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第二章[15]

 時は少々遡る。

 人気のない街角を、一人の少女がとぼとぼと歩いていた。
 太陽の光を紡いだかのように眩い白金の髪を揺らし、素足のまま石畳の上を彷徨うその少女は、不安げな表情で辺りを見回しながら、ひたすらに歩き続けている。
「らう、どこぉ?」
 見知らぬ街の、見知らぬ通り。地面に伸びた建物の影はどこまでも暗い。不気味なその形はまるで獣の顎のようで、背中を見せたら途端に襲い掛かってきそうな、そんな錯覚さえ覚える。
 真夜中をとうに過ぎ、辺りはしん、と静まり返っている。それまで日の光の下で暮らしていた少女にとって、そこはまさに恐怖と不安に満ちた世界だった。
「らうぅ」
 ふと見上げる夜空には煌々と輝く月。降り注ぐ光は冷ややかに、彼女のあどけない横顔を照らし出すばかり。
 ――と。
 不意に少女は表情を硬くした。
 鋭敏なその耳が、遠くから聞こえてくる喧騒を捉える。人の声、足音。ひどく焦った様子で街中を駆け抜ける人々の気配。そのうちの幾つかは、彼女のいる場所へ向かってきているようだった。
 見つかってはいけない。それは咄嗟の判断というよりは、直感に近いものだった。
 慌てて駆け出す少女。軽い足音が誰もいない通りに響く。
「らう〜!」
 坂を上り、階段を下り、いくつもの通りと広場を抜けて、少女は月下の街を彷徨い続けた。

* * * * *

 視界に飛び込んできた「光」に、彼は思わず足を止めた。
 淡い光をその身に纏い、ふわり、ふわりと夜の街を駆け抜けていく小さな人影。
(なんだ……?)
 次第に近づいてくるその姿に、眩しそうに目を細める。どこかの精霊使いが気紛れに呼び出した光の精霊かと思いきや、よくよく見ればそれはきちんと実体を持った、一人の子供だった。光を帯びているように見えたのは、月明かりを反射して輝く黄金の髪がそう錯覚させたのだろう。
 それが分かったところで、通りの向こうから息せき切って走ってくるその姿に改めて眉をひそめる。すでに真夜中を過ぎている。子供が起きているような時間でも、ましてや外を出歩くような時間でもない。
 訝しげにじっと目を凝らした彼は、次の瞬間小さく息を飲んだ。
(あれは!)
 咄嗟に建物の影に身を隠し、近づいてくる人影をそっと伺う。それは、年の頃で言えば五つか六つほどの少女に見えた。白い服に身を包み、まっすぐにこちらへと向かってくる。
 固唾を呑んで見守る彼の目の前で、少女はぴたり、と足を止めた。気づかれたかと一瞬身を固くしたが、どうもそうではないらしい。
「らう〜?」
 幼い声が辺りに響く。誰かを呼んでいるのだろうか。少なくとも、こちらには全く気づいた様子がない。
「らう〜」
 きょろきょろと辺りを見回し、落胆した様子で俯く。かと思えばすぐに顔を上げ、耳を澄ますような仕草をする。そんな、まるでかくれんぼをしている子供のような所作に、彼はますます疑念と、そして好奇心を募らせた。
(どういうことだ……?)
 しばし少女の様子を見つめていた彼だったが、少女が途方に暮れたように夜空を見上げたところで、意を決して月明かりの下に一歩踏み出した。
 夜風に揺れる濃紺の外套。目深に被った帽子は顎から上を完全に覆い隠してしまっている。唐突に現れた男の姿に、少女はびくっと身を震わせたものの、それ以上の怯えは見せずにじーっとこちらを見つめてきた。その双眸は、まるで新緑の森を写し取ったかのように鮮やかな輝きを湛えている。
「だあれ?」
 たどたどしい問いかけ。それが唇から紡がれた音であることもまた、彼を驚かせる。
 しかし彼はつとめて穏やかに、少女へと答えた。
「私はネシウスだ」
 そう言いながら帽子を取り、流れ落ちる青灰色の髪を風に遊ばせる。月明かりに晒されたその顔は抜けるように白く、輝く瞳は青とも緑ともつかない深い色合いをしていた。
 闇の中に浮かび上がるその姿に、さてどんな反応が返ってくるかと思いきや、少女は少しだけ考えるような仕草をして、ぱっと笑みを浮かべた。そして自らの顔を指差し、得意げに口を開く。
「るふぃーり!」
 嬉しそうに名前を告げる少女に、彼は思わず目を見開いた。
(これは、どう見るべきか……)
 かなり予想外の反応に困惑している彼に対し、たたたっと足取りも軽く駆け寄ってきた少女は、円らな瞳で問いかけてくる。
「らう、どこぉ?」
「ら、う?」
 意味不明の単語に目を丸くするネシウスに、少女は大きく頷く。
「るふぃーり、らう、さがしてる。らう、こっち、いる。でも、いないの」
 まるで子供のような喋り方に戸惑いながら、しかしネシウスはなるほど、と呟いた。
「その者を探してここまで来たのか。でも、見つからないのだな」
 そうそう、と頷く少女に、ネシウスはすぅ、と目を伏せた。意識を凝らし、辺り一体を『探る』。すると、すぐに少女の言わんとしていることが分かった。
(なるほど、結界か。対魔術、対精霊術双方の結界を張っているとは、ご丁寧なことだ)
 静かに目を開いたネシウスは、目の前に立つ少女へと視線を移した。
 無邪気にこちらを見上げてくる少女は、ネシウスに対して全くと言っていいほど警戒心を抱いていないように見受けられる。
(演技……ではないな)
 彼を油断させるための芝居にしては稚拙すぎる。それどころか、彼女は余りにも無防備だ。しかもそのことに気づいてすらいない。ただ世間知らずなだけなのか、それとも……。
(面白い……が、危険だな)
 事情が分からないまま深入りすることはさすがに憚られた。しかし、このまま放っておくにもいかない。
 少女は、あまりにも小さかった。彼が思わず手を伸べてしまうほどに、小さかったのだ。
「その者のもとまで案内しよう」
 そう申し出ると、少女はぱぁっと顔を輝かせた。
「らうっ! ありがとう♪」
 見ず知らずの人間の言葉を疑いもせず、少女は嬉しそうに彼の差し出した手にしがみつく。
 そんな様子に戸惑いつつも、ネシウスは少女の手を引いて歩き出した。

 何かあったのだろうか、あちこちを守備隊が奔走する中、それらを巧みに避けて歩を進める。この少女のためにも、そして自らのためにも、ここでの面倒事は極力避けるべきだ。
 時には不可思議な力を使って彼らをやり過ごすネシウスに尊敬の眼差しを向けてくる少女。そんな態度に困惑しながらも、彼はようやく目的地に辿りつき、足を止める。
「ここだな。この建物の地下にいるはずだ」
 そう言って彼が指し示した建物は、赤紫色の縁取りがされた派手な看板を掲げていた。玄関は固く閉じられ、灯りも消されていたが、中からはかすかに人の気配がする。
「らう!」
 喜び勇んで扉に突進する少女だったが、勿論扉には鍵がかかっている。ネシウスが制止する暇もなく、ばんっと派手な音を立てて扉に激突した少女は、玄関前にこてんとひっくり返った。
「いたぁ」
 顔を押さえて立ち上がる少女に呆れつつ、ネシウスはそっと鍵穴に手をかざす。
 不思議そうに見つめるルフィーリの目の前で、カチッという音が響いた。両開きの扉が音もなく開いていく様子に戸惑いを見せる少女に、ネシアスはさあ、とその背中を優しく押す。
 少女はこくんと頷くと、薄暗い店の中へと飛び込んでいった。ほどなく中から人の声や物音が聞こえてきたが、あの少女の勢いを止められる者はいないだろう。
 これ以上の手助けは無用だ。そう判断し、ネシウスはそっとその場を後にした。

* * * * *

 夜の散歩だと言って出て行った神殿長の客人が戻ってきたのは、闇の四刻をまもなく迎える頃だった。
 真夜中過ぎだというのにもかかわらず、神殿内のあちこちには明かりが灯され、神官達が右往左往している。そんな騒然とした雰囲気に、流石の彼も眉をひそめた。
 いくら闇の神を崇める神殿とはいえ、この時間にこれだけの人数が活動していることなど普段ではありえない。
「何かあったのか」
 通りかかった若い神官を捕まえて尋ねてみると、神官は一瞬、見慣れない顔に戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにそれが神殿長の客人であることを思い出したようで、殊更慌てた様子で言葉を紡ぐ。
「それが、大変なんです! 王女様がさらわれて、しかも国王陛下までっ……」
「落ち着いて話せ。王がどうした?」
「ですからっ……」
 要領を得ない神官の話を根気よく聞いて、ようやく状況を把握した彼は、更に問いかける。
「ハルマン、いや神殿長はどこにいる」
「そ、それが、城からの知らせを聞いた途端、お倒れになってしまいまして……」
 城から急の知らせが入った時、神殿では夜の礼拝を行っている最中だった。巷で噂になっている怪盗が城へ侵入し、王女をかどわかしたという知らせに驚きを隠せない神殿長ハルマンに、伝令は更に驚愕の事実を告げたのだ。
 国王ヴァシリー三世が襲われた。しかも、どうやら闇の禁呪を使われたようだ、と伝令が述べた途端、祭壇に背を向けて立っていたハルマンの顔からさぁ、と血の気が引いていく。
「神殿長!」
 心配げに声をかける副神殿長を振り返り、何か言おうとした瞬間、その老体がぐらりと傾いだ。慌てて駆け寄った神官達に支えられ、その場に倒れることだけは免れたものの、ハルマンはそのまま医務室へと運ばれることとなった。
 ただでさえ高齢のハルマンに、公私共に親しい間柄のヴァシリー三世が襲われたという事実、そしてそれがユークの禁呪によるものだという衝撃は余りにも強すぎたのだろう。
「……幸い、すぐに落ち着きを取り戻されましたが、今は大事をとって自室でお休みになられています」
 そんな神官の言葉を聞くや否や、彼はくるりと踵を返し、足早に歩き出した。まるで泳ぐように人の間をすり抜け、ハルマンの自室がある居住棟へと向かう彼。まるで通い慣れた道筋であるかのように、その足取りには全くといっていいほど迷いがない。
「あ、あの、ネシウス様!」
 慌てて呼び止めたものの、止まる気配を見せないネシウスの後姿に嘆息した神官は、すぐに気を取り直して再び廊下を走り出した。

「副神殿長がお戻りになられたぞ!」
 所在無く神官達が右往左往する神殿内に、そんな一報がもたらされたのは、副神殿長ドゥルガーが王城に出向いてから優に一刻ほどが経過した頃だった。
 途端にどよめく神官達。我先にと玄関へ向かい、強張った表情で神殿への階段を昇ってくる副神殿長ドゥルガーを取り囲む。
「副神殿長! 王のご様子は?!」
「王女様は見つかったのですか?」
 そんな彼らの問いかけに、ドゥルガーは固く口を閉ざしたまま、ただ足早に神殿内へと歩を進めた。いらだった様子で歩きながら、ふと傍らの神官に短く問いかける。
「……神殿長のお加減は?」
「は、現在は落ち着かれて、自室でお休みになられています」
 そうか、と答え、すぐに神殿長ハルマンの自室へと向かうドゥルガー。その後を尚も大勢の神官が追いかけるが、彼は煩わしそうにそれらを振り払い、指示があるまで待機するよう申し渡した。
 そうしてようやく居住棟の奥まった一室へと辿りついた彼に、警備に当たっていた兵士が慌てて扉を開ける。
「失礼いたします」
 固い口調でそう告げながら扉をくぐると、神殿長の私室にしてはあまりにも質素な部屋が目に飛び込んでくる。少しの家具と寝台、そして書き物机が置かれただけの小さな空間。その中央に据えられた寝台に、ハルマンが身を横たえていた。その横には一人の青年が腰掛けていたが、入ってきたドゥルガーを見てすっと立ち上がる。
「ドゥルガー司祭、只今戻りました」
「ああ、ご苦労だった……」
 眠っているかと思いきや、ハルマンはドゥルガーの言葉に答えて半身を起こす。それを無言で手伝った青年は、ハルマンに一言二言囁いて部屋から出て行った。それが昼間尋ねてきたハルマンの知人であることに気づき、すれ違いざまに小さく一礼をするドゥルガー。そうして青年の姿が扉の向こうに消えると、ドゥルガーは寝台へと走り寄った。
「お加減はいかがですか」
「何、少し驚いただけだ。大事無い。……して、どうじゃった、王のご容態は」
「は……。御典医のお見立て通り、闇の禁呪がかけられておりました。『死の眠り』の術に相違ありません」
 そうか、と呟き、小さく息をつくハルマン。
「『死の眠り』とはな……」
 それは『影の神殿』が編み出したとされる忌まわしき術の一つ。この他にも数多くの術が『影の神殿』の手によって生み出されている。
 ユーク神殿では、かくも危険な術が存在することを知らしめる意味で、神官らにこれらの術について教えるものの、あくまでも知識としてのみで、術の組み立て方や必要な印、儀式などには一切触れない。それらが記された書物も厳重に保管されており、余程のことがない限りは閲覧の許可は得られない。
 もっとも、真っ当なユーク神官であるならばそれら邪な術を行使しようなどとは思わないはずだ。それはすなわち、自らが崇める神を冒涜することに他ならないのだから。
「して、その術を行使した者は分かっておるのか?」
 そう問いかけて、ふと、ドゥルガーの表情がいつになく険しいことに気づく。
「ドゥルガー?」
「……王に禁呪をかけ、王女をさらって逃走した怪盗《月夜の貴公子》は……」
 そこで言葉を区切り、ふい、とハルマンから視線を外す。そしてドゥルガーは残りの言葉を紡いだ。
「ラウル=エバストです」
 その瞬間、寝室の空気が凍りついた。
「な、に……?」
 呆然と呟くハルマン。
「そんなことが……ドゥルガー、何かの間違いではないのか」
 両目を見開き、唇を震わせてドゥルガーに言い募る。間違いであって欲しかった。あの青年が、王を襲い王女をかどわかした犯人だなどと信じたくはなかった。しかし、ドゥルガーは首を横に振る。
「残念ですが、事実です。王城から彼の姿は消えており、また王女を連れた怪盗の姿を見た城の兵士が、間違いなくラウル=エバスト本人だったと証言しております」
 いたく冷静に述べる副神殿長に、ハルマンはしばし無言で拳を握り締めた。
「まさか……あの、彼が……」
「守備隊はただちに国中に緊急手配を行い、一刻も早く奴を捕らえんとしています。我等ユーク分神殿も、出来うる限りの協力を行うべきと考えますが……」
 その言葉に頷き、ハルマンは顔を上げた。疑念は尽きない。しかし今、彼が成すべきことは一つ。
「直ちに全員を礼拝堂に集めたまえ。私もすぐに向かう」
 固い表情で命じるハルマンに、ドゥルガーは深々と頭を下げた。
「承知しました」
 短く答え、踵を返すドゥルガー。足早に去っていく背中を見送りながら、ハルマンは誰にともなく呟いた。
「しかし、何故……彼は、ラウル=エバストは……影の神殿を打ち倒した英雄ではなかったのか……」
 小さな呟きに、扉に手をかけたドゥルガーはぴたり、と足を止める。
「……所詮、罪人は罪人、ということですよ」
 囁くようなドゥルガーの言葉は、ハルマンの耳には届かなかった。
「何か言ったかね?」
「いえ、何も。失礼いたします」
 そのまま何事もなかったかのように扉をくぐり、長く伸びる廊下の彼方へと去っていくドゥルガー。
 採光窓から差し込む月明かりに照らされた横顔は、光の加減だろうか、まるで笑っているように見える。
 いや、彼は確かに笑っていた。荒んだ、醜悪な笑顔。次第に歪みは増し、そしてついに弾ける。
 誰もいない廊下に響き渡る、空虚な笑い声。
(罪人、か……お前にはその呼び名がお似合いだ……!)

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