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第二章[16]

 静まり返った建物の中、ごしごしと床を擦る音だけが奇妙に響く。
 板張りの廊下に這いつくばって雑巾を動かす盗賊達。彼らは一様に憮然とした表情を浮かべ、ただひたすらに廊下に張り付いた泥汚れを拭っていた。
「姉御もひどいよな」
 ごしごし。
「そうだそうだ、おれらが悪いんじゃないのに」
 ごしごし。
「大体、なんで玄関が開いてたの?ちゃんと鍵かけといたはずでしょ?」
 きゅっきゅ。
「そういやそうだな。今日の戸締り点検、誰だっけ?」
 じゃぶじゃぶ、ぎゅー。
「確か、今日は姉御が閉めたんじゃなかったっけ? ほら、あの神官が来て、急に店閉めることになったからさ」
 ごしごし。
「じゃあ、悪いのは姉御じゃないか!」
「おだまりっ」
 ごいんっ
 思わずすっくと立ち上がった一人の頭に、空の桶が直撃した。その後もニ、三個続けて飛んできたそれに、本人だけではなく周囲にいた者までがとばっちりを食らって頭を押さえる。
「いってぇ……ひどいじゃないっすか、姉御」
「暴力はんたーい」
「いやぁ、髪が乱れたぁ」
 あちこちから上がる抗議の声に、しかし投げつけた張本人はふん、とふんぞり返り、廊下掃除をしていた配下達をぎろりと睨みつけた。
「ぐちぐち言ってないでさっさと終わらせちまいな!」
「だって……」
「だってじゃないよ! え? あたしが玄関の鍵をかけ忘れたとでも言いたいんだろうけど、お生憎様。あたしが鍵をかけたところは他の奴もちゃんと見てる。間違いなく玄関はきっちり閉まってたんだ」
 その言葉に、あちこちからどよめきが起きる。
「そいじゃあ姉御、あのちびっこいのがここの鍵を開けたとでもいうんですかい?」
 まがりなりにもここは盗賊ギルドの支部。その玄関に据えられた鍵は、彼ら腕利きの盗賊でも簡単には開けられないほど複雑で、ご丁寧にも罠までしかけてあるような代物だ。
「いや、どうもその辺がよく分からないんだけど……ともあれ、侵入者を阻止できなかったあんた達も問題だろ! 一体何年盗賊やってんだい、あんな子供一人捕まえられないでどうするよ」
 その言葉に、一斉にそっぽを向く盗賊達。しかも彼らとて手を抜いたわけでもなんでもない。
 少女が、彼ら以上にすばしっこかっただけの話だ。
「でも姉御。あの子すんごく足が速いし、しかもちっちゃいもんだから」
「言い訳はおやめ!」
 ぴしゃりと言い放ち、そして支部長『銀狐』ことシルビアは持っていたもう一つの桶をよいしょ、と持ち直す。
「とにかく、とっとと掃除を終わらせるんだよ。いいね」
 そう言いつけながら彼らの間をすり抜けて廊下を進み、一つの扉にたどり着く。空いた手で扉を開けると、中から賑やかな声が飛んできた。

「こんの馬鹿やろうっ!!」
 怒声と共にごん、と頭に拳骨を落とされて、少女の瞳に涙が浮かぶ。
「あいつらの制止を振り切って脱走した挙句に、迷って得体の知れない奴にここまで送ってもらっただなんて、何考えてんだおまえは!」
「らうぅ……」
 ラウルの剣幕に、椅子の上で身をすくめる少女。その横では王女が、目の前で繰り広げられる舌戦を物珍しげに見守っている。
「この道中は俺やあいつらの言うことを聞けって言ったろ! あれほど約束したのに、どうしてあっさり破るんだ!」
「だって!」
 負けじと口を開く少女。
「らう、るふぃーり、おいてった! だから、るふぃーり、らう、さがしたの!」
「お前が街に着くなり寝こけやがったから、宿屋に置いてかざるをえなかったんだ!」
「らう、いつもいっしょ、なの! おいてく、だめ!」
「んなこと言ったって、仕事で神殿に行ったんだから、どのみちお前は留守番だったんだ! 俺はちゃんとエスタス達にそう言っておいたし、お前がそれを聞かされてなかったとしても、あいつらの言うことを聞かないでここに来たのは充分に約束を破ったことになるだろ! え?」
「う〜……」
 さすがに返す言葉が見つからず、しかし納得いかない様子でぷぅっと頬を膨らませる少女。息継ぎを忘れて怒鳴っていたラウルは、ぜいぜいと肩で息をしながらも険しい目つきで少女を睨みつける。
「何か言うことは?」
 怒った口調のまま尋ねるラウルに、少女は渋々ながら謝罪の言葉を紡いだ。
「……ごめん、なさい」
 やれやれ、と怒らせていた肩を下ろすラウル。ただでさえ城からの脱出劇で疲れているところにこれだ。精神的にも肉体的にもぐったりと疲れ果て、よろよろと椅子に腰を下ろそうとしたラウルに、今度は違う場所から声がかかった。
「……さて。そろそろいいかしら?」
 見れば部屋の入り口に、手に桶を提げたシルビアが立っている。どうやら口を挟む頃合を見計らっていたらしい彼女はつかつかと彼らのもとへやってくると、まず手にしていた桶を床に下ろした。
「なんだ、それ?」
 不思議そうに覗き込む王女には答えず、シルビアは湯気が立ち上がっているその中に雑巾を突っ込んで浸し、軽く絞ってから少女に向き直る。
「らう?」
 きょとん、とする少女を、次の瞬間シルビアは問答無用で抱き上げた。
「らうっ!?」
「はいはい、いいからじっとしてね。あとはあんたとこの部屋だけなんだから」
 少女をひょい、とひざの上に乗せ、雑巾でその足をがしがし拭いていく。いやがる少女を慣れた手つきで押さえ込み、あっという間に手足や服の裾などを拭き終えて、シルビアは落ちきらない汚れに嘆息してみせた。
「あとでちゃんと綺麗にしてあげるわね」
 そう呟いて少女を椅子の上に降ろすと、続いて辺りの床を拭き始める。しばし呆然とそれを見守っていたラウルだったが、はたと少女が裸足であること、そして床に小さな足跡がべたべた張り付いていることに今更ながら気づいた。彼女は宿屋の二階から飛び出して、そのまま夜の街を彷徨っていたという。その結果が、この泥だらけの床というわけだ。
「お前なぁ……せめて靴くらい履いて来い!」
「るふぃーり、くつ、きらい、だもん」
 澄ました顔でぷい、と横を向く少女。横を向いたところで、こちらを見ていた王女と目が合った。
「? だあれ?」
 そう問いかける少女は、どうやら今の今まで彼女の存在にすら気づいていなかったらしい。王女はくすくすと笑いながら自己紹介をする。
「私はローラだ」
「ろーら?」
 不思議そうに繰り返して、それから少女は自分の顔を指差し、元気いっぱいに名乗りを上げる。
「るふぃーり!」
「そうか。よろしくな、ルフィーリ」
 そう言いながら右手を差し伸べると、少女はそれはもう嬉しそうに両手でそれを握り締めてきた。ぷくぷくした子供の手に思わず頬を緩めつつ、王女はラウルへと向き直ると、さらりと問いかける。
「ところで、この子はお前の何だ?」
 素朴な質問に、しかしラウルはぐっと詰まる。ようやく床掃除を終えて立ち上がったシルビアも、すっかり濁った湯で雑巾を絞りながら興味津々に問いかけてきた。
「そうよ。まさかあなたの子供だなんて言わないわよね?」
「んなわけがあるかっ! 俺は独身だ!!」
 思わず吼えるラウルに、シルビアはケタケタと笑って手を振る。
「冗談よぉ。で? その子はあなたとどういう関係で、なんであなたがここにいるか分かったの?」
 顔は笑っているが、シルビアの瞳は真剣そのものだ。それもそのはず、その場所はおろか存在すら謎に包まれている盗賊ギルドの一支部を、こんな年端も行かない子供に嗅ぎつけられたとあっては、彼らの体面にも関わる大問題だ。
 そんなシルビアに、ラウルは困り果てた顔で少女を一度睨み、そして考えながら言葉を紡いでいく。
「ええっと……とりあえずこいつは遠縁の子供なんだ。事情があって俺が預かってるんだが」
 あらかじめ用意してあった言い訳はそこまでだ。あとは何とか誤魔化すしかない。
「仲間と一緒に街の宿屋にいたんだが、そこを飛び出してきちまったらしい。その……こいつは精霊使いでな。とはいえ、まだこの通りガキだから大したことは出来ないんだが、精霊に俺の居場所を探らせて、ここまで来たんだと」
 大分苦しいが、それでも真実よりはよほど現実味を帯びた言い訳になった、と思いたい。
(さて、これで納得してくれるもんか)
 何食わぬ顔で、そっとシルビアを窺う。彼女は冷ややかな目でラウルと少女とを交互に見比べていたが、しばらくしてふう、と息を吐いた。
「まあいいわ。それで納得しましょう」
 含みはあったものの、それ以上の追求はしないと暗に告げた彼女に、ラウルは心の中で感謝の言葉を呟く。一方、ラウルの言葉を真っ直ぐに受け止めらたしい王女の方は、少女に尊敬のまなざしを向けていた。
「こんなに小さいのに精霊を使うことが出来るのか。すごいなルフィーリは」
「らう? るふぃーり、せいれい、つかう、しない。せいれい、なかま」
 げっ、と青ざめるラウルをよそに、王女は少女の発言にそうかそうか、と頷いてみせる。
「そうだな、使うという言葉は適当ではなかったな。精霊の声を聞くものは彼らを使役するのではなく、彼らの力を借りているのだと本で読んだことがある。彼らは友であり仲間、その間に主従関係などは存在しないのだと」
 うまい具合に誤解してくれた王女にほっと胸を撫で下ろし、そしてラウルは改めてシルビアに向き直った。
「シルビア、面倒ついでにもう一つ頼みたい」
「なあに?」
「俺達は必ず、首都に戻ってくる。それまでこいつを預かってくれないか」
 そう言って指差したのは勿論ルフィーリだ。状況が状況だけに、彼女を連れて行くことは躊躇われた。そしてエスタス達が今どうなっているか分からない以上、せめて安全と言えるこの場所に預けていくのが得策と思って頼んだものだったが、勿論少女が黙っているはずはない。
「だめぇっ!!」
 シルビアが答える前に、少女が絶叫した。余りの音量に思わず顔をしかめるラウルをよそに、彼女はラウルの真正面へと回り込み、その足にぎゅっとしがみつく。
「おいてく、だめ!」
 困り顔で少女を見下ろすラウル。そう言えば彼女には何も説明していないのだと気づいて、努めて優しく言い聞かせる。
「あのな、訳があって、俺とこいつはちょっと出かけなきゃならない。目立つわけにはいかないし、ちょっと危険かもしれない。だからお前を連れてくことは出来ないんだよ。な?」
 シルビアがいる手前、あまり込み入ったことは口に出来ない。しかし、勿論そんな説明で少女が納得するはずもなかった。
「やー!」
 ぶんぶんと首を横に振り、尚一層しがみ付く手に力を込めてくる少女。
「駄目だ。必ず戻ってくるから、それまでここで大人しく……」
「だめぇ! らう、るふぃーり、ずっといっしょ!」
 後半の声は妙に上ずっていた。おや、と思ったら、少女は今にも泣き出しそうな顔でこちらをじっと見上げている。余りにも必死なその様子に、ラウルは心の中で盛大にため息をついた。
(ったくよぉ……どうして、こんなにも俺と一緒にいたがるんだ?)
 カイトの話では、鳥や小動物の一種には、生まれて最初に見た「動くもの」を親と思い込んで懐く性質があるという。「刷り込み現象」と呼ばれるそれを上位精霊である竜に対して当てはめるのはどうかと思うが、少女はまさにその状態だった。この様子では、強引に置いていったところで追いかけてくるに違いない。
 縋るような瞳で返事を待つ少女の手をそっと引き剥がし、彼女の前に腰を屈める。
 視線を同じくして、じっとその瞳を覗き込むと、そこには溢れんばかりの不安と恐れが満ちていた。それらは今にも涙となって零れ落ちそうで、やれやれとラウルは口を開く。
「もう一度、約束できるか」
 囁くような声に、少女は目を瞬かせた。いまひとつ分かっていないその様子に、もう一言付け加える。
「そうしたら、連れてってやる」
 途端に顔を輝かせ、大きく頷いてみせる少女。
「らう、るふぃーり、いっしょ!」
「だ・か・ら! 一緒にいたいならちゃんと約束するんだ」
「やくそく!」
 間髪入れずに返ってくる力強い言葉。そして少女はラウルに向かい、ぐいっと右手の小指を突き出してきた。
「るふぃーり、やくそく、まもる。だから、ずっといっしょ。ね」
(おいおい)
 思わず苦笑するラウル。旅の間だけの『約束』のはずが、どうやらそれは彼女の中で勝手に「ずっといっしょ」の約束へとすり替えられたようだ。どこをどう解釈したらそうなるのか、呆れ返る彼の目の前で、少女はそれはもう嬉しそうに笑っていて。
(……まあ、いいさ)
 今更訂正するのは面倒だったし、この約束が守れないのなら、これから先ずっとラウルと共に暮らしていくのはどのみち難しいだろう。
 それに約束と言い出したのはラウルの方だ。だから彼はまいったなと呟きながらも、その小指に自らの小指を絡め、そして彼女にだけ伝わるように心の中で約束の文言を紡ぎ上げる。
(一つ、竜であることを絶対に口にしない。二つ、竜としての力を一切使わない。三つ、俺と、一緒に行くローラの言うことをちゃんと聞く)
「分かったな」
 そうとだけ告げるラウルに、傍らの王女とシルビアは首を傾げたが、少女だけはこくりと頷き、ぎゅっと指に力を込めた。
「やくそく♪」
「ああ、約束だ」
 ゆっくりと指を離し、上機嫌の少女の頭に手を置いて、そうしてラウルは事の成り行きを黙って見守っていた王女とシルビアに向かい、肩をすくめてみせた。
「悪い、こいつも一緒に行くことになった。そのつもりで頼む」
「ああ、私は構わない。よろしく頼む、ルフィーリ」
 にっこり笑いかける王女に満面の微笑みで答える少女。そしてシルビアはやれやれ、と腕組みをしながら三人へと命じた。
「それじゃ、話がまとまったところで三人まとめてお風呂へ行ってちょうだい」
「へ?」
 目を丸くするラウルに、シルビアはわざとらしく鼻をつまんでみせる。
「今まで気づいてなかったみたいだけど、あなた達結構臭うのよ? それにその格好じゃ捕まえてくれって言ってるようなものでしょ」
 言われてみれば、あの下水道を延々と歩き続けてきたのだ、臭いも染み付くというものだろう。それに王女はともかく、ラウルは目立つことこの上ない黒い神官服、少女に至っては薄い服一枚に裸足のままと、とても旅が出来る服装ではない。
「そんなに臭うか?」
 くんくんと自分の匂いを嗅ぐ王女。その仕草が面白かったのか、早速真似をしてみせる少女。まるで緊張感に欠ける二人に苦笑いを浮かべつつ、ラウルはシルビアに分かったよ、と頷いた。
「じゃあ、悪いんだが俺とこのチビに着替えを用意してもらえないか。着の身着のままで来ちまったからな」
「分かってるわ。必要なものはこっちで用意するから、とにかく入ってきなさい! ほら早く!」
 腰に手を当てて命じるシルビアは、まるで泥遊びから戻った子供を風呂場に追い立てる母親のようで、三人は慌てふためいて部屋を飛び出した。

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