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第二章[11]

「くそっ! 一体、どうなっているんだ」
 がんっ、と机に拳を叩きつける近衛隊長ヴァレル。王女が連れ去られ、そして国王もが何者かに襲われたというこの事態に、城内は騒然となっていた。
「守備隊に伝令。怪盗が城より逃げ遂せた。なんとしても奴を捕らえろ! 不審者は片っ端から詰め所へ連行するんだ」
「了解!」
「市門全てに通達! 警備と監視を強化しろ。猫一匹たりとも街から出すなと言え!」
「はっ! 直ちに」
 次々と命令を下し、また上がってくる報告を受けながら、ヴァレルは苛立ちを隠しきれずにいた。無意識に指で机を叩きつつ、続々と寄せられる目撃情報や状況報告に眉根に皺を寄せる。
(怪盗め……王女を連れ去るばかりか、国王までも……!)
 報告によれば、国王が襲われたと判明したのは闇の三刻を少し過ぎた頃だという。巡回の兵士が見つけたのは、国王の寝室付近で倒れ伏す警備兵の姿だった。
 そして、彼らが守っていた寝室の扉の向こうで、ヴァレリー三世もまた絨毯の上に倒れていた。
 急遽典医が呼ばれたが、幸いにして国王に怪我は見られなかった。ただ眠っているだけだと告げられてほっとする面々に、しかし彼はこう付け加えた。
 この眠りは、何をしても覚ますことが出来ない不可思議なものである、と――。

「隊長! ノレヴィス公爵がお見えになりました」
 兵士の報告に、ヴァレルは憔悴しきった顔で立ち上がる。すぐに扉が開き、入ってきた公爵はつかつかと彼の元へ歩み寄ってきた。その険しい表情に、ヴァレルも思わず息を呑む。
「近衛隊長、ローラ王女がかどわかされただけでなく、陛下が襲われたというのは本当か?」
「はっ……誠に申し訳ありません。奴の侵入を阻止できなかったばかりか、みすみす……」
 苦渋の表情で頭を下げる近衛隊長だったが、公爵はそんな彼の肩を叩いてみせる。
「起きてしまったことを悔いても詮のないことだ。それで、国王陛下の容態は……?」
 何と答えていいか一瞬口ごもるヴァレルの前で、公爵は苦悩の表情を浮かべていた。
「義兄上の身に何かあったら、私は何と言って王子に……」
 そこまで言って、はっと顔を上げる公爵。
「王子は、ロジオン殿下は無事なのか?」
 ロジオンは公爵の甥にあたる。まして、今は亡き姉の忘れ形見だ。その切羽詰った様子に、ヴァレルは慌てて頷いてみせる。
「はい。あの後すぐ兵を向かわせましたが、殿下はご無事でいらっしゃいました。あの騒ぎにもお気付きにならなかったようで、大層驚かれておりましたが」
「そうか。それは何よりだ」
 安堵の表情を浮かべる公爵に、ですが、と一言断りを入れてヴァレルは続ける。
「このことはまだ殿下にはお話しておりませんが、東の塔に配置しておりました警備兵も全て、眠りに就かされておりました。そればかりか、塔の入り口を守っていた兵士らは昏倒させられた後、縛られて物陰に放置されていた始末……」
「なんと……!」
 ヴァレルの言葉に公爵は目を剥いたが、すぐに気を取り直して再度尋ねてくる。
「して、殿下は?」
「お怪我は一切ございません。ですが、何やら眠りの術が掛けられているようでして……」
「眠りの術、とな? はて、何故……」
 と、廊下からけたたましい足音が響いてきたかと思うと、扉を叩く音がした。
「失礼いたします、ユーク分神殿の方がお見えになりました!」
「よし。こちらへお連れしろ」
 すぐに扉が開き、兵士の後に続いて入ってきたのはドゥルガー副神殿長だった。この時間だというのに眠たげな様子も見せず、神官服をきちんと着込んでいる辺りは、さすが闇の神に仕える者といったところだろうか。
 ユーク神殿に使いをやったのは典医の言葉によるものだった。彼は国王が何らかの術に掛けられていることを推測し、それがユーク神官が行使する眠りの術に極めて酷似していることを示唆したのである。
 闇を司る少年神ユークは、眠りをもたらす神としても知られる。そして、西の塔や国王の部屋、そして東の塔の渡り廊下で倒れていた兵士達の側に共通して落ちていたのは、眠りの術が封じられた呪符。これが用いられたということは、即ち……。
「失礼致します。お呼びにより参上いたしました、ユーク分神殿が副神殿長を務めますリヒャルト=ドゥルガーにございます。本来ならば神殿長が参るところ――」
 ヴァレルと公爵の姿を見て深々と一礼し、そう述べるドゥルガーを制して、ヴァレルは一足飛びに本題を切り出した。
「夜分に呼び立ててすまない。実は……」


「確かに、これは我らがユークの術に相違ありません」
 すやすやと寝息を立てる国王の横で、ドゥルガーは苦々しい口調でそう断言した。
 寝台に寝かされたヴァシリー三世。その寝顔はとても安らかで、傍目にはただ眠っているようにしか見えない。
 しかし、体を揺すろうが耳元で大声を出そうが、はたまた気付け薬をかがそうが、国王の目が開くことはなかった。
「ということは、お主等であれば解けるのだな」
 ほっと胸を撫で下ろすヴァレルに、ドゥルガーは首を横に振る。
「残念ですが、我らでは……。これは《死の眠り》と呼ばれる呪文と思われます。この術にかかった者は何があっても目を覚ますことはありません。やがては衰弱し、死に至る可能性も否定できま――」
 歯切れの悪いドゥルガーの返答に業を煮やして、ヴァレルはその胸倉を掴んだ。
「そこまで分かっていながら、なぜ術を解くことが出来んのだ!」
 ぐいぐいと上体を揺すられて、慌ててドゥルガーは弁解じみた言葉を紡ぐ。
「こ、これは禁呪指定された忌わしき術なのです。私も知識として知っているだけで、呪文はおろか術式すら分かりません」
「そんな危険極まりない術をユーク神殿は教えているというのか!」
「で、ですからこれは禁呪でして、いかに危険な術であるかを認知させるために術の存在自体は学びますが、その術式は極秘事項となっていて……」
 冷や汗を掻きながら弁明するドゥルガーに、公爵がそっと救いの手を差し伸べた。
「ヴァレル。彼を責めても詮無いことだ。ドゥルガー副神殿長、この術をかけた本人であれば、解くことは可能なのだね?」
「は、はい。この術を行使できるということは、解呪の方法も習得しているはずです」
 また揺すぶられてはたまらない、と早口に答えるドゥルガー。それを聞いた公爵はヴァレルに向かい、こう言ってきた。
「ならば話は早い。陛下にこのような術をかけた張本人を一刻も早く捕らえ、術を解かせればいいのだ」
「……それしかありませんな」
 呟くようにそう言って、ようやくドゥルガーから手を離すヴァレル。ドゥルガーは胸元に寄った皺を丁寧に撫でながら、恨みがましい眼をヴァレルに向けている。しかし彼はそんなことに気づくこともなく、次なる問題へと頭を巡らせていた。そんな彼に公爵は問いかける。
「ヴァレル。義兄上を襲い、王女を誘拐したのは同一の人物であると見て間違いないと思うが、どうかね?」
「はい。推測にしか過ぎませんが、国王が襲われたのを闇の二刻半過ぎと仮定し、王女がさらわれたのは闇の三刻ちょうど。移動時間や現場の状況、犯行手口の酷似から見て、犯人は同一人物である可能性が高いと言えましょう」
 そう答えながら、一方でヴァレルは気になる報告の真偽について、未だ悩んでいた。それは、東の渡り廊下で奴の姿を見たという兵士らの証言。
 ――私の見間違いでなければ、あれは――
 そんな証言を寄せたのは、ヴァレルも信頼を置く古株の警備兵だった。決して嘘偽りを言わない実直な男だ。それだけに、彼の告げた言葉は衝撃的なものだった。
 それは――。
「つまり、怪盗《月夜の貴公子》こそが王を襲った張本人と言うわけだ」
 そんな公爵の言葉が思索に耽っていたヴァレルを現実に引き戻す。
「そうなりますな」
 わざわざ口に出して確かめているような公爵に、気のない相槌を打つヴァレル。
「しかし、ユークの術を行使し、その呪符を使用したとなると、犯人は恐らくユーク信者、もしくはユーク信者に顔が利く人間ということになる」
 今回使われた「眠りの呪符」はあまり一般的ではない。使い方によっては今回のように悪用されかねないことから、ユーク神殿でも厳しく使用や供給を制限している代物だ。それをあれだけの枚数手に入れられる人間となると、かなり限られてくる。
「ドゥルガー副神殿長、そんな不心得者に心当たりなどないかね。ああ、勿論ユーク神殿を疑っているわけではないのだが……」
 口ではそう言っているが、公爵の表情は固い。何しろ昨年末の「影の神殿」騒動は記憶に新しく、その際にはドゥルガーが所属するローレングの分神殿にも内通者がいたという。それだけに、疑われるのは致し方ないことだろう。
 それを重々承知しているのか、ドゥルガーは公爵の言葉に反論することもなく、しばし無言で考え込んでいたが、ふと顔を上げ呟いた。
「……もしや……」
「心当たりがあるのか!?」
 息巻くヴァレルに、ドゥルガーは慌てて言葉を足す。
「いえ、その……確証があるわけではありませんので……」
 そうやって言葉を濁す彼を、公爵が穏やかに諭す。
「なんでもいい、今はとにかく情報が欲しいのだ。どんな些細なことでもいい、忌憚なく言ってみたまえ」
 その言葉に後押しされるように、ドゥルガーはおずおずと語り出した。
「……本神殿にいた頃、禁呪の記された本が紛失したことがありました。幸い犯人はすぐに見つかり、本は無事書架に返されたのですが」
 唐突に始まった昔語りに、ヴァレルが眉をひそめる。
「何が言いたい、副神殿長。今は貴殿の昔話を聞いているひ――」
「盗んだのは、ラウル=エバストという名の神官でした」
 ヴァレルの言葉を遮って、ドゥルガーはそう言い放った。途端にヴァレルと公爵、二人の顔が驚愕の表情に彩られる。
「何!?」
「どういうことだね? 彼は本神殿長の息子で、優秀なユーク神官だと聞き及んでいるぞ。それに彼は昨年の騒動を鎮めた立役者ではないか。それが、まさか……」
 その活躍を本人の口から聞いたのはつい数刻前のことだ。信じがたい、と目を丸くしている公爵とは対照的に、ドゥルガー、そしてヴァレルは沈痛な面持ちで口を閉じている。
 と、扉を叩く音が響いてきたかと思うと、ヴァレルが許可する前に扉が荒々しく開き、二人ほどの兵士が飛び込んできた。
 やってきた兵士らは、公爵や副神殿長の姿に動揺しながらも、礼を失したことを詫びる前に大声で報告する。
「失礼いたします! エバスト神官のお姿がどこにも見当たりません」
 決定的な事実に、ヴァレルは唇を噛んだ。

 東の渡り廊下で怪盗の姿を目撃したと言う兵士は、こう報告して来た。
『私の見間違いでなければ、あれはエバスト神官でした』
 聞いた時はまさか、と思ったが、事実彼の姿は城内になく、怪盗はいずこかへと姿を消した。
「くっ……よもや、あの神官が怪盗《月夜の貴公子》だったとは……!」
 とてもそんな人間には見えなかった。謙虚で礼儀正しい好青年、救国の英雄だと信じ切っていただけに、まさに裏切られた思いだった。
 そう思って考えると、こんな日を選んでやってきたことも不審極まりない。怪盗騒ぎとは全く関係ない素振りをして、まんまと城内に潜入を果たしたというわけか。
「いや、待て。影の神殿を壊滅せしめた彼が、まさかそのようなことを……。彼の名を騙った偽者と言うこともあり得るではないか」
 公爵の言葉に、ドゥルガーが首を横に振る。
「いえ、彼は本物でした。私はかつて本神殿で彼と共に学んでいた時期がありましたから、見間違えようもありません」
 そうして、ドゥルガーはラウル=エバストの人となりについて語り始めた。憎々しい表情で言葉を綴るドゥルガーに、それを聞いていた公爵やヴァレルの表情が段々と険しくなっていく。
 そうして、彼が北大陸に左遷されてきた経緯までを語り終えたドゥルガーは、最後にこんな言葉で彼を評した。
「奴は、生まれながらにして罪人となる宿命を背負った男なのです」
 吐き捨てるようにそう言い切ったドゥルガーの肩に手を置き、そして公爵はヴァレルに命じた。
「ヴァレル、早急に奴を指名手配しろ。国王を襲い、王女を誘拐した怪盗<月夜の貴公子>としてな」
「はっ!」
 すぐさま扉の前で待機していた兵達に指示を下したヴァレルは、ふとドゥルガーを振り返る。
「副神殿長殿。奴の行き先について、何か心当たりなどはありませんかな」
 答えなどは期待していなかったが、今は少しでも手がかりが欲しかった。ドゥルガーはその問いかけに残念ながら、と首を振りかけて、はたと動きを止める。
「そう言えば、連れが宿に逗留しているとか……」
「どこの宿だ!?」
「え、ええ、確か『幻獣の尻尾亭』と――」
「ヴァレル、直ちに守備隊を向かせたまえ。奴を捕らえられずとも、何らかの手がかりは得られるはずだ」
「はっ!」
 答えるが早いか部屋を飛び出していくヴァレルを見送って、公爵は小さく息を吐いた。
「連れがいたとは、初耳だったな」
「申し訳ありません。奴から、今夜は王城に留まる旨の伝言をと頼まれていたのですが、今の今まで失念しておりまして……」
 畏まるドゥルガー。連れと言ってもどうせろくな輩ではないだろうと高をくくり、伝言を頼まれたことすら忘れていた。しかし、今となってはむしろ好都合だ。
「まあよい。しかし、大した道化ではないか。まさかここまで事態をかき回してくれるとは思ってもみなかった。敵ながら天晴れ、というところか」
「は……」
 どこか楽しげな響きを伴った公爵の言葉に、こちらは憮然とした表情で答えるドゥルガー。そして、役目は終わったと言わんばかりにさて、と呟き、椅子の背に投げてあった外套を取り上げた。
「申し訳ありませんが、そろそろ戻りませんと……」
「ああ、そうだな。神殿長によろしく伝えてくれたまえ」
 深々と頭を下げ、部屋を辞するドゥルガー。扉が完全に閉まったのを見届けて、ノレヴィス公爵は近くに置かれていた椅子へと腰を降ろした。
 真正面の石壁には、小さく切り取られた窓。僅かに差し込んでくる美しい月光に、公爵は目を細める。
 その瞳に滾るのは、あからさまな憎悪の色。表面上は凪の如く穏やかでありながら、その奥には燃え盛る炎のような感情の揺らぎが満ち満ちていた。
「満月、か……。月は人の心を惑わすという。……まさに、あの女そのものだ」
 呟かれた言葉は誰の耳にも届くことなく、漆黒の夜空へと吸い込まれていった。

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