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第二章[14]

 ギィ、と扉がきしむ音がして、男は鍋をかき回す手を止めた。
 途端に酒場から漏れて来る賑やかな声。夜中をとうに過ぎているというのに、この店の灯が落ちる気配はとんとない。
「シルビアか。どうしたね」
 細く開けた扉からするり、と滑り込んできた人物に、男は気さくに声をかける。
「うん、ちょっと暖かいものが欲しくて」
 胸元を大胆に開けた薄手の服。派手な化粧に安物の香水の匂いをまとった彼女は、小さく身震いをして肩掛けを掻き寄せた。四の月も終わりとはいえ、まだ夜は冷える。
 そんな彼女を見て、男は手早く温かい飲み物を作り始めた。彼女が好むのは、暖めた牛乳に蜂蜜を加えたものに、葡萄から作った蒸留酒をほんの数滴垂らしたもの。氷を利用した保管庫から牛乳の瓶を取り出して小鍋に注ぎ込みながら、男は厨房の壁に寄りかかってこちらを眺めている彼女へと声を掛ける。
「なんだい、今夜はもう終いかい?」
 彼女らにとって、まだ夜は始まったばかりだ。いつもならこんな時間に厨房へ顔を出すことなどない彼女は、苦笑を浮かべて答えた。
「例の怪盗騒ぎで客足落ちてるからねぇ。下手に夜出歩くと守備隊に捕まるってんで、お客さん達も迂闊に足を運べないみたい。来ても早々に帰ってっちゃうのよ」
 とんだ営業妨害よね、と憤慨してみせながらも、彼女の顔は笑っている。その言葉に相槌を打ちながら、男は蜂蜜を溶かした牛乳を陶器の器に移し変え、蒸留酒を垂らした。とろりとした乳白色の上に、琥珀色の雫が落ちる。
 漂ってくる香りに目を細めながら、ふと彼女は話題を変えた。
「さっきから、なんだか外が騒がしくない?」
「ああ、守備隊が走り回ってる。城の方で何かあったみたいだな」
 そう答えつつ、ほらよと暖めた牛乳を差し出してくる男に、肩をすくめながらそれを受けとって彼女はぼやいてみせた。
「やだやだ、あんな怪盗なんかに振り回されちゃって、みっともないったら」
「そう言うなよ、守備隊だって必死なんだろうし。第一――」
 と、不意に二人は口を噤んだ。
 そっと目で合図をし、少し離れた勝手口を凝視する二人。
 次の瞬間。こんこんこん、と勝手口を叩く音が厨房に響いた。
 顔を見合わせる二人。そして先に口を開いたのは彼女の方だった。
「……だあれ?」
 小さく尋ねながら、彼女の右手は髪に挿したかんざしを素早く引き抜いている。返答次第では容赦はしない、と息を呑む彼女に、しかし返ってきた答えは
「……『眠り猫』の紹介、って言えば分かるか?」
 低く、押し殺した声。しかし彼女の鋭敏な耳はそれをきちんと聞き分けた。
 どうする、と言いたげな男に頷いて、勝手口へと走る。鍵をもどかしげに外し、勢い込んで開けた扉のその先には、見覚えのある顔が待っていた。
「あらまあ」
 わざとらしく目を丸くするシルビアに、ラウルはよぉ、と片手を挙げてみせた。
「悪いが、中に入れてもらえるか?」
「勿論よ。でも……」
 ひょい、とラウルの後ろを見やって、シルビアは意地の悪い笑みを浮かべる。
「うちは連れ込み宿じゃないんだけど?」
 途端にラウルの顔が歪んだが、彼が文句を言う前に、
「神官、連れ込み宿とはなんだ?」
 ラウルの後ろで首を傾げる少女の言葉に、シルビアは小さく吹き出し、ラウルは怒鳴りそうになるのをぐっと堪え、そして厨房の中から一部始終を見守っていた男はやれやれ、と肩をすくめた。
「シルビア。こりゃまた、とんだ厄介事を抱え込んだようだな」
「そりゃあ、長の紹介だもの」
 あっさり答える彼女に、男はさもありなん、と苦笑を浮かべる。そしてシルビアは勝手口に佇む二人へ向かって、芝居がかった調子で一礼してみせた。
「ようこそ、『ローラ国盗賊ギルド』ローレング支部へ!」


 質素だが居心地よく整えられた部屋。壁には柔らかな色合いの絵画や織物が飾られ、片隅には観葉植物までもが置かれている。地下とは思えないくらいに明るいのは、壁のあちこちに掛けられた角灯のおかげだ。どうやら普通の角灯ではないそれは、まるで真昼の太陽のような白い光で部屋を照らし出していた。
 そんな明るく雰囲気のよい部屋で、長椅子に腰掛けた王女はキョロキョロと辺りを見回して呟いた。
「ここが盗賊ギルドか。想像していたのと随分違うな」
 そんな言葉に、盆を手にやってきたシルビアがくすくすと笑う。
「あたしは暗いのあんまり好きじゃないからね。はいどうぞ。暖まるわよ」
 机の上にお茶の器を並べ終えて、シルビアは彼らの真向かいに腰掛ける。その後ろには数人の人間が立ち並んでいた。その中には先ほど厨房で会った料理人らしき男もいて、彼らはまじまじとラウルや王女を見つめている。こそこそと囁き合う彼らの会話には「王女」や「本物」という単語が混じっていて、改めて隣に座る少女の知名度の高さに驚かされた。もっとも、あれだけ世間に肖像画が出回っていればそれも当たり前のことか。
 余りに不躾な視線に居心地の悪さを感じるラウルだったが、隣の王女といえば全くそんな様子も見せずに、逆に彼らを物珍しそうに見回している。
「で?」
 自ら運んできたお茶を一口すすってから、シルビアは言葉短く切り出した。
「で、と言われてもな……」
 何から話していいものか、逡巡するラウルに代わって、王女が口を開く。
「私が怪盗《月夜の貴公子》だ」
「おいっ!」
 慌てるラウルを尻目に王女は続けた。
「盗賊ギルドの面々にまみえることが出来て、嬉しく思う。今まで見て見ない振りをしていてくれたのだろう? 感謝している」
「なに?」
 首を傾げるラウル。しかしシルビアは王女の言葉に苦笑いしつつ、頷いてみせた。
「王女様から感謝される盗賊ギルドってのもおかしなもんだけどね。まあ、最初はあたし達も、シマを荒らしてる不届き者はどこのどいつだと思ってたけど、調べてみたら王女その人じゃない。何か訳ありみたいだったし、下手に接触しない方がいいと思ってね。放っておいたわけ」
 その言葉を聞いてようやくラウルも納得がいった。言われてみればそうだ。これだけの都市となれば、裏に盗賊ギルドの存在がないわけもない。それが、ギルドの管轄内で勝手な盗みを繰り返す怪盗《月夜の貴公子》に対して何らかの手を打たないはずはないのだ。
 そこまで分かって、ラウルは憮然とした表情を浮かべてシルビアを見る。
「分かってて、からかいやがったな」
 昼間、《月夜の貴公子》が黒髪だと教えてくれたその口で『もしかしてお兄さん、その怪盗なんじゃないの?』などと言ってのけた彼女。しかしあの時すでに、彼女は怪盗の正体を知っていたのだ。
「ごめんなさいねぇ。だって、あの時はまさかあなたが卵神官さんだなんて思わなかったんだもの」
「その名前で呼ぶなっ!」
 そう怒鳴ってから、ふとラウルはシルビアを訝しげに見つめた。
「なんでそれを知ってる?」
 昼間、何も知らずにこの店へ来た時には名前しか名乗らなかったはずだ。そもそもラウル自身が「卵神官」などという不本意な二つ名を名乗ることなど絶対にない。
 そんなラウルに対し、シルビアは当然でしょ、と言いたげな顔で言ってのけた。
「年末の事件の時、長があなたに全面的な協力を申し出たでしょ? あの事件が終わってすぐに、支部全てにお達しが来たの。あなたが困ってたら協力するようにってね。どうせなら人相書きも回してくれれば良かったのよ。そうすれば、最初に会った時すぐ分かったのに」
「やめてくれ……」
 自分の人相書きがローラ国中の盗賊ギルドに貼られているところを想像し、顔を引きつらせるラウル。それではまるでこっちが犯罪者のようではないか。
 そんなラウルを面白そうに眺めていたシルビアだったが、ふと表情を引き締めると、二人を真っ直ぐに見据え、そして口を開いた。
「何はともあれ、『ローラ国盗賊ギルド』ローレング支部へようこそ。あたしはこの支部を任されている『銀狐』。どうぞお見知りおきを」
 その言葉におや、と眉を動かすラウル。
「あんたが、ここの支部長?」
「そ。見えないでしょう?」
 そう言って妖艶に笑ってみせるシルビアは、その言葉の通り、とても盗賊ギルドの支部を纏め上げるような女傑には見えなかった。少々間延びした口調や気だるげな所作からしてまずそぐわない。俊敏さが要求される盗賊稼業に手を染めているようには到底見えないのだが、
(……ま、あの糸目親父がギルド長だってんだからな)
 "人は見かけによらない"という言葉をもっとも体現している人物を思い浮かべ、心の中でこっそりとため息をついたラウルは、渋々といった様子で口を開いた。
「ラウル=エバストだ」
 名乗られたからには名乗り返すのが礼儀というものだ。短いラウルの自己紹介に、王女が続く。
「ローラ国王女、ローラ・セシリエ・アレクサンドラ=レジナ。正式名はもっと長いのだが……」
 名乗るか? という王女にやめろやめろと手を振って、ラウルはようやく、ここにやってきた目的について切り出した。
「ところで、王城での騒ぎはここまで届いてるか?」
「ええ。怪盗《月夜の貴公子》が王女をさらって城から逃げた、程度にはね。守備隊があちこち走り回ってるわよ」
 ご苦労なことだわ、と呟いて、シルビアは続ける。
「でも実際は、王女ローラこそが怪盗《月夜の貴公子》だったと。で、なんであなたが一緒にいるわけ?」
 その問いかけに、ラウルは渋面でこれまでの経緯を掻い摘んで話す。要するに偶然巻き込まれたのだと分かって、シルビアは思わず笑い出しそうになったが、ラウルがものすごい形相で睨んできたので慌ててすまし顔を取り繕い、そして改めて尋ねた。
「で? 一体どうしたいの?」
「首都から出たい」
 端的な答えに首を傾げるシルビア。
「どこへ行く気? 大体、あなたは濡れ衣を着せられたわけでしょ? その汚名を雪ぐ方が先じゃないの」
 もっともなシルビアの言葉に、ラウルよりも先に王女が俯いた。そんな彼女の様子を横目にラウルは、大仰に肩をすくめてみせる。
「乗りかかった船だ、仕方ないさ」
 はっと顔を上げ、隣の青年を見る王女。そんな彼女には構わずに、ラウルは真剣な表情でシルビアを見つめる。
「あんた達に迷惑を掛けるつもりはない。ただ、首都から出る方法を教えてもらえればいい。あとは何とかする」
 そんなラウルをしばし黙って見つめていたシルビアだったが、ふと息をつく。
「……いいわ。とにかく、ローレングから出してあげればいいのね」
「ああ」
「ならお安い御用、と言いたいところだけど、せめて夜が明けるまで待った方がいいわ。こっちにも準備が必要だしね。この部屋は自由に使ってくれて構わないから、しばらく休んでいてちょうだい」
 そういうが早いか、後ろに控えていた者達を従えて部屋を出て行くシルビア。廊下へ向かうその間にも、てきぱきと彼らに用事を言いつけていく。
 そんな彼女の姿が扉の向こうに消えたところで、ふう、とラウルは大きくため息をついた。
「とりあえず、なんとかなったか」
 まだ何の問題も解決していないとはいえ、ひとまずの危機は脱したわけだ。そう思った途端にどっと疲れが襲ってきて、長椅子の背に頭を預けるラウル。
 そんな彼の様子を横で見つめていた王女は、意を決したように口を開いた。
「神官」
「あ? なんだよ」
「……巻き込んで、すまなかった」
 顔を上げずに答えるラウルに、王女は謝罪の言葉を口にする。しかしラウルは、ひらひらと手を振ってそれをいなした。
「もういい。謝られたところで、状況が好転するわけじゃないしな。まあ、あんなところをうろついていた俺も悪いわけだし」
 その言葉に、弾かれたように王女はラウルを見る。
「そうだ! なぜお前があそこにいたんだ。いや、そうじゃないな。あそこに、赤毛の侍女はいなかったか?」
「侍女? ……いや、人っ子一人いなかったぜ」
 そう問われて、ふとラウルもまたとあることを思い出した。
「そうだ。俺も聞きたい。俺は呼び出されたんだ。とある高貴な女性が東の渡り廊下で待ってる、なんて伝言をもらってな」
 途端に眉をひそめる王女。
「……どういうことだ?」
「さあな。ともかく、俺は呼び出されてあの場所に行った。そこには誰もいなくて、からかわれたもんだと思っていたらあんたが上から落っこちてきた」
 そのあまりにも突拍子もない登場の仕方に度肝を抜かれたものだが、そう言えば彼女はあの時、ラウルではない誰かに文句を言ってはいなかったか。
 訝しげな視線を送ってくるラウルに、王女は頷いてみせる。
「私はあの時、西の塔から脱出してきたんだ。私が塔の兵士達を呪符で眠らせて塔を出る間に、侍女のメアリアが逃げる手はずを整えて、あの場所で待っているはずだった」
 いかに強固な城で、万全の警備体制を整えようとも、それは外からの侵入者に対するものだ。内側から切り崩せばこれほど脆いものはない。しかも、それを行ったのは守られる立場の王女その人である。
 闇の四刻の鐘が鳴るのを合図に、わざと悲鳴を上げて兵を引きつけ、あらかじめ用意していた呪符で眠らせた。廊下の天井にも仕掛けられていた同じ呪符は時間で発動するようにしてあったから、あっという間に塔の内部は眠りの術で前後不覚に陥った兵士で溢れ返り、その中を悠々と歩いて塔を脱出した。
 あとは簡単だ。何しろこの城で生まれ育った彼女である。どこが警備の死角になるか、どこが近道かは誰よりも熟知していた。抜け道のある中庭へ向かうには警備の薄い東の塔から行くのが最善と考えた彼女は、それでも数人は配備されているはずの警備兵を呪符で無力化することを侍女メアリアに頼んだ。
「そういや、あそこには警備兵が一人もいなかったな……」
 あれだけ警備が厳重だった西側と違い、東の塔には一人の警備兵も立っていなかった。それは、今考えれば不自然極まりない状況だ。
「メアリアがやってくれたんだ。それなのに、一体……」
 実の姉とも慕う侍女が待っているはずの場所にいたのは、この黒髪の神官だった。そして成り行きに任せここまで逃げてきたが、メアリアは無事でいるのだろうか。あの場にいなかったということは、よもや何かあったのだろうか。
「そいつと一緒に逃げてくるつもりだったのか?」
「いや、違う。違うんだが……」
 もともと、メアリアは城に残る手筈だった。王女はともかく、その場にいないはずの侍女が共に姿を消すというのはあまりにも不自然だ。だからメアリアには城に残ってもらい、そして仕上げとも言うべき重要な役割を任せた。それが果たされないことには、この神官の汚名を雪ぐことはおろか、父や城の人間、そして守備隊にいらぬ迷惑をかけ続けることになってしまう。
 沈痛な面持ちで黙り込んでしまった王女に、ラウルは何も言わずただ小さく息を吐いた。
 事情が分からないだけに、下手に慰めの言葉など掛けられない。第一、慰めて欲しいのはむしろラウルの方だ。
(……どうしてまた、俺ばっかりこんな目に……)
 心の中で愚痴るも、答えなど返ってくるはずもない。仕方なくふかふかの長椅子から頭をもたげ、横で俯く王女を見やる。
 揃えた膝の上で固く拳を握り締め、唇をぎゅっと閉じて動かない少女。紅茶色の髪に隠されてその表情を見ることは出来ない。
 しかし、それも束の間のこと。
 すぐにぐい、と顔を上げた彼女は、その勢いのままに立ち上がり、ラウルに向き直る。
「神官」
「なんだよ」
「……私は、無力だ。それを今、痛烈に感じている。無関係なお前を巻き込んでしまい、あまつさえお前の仲間にまで迷惑をかけているかもしれないのに、何も出来ないでいる。それどころか、首都から出ることさえかなわずに、お前に手間をかけさせてしまった……」
 淡々と言葉を紡ぐ少女。押し殺した声からは、自分の無力さを悔やむ思いがひしひしと伝わってくる。
「それでも、私は行かなければらない。だから、身勝手と承知で頼みたい。今は何も告げることは出来ない。しかし、全てが終わったら、何もかも話すと約束する。だから、神官。もう少しだけでいい。私に手を貸してくれないか」
 輝く紫の瞳に真っ向から見つめられて、ラウルはやれやれ、と肩をすくめる。
「俺に選択の余地なんてないと思うんだが」
「そんなことは――」
「ないわけないだろう。嫌だ、俺は勝手にやらせてもらうと言ったところで、奴らは俺を怪盗だと信じ込んで追いかけて来るんだろうからな。ああ、もっともその方があんたには都合がいいか。俺が奴らの目をひきつけている間に、あんたは悠々と目的を果たせるってなもんだ。そうか、それで連れてきたってわけかよ」
 その言葉を聞いた瞬間、王女の瞳に怒りが迸った。
「そんな姑息な手段をとるために巻き込んだわけではない! 私はっ……」
「だから、俺はあんたについていく」
 憤る王女の言葉を遮って、ラウルは宣言した。途端に目を丸くして口を閉ざす王女。そんな彼女を見て、にやりと笑ってみせる。
「俺や仲間にかけられた嫌疑をきっちり晴らしてくれなきゃ困るからな。それが果たされるまでは、例えあんたが嫌と言ったってついてくぞ。いいな」
「神官……」
 強張っていた王女の表情が、ゆっくりと和らいでいく。そして、最後には零れんばかりの笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「ああ! ついてきてくれ、神官!」
「その神官っていうのはやめてくれ。ラウルでいい……って、そういやあんた、どうして俺のこと知ってるんだ」
 今まで当たり前のように聞き流していたが、あの宴の席に出てこなかった王女がラウルの顔を知っているはずもない。
 眉をひそめるラウルに、王女は至極当然という顔で言葉を返す。
「どうしても何も、その格好で通りすがりの行商人だとでも言うつもりか?」
 そう返されてぐっと詰まるラウル。確かに、彼は黒い神官服に身を包んでいる。宴の際に着替えを、と言われたのを丁重に断って、それから今の今まで着慣れた神官服のままだった。
「それに私は城に仕える者の顔と名前なら大体覚えているんだ。その私が見覚えない顔とくれば、今日城に招かれた件の神官だと考えるのはおかしくないだろう?」
 えっへんと胸を張って、そして少女は改めてラウルに笑顔を向ける。
「そして、私の推測は当たっていた。違うか?」
「まあ、そういうことになるな」
「ならば私は、最高の味方を得られたわけだ」
 妙に力の入った言葉に王女を見上げると、彼女は瞳をきらきらと輝かせてこちらを見ているではないか。
「あの『影の神殿』を打ち破った勇者、『卵神官』ラウル=エバスト! お前が手伝ってくれるのなら、百人力だ!」
 さも嬉しそうに言い放つ王女に、ラウルはその場でがっくりと肩を落とした。
「……やめてくれ」
 うなだれるラウルの様子に、王女はきょとん、と首を傾げる。
「どうした? 私は精一杯褒めたつもりなんだが」
「どこがだ! 力いっぱい罵倒された気分だぞっ。大体なあっ……」
「しかし、メアリアから聞いていたのと随分雰囲気が違うから、最初は別人かと思ったぞ。それがお前の素顔というわけか」
 何気ない王女の言葉に、沸き立った怒りがさぁーっと引いていく。
 あまりの出来事にすっかり忘れ果てていたが、ここにいるのは時期女王とも噂されるローラ国の王女だ。そのローラに対して自分は、出会ってからずっと、余りにもぞんざいな口調で接してはこなかったか。
(……ま、今更だな)
 そもそも、あんなところから降ってきた彼女が悪い。そう勝手に決め付けて、ふんと鼻を鳴らす。
「噂通りじゃなくて悪かったな」
 ところが、対する王女の答えは予想だにしないものだった。
「何を言う。そっちの方がよほどいい! とてもお前に似合っている」
 真面目な顔で力説されて、思わず目を瞬かせるラウル。そして王女はふ、と自嘲めいた笑いを浮かべ、更に言ってきた。
「そっちこそ、巷で噂の王女がこんなで、幻滅したのじゃないか」
 どうやら自覚はしているようだ。やれやれ、と椅子に腰掛けなおし、まあなと呟くラウル。
「幻滅とまでは言わないが、驚いたことだけは確かだな。しかし何でまた、王女が盗賊の真似なんかした? あたかも自分が誘拐されたように取り繕ってまで城を出て、一体どこへ行く気だ。幾らなんでも、そのくらいは教えてくれたっていいだろう?」
「そう、だな……」
 そう呟いて、王女は瞼を伏せる。閉じられた瞳の奥に映るのは、三年前の空。血のように赤い夕焼けは、今もなお彼女の心に鮮明に焼き付いている。
 夕日に赤く染まった部屋で交わした、一つの約束。涙を浮かべて頷いた娘にそっと微笑んで、母は逝った。
「とある村へ行く。そして、私の誕生日までに城へ戻る。それが、亡き母上との約束なんだ。だから、私はそれを果たしに行く」
 三年前に死去した第二王妃ソフィア。彼女が死の淵で娘と交わした、それは最初にして最後の約束。
「……城の誰にも悟られないように、そして必ず誕生日までに父上のもとに戻ること。それを言い残して母上は亡くなった。その村に何があるのか、なぜその村へ行かねばならないのか、私は何も知らない。それでも、私は行かねばならない」
 無意識に握り締めた硬い拳が、彼女の決意を表していた。
(なるほど、な)
 そういう理由があるのなら、王女のこれまでの無茶も納得がいくというものだ。父王に溺愛されている彼女が極秘裏に城を出るには、こんな強硬手段を取るしかなかったということか。
「あんたの誕生日って、いつなんだ?」
「六の月三十日だ」
 ってことは、と指折り日数を数え、嘆息するラウル。
「二月ちょい、か。で、その村ってのはどこにある?」
「北の氷原近くだ。私の計算では、二月あれば十分に往復できる距離なのだが」
 そう言って王女は腰の袋から折りたたまれた地図を取り出し、茶器を押しのけて机に広げる。
「ここが今いるローレング。ここが目的地だ。といっても、小さい村らしくてこの地図には載ってない」
 ローラ国全土を記した地図には王女が書き込んだらしい距離や移動日数が小さく記されている。それを信じる限り、その村がある北の氷原付近までは片道二十日といったところか。往復で四十日、確かに十分間に合う計算だ。
 しかし、ラウルは渋面を作って言葉を返す。
「そう簡単に行くか? あの様子じゃ、明日にでも国中に緊急配備が敷かれそうな勢いだぞ?」
 そうなれば主要街道は使えない。となると、どうしても回り道をせざるを得なくなる。目算通りに行くとは到底思えなかった。
 しかし、不安げなラウルをよそに王女は、
「なに。何とかなるさ」
 と妙に余裕綽々だ。この根拠のない自信はどこからやってくるのだろう。
「きっと何とかなる。私はそう信じてる」
「……言ってくれるぜ」
 どうにも楽天家らしい彼女の言動には、最早呆れるを通り越して笑いがこみ上げてくるほどだ。しかしまあ、ここで先の心配をしていても仕方がないのは確かである。
「何はともあれ、まずこの首都から脱出しないことにはな。となれば、準備が整うまでせいぜい体を休めておくとするか」
 そう言って長椅子から立ち上がると、ラウルは部屋の隅にあった一人掛けの椅子にどっかりと腰を下ろした。
「今のうちに寝ておけよ。いつ動くか分からないからな」
 そう言って長椅子を指すラウルに、王女はしかし首をぶんぶんと横に振る。
「寝られるわけないだろう、こんなにわくわくしているっていうのに!」
「わくわくだぁ!?」
「そうだ! これが冒険というものだろう! 本で読んだのと同じだ! ああ、胸がドキドキして、今にも張り裂けそうだ!」
 ついさっきまでしょげていたかと思えばこれだ。
 あれほどの決意を口にしておいて、同じ唇でどうしてこんな呑気な台詞が吐けるのか。物見遊山の旅ではないのだ、守備隊の目を掻い潜り、北の果てまで旅をすることがどれだけ大変なことか、分かっているのだろうか。第一、王女たるものが冒険に胸ときめかせてどうする。
 ……等々、言いたいことは山ほどあったが、それらをぐっと飲み込んでラウルは呟いた。
「お前なあ……」
 一体どういう育て方をしたらこんな王女が出来るのだろう。頭を抱えるラウルの耳に、ふと部屋の外から騒がしい物音が響いてきた。しかも、それは明らかにこの部屋へと向かってきている。
「なんだ?」
 無性に嫌な予感がして、ラウルは椅子から立ち上がった。いつでも動けるような体勢で扉を凝視し、やってくる何かを待ち構える。
 そして。
「あっ、こらっ!!」
「そっちは駄目だって……ぅわ!」
 焦りと困惑のこもった怒鳴り声と、けたたましい足音。それらが扉越しに聞こえてきた、次の瞬間。

「らうっ!!」

「いっ……!」
 勢いよく開いた扉の向こうから飛び込んできたのは、緩やかにうねる金の髪。
「お前っ、なんでここにっ……」
「らうっ!」
 床を蹴り、ふわりと宙を舞ってラウルの腕の中へと飛び込んだ少女。咄嗟にそれを抱きとめて、ラウルは間近に迫ったその顔を覗き込む。
 淡い金髪に澄んだ緑の瞳。無邪気なその笑顔。たったの半日しか離れていなかったのだ、見間違えるはずもない。
 そう、それは紛れもなく、光の竜ルフィーリであった。
  
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