔しげに顔を歪めつつ、全力で正門を目指す。 (王女、どうかご無事で……!) しかし、近衛隊長ヴァレルはこの後、別の意味で国王に顔を合わせることが出来なくなった。 「大変ですっ!」 正門へと到着し、もうすぐ完全に降り切る跳ね橋を今か今かと待ち侘びていたヴァレルは、城内からこちらへ向かって走ってきた兵士の叫びに振り返った。 血相を変えてこちらにやってくるのは、国王の寝室近辺を警護する近衛兵の一人。そんな彼がなぜ、持ち場を離れてここにやってきたのか。 嫌な予感がヴァレルを襲う。それと同時に、息を切らした兵士はこう告げた。 「国王陛下が襲われました!」 驚愕の報告に、ヴァレルの顔からは一瞬にして血の気が引いていった。 |
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