第三章[2]
「しかし、さっきの神官は凄かったなあ。急に路地へ入っていくからどうしたのかと思ったが」
 夕食を終え、部屋に戻っても未だ興奮冷めやらぬ様子の王女に、寝台に腰掛けたラウルはこら、と眉をひそめる。
「神官って呼ぶなって言ったろ。どこで誰が聞いてるか分からないんだからな」
「おっと、すまない。では我らが用心棒」
 律儀に言い直す王女。そう、彼は表向き、家族を亡くして遠縁の元へ向かう姉妹の護衛ということになっている。雰囲気は違えど仲睦まじい二人は姉妹に見えなくもないし、そこにラウルを含めて三兄妹と称するよりはよほど説得力がある。実際、この説明を聞いて疑いを持つ者は今のところいなかった。それどころか、そんな境遇に立たされてなお無邪気に笑い声を上げている小さな妹の様子に、目を潤ませる人間までいたほどだ。
 その『妹』は今、何が楽しいのか、ふかふかとは言い難い布団の上で飛び跳ねている。『きっと、この道中をただの旅行だと思っているのでしょうね。なんて可哀想に』と涙をこぼした心優しいご婦人もいたが、その言葉は図らずも正鵠を射ていた。一通りの説明はしたものの、彼女は恐らく、ただ三人で遠いところへ遊びに行くのだ、程度にしか思っていないのではないだろうか。
「ろーら、いっしょやる?」
「いや、叱られそうだからやめておく」
「じゃあ、るふぃーりも、やめる」
 緊張感の欠片もない会話にため息をつきながら、寝台にひっくり返るラウル。
「しかし、もう手配書が追いついてくるとはなあ」
 三日前に立ち寄った町には、まだ手配書は出回っていなかった。しかし首都での騒ぎはすでに人々の口に上っており、改めて噂の伝達速度に恐れ入ったものだ。噂というものは時に、伝令ギルドの特急便よりも早く伝播する。
「確かに、思ったより早かったな」
 肩をすくめる王女。宿屋の人間に聞いたところによると、あの手配書が貼り出されたのはつい二日ほど前のことらしい。
「ま、似顔絵つきでないだけまだましってもんか」
「なに、人相書きが出たところで、その格好ならきっと気づかれることはないだろう。私が保証する」
 そんな根拠のない保証をされても困る、と、ラウルはため息をつきつつ頭布に手をやった。極彩色のそれは、首都脱出の際にシルビアが用意してくれたものだ。一番特徴的な黒髪を隠すにはこれくらいしなければ駄目だと言われ、渋々ながらその忠告を守っているが、何もここまで派手な柄を選ばなくても良かったのではないか。
 忌々しい、と呟きながら布を巻き直し、すっくと腰を上げる。その張り詰めた表情に王女はああ、と呟いて、
「手洗いは一階だぞ」
「違う!」
 ではなんだ、と首を傾げた王女の耳に飛び込んできたのは、部屋の外から響いてくる足音だった。
 階段を駆け上がり、板張りの廊下をこちらへと近づいてくる複数の足音。何か喋っている声も響いていたが、こちらはまだはっきりと聞き取ることは出来ない。しかし語気荒いその様子からして、他の泊り客が食事を終えて上がってきた、というわけではなさそうだ。
「まさか、もう……?」
 町の誰かに気づかれて、通報されてしまったのだろうか。緊張した面持ちの王女に、ラウルは首を横に振り、しかし動かないように手で示してきた。
「らう?」
 きょとんとしている妹をそっと引き寄せ、近づいてくる足音に耳をそばだてる。その間にラウルは扉の横に陣取ると、取っ手に手をかけて、じっと待った。
 そして。
「おい、出て来いよ!」
「ここにいるのは分かってるんだぜ?!」
 程なくして扉の向こうから響いてきた怒鳴り声は、聞き覚えのあるものだった。その後ろから上がっている弱々しい制止の声は、宿屋の従業員だろうか。
「もしかして……」
 眉をひそめて呟く王女に頷いて、ラウルは無造作に取っ手を引く。すると――。
「どわっ!?」
「あいたたた、何するんですかぁ」
 次の瞬間どっとなだれ込んで来たのは、予想通り先刻のゴロツキ三人。止めに入った従業員まで巻き込んで部屋の床にひっくり返った彼らを見下ろし、ラウルは呆れた、と呟く。
「わざわざこんなところまで仕返しに来たってか? 暇だなあ、お前ら」
「う、うるさいっ!」
「やい、てめえ! さっきは不意をつかれたが、今度はそうはいかないぞ」
 口々に言い募る男達は一様に酒の匂いを漂わせていた。大方、酒を飲んで気が大きくなっているのだろう。
 そのうちの一人が潤んだ目をラウルの背後に佇む少女達に向け、こりゃあ傑作だ、と馬鹿笑いを上げる。
「てめえ、女衒か!」
「ぜげん?」
 きょとん、と首を傾げる少女達。一方、ラウルはと言えば平静を装ってはいたものの、その額の辺りにはうっすらと青筋が浮かび上がっていた。
「するってぇと、ソーニャを助けたのも、売り飛ばそうと目ぇつけたからってか」
「馬鹿言え、あんなちんくしゃに金出す奴がどこにいるんだ」
「は、違いねえ! そこのチビの方がまだ可愛げがあらあ」
「いや、もしかしたらこいつ、アレかもしれないぜ? ほら、幼女しゅ――」
「……おい」
 余りにも冷やかな声音に、笑い転げていた三人がぴたり、と口を閉ざす。
「そんなことを言いに来たのか?」
 睨みつけられて、途端に勢いをなくす男達。
「い、いや、その……」
「そ、そうだ! さっきの礼をっ……」
「礼? ああ、いいぜ。ちょっとは気晴らしになるだろ」
 最後まで聞かず、ラウルはにやり、と口の端を持ち上げた。目が笑っていないものだから、その笑顔は恐ろしいことこの上ない。
「言っとくがな、俺だって好きでガキのお守りをやってるわけじゃねえんだよ。それをまあ、どいつもこいつも人を変態か人攫いみたいに言いやがって……!」
 しかも言うに事欠いて女衒とは。似たようなことならこれまでにも散々言われてきたが、ここまで面と向かって言ってのけたのは初めてだ。陰で言われるよりはましだが、だからといって腹が立たないわけではない。
「いや、その……」
 竦み上がる三人を相手に、これ幸いと愚痴をこぼし始めるラウル。
「大体、どう見たら俺とこいつらが親子に見えるんだ!? その上『かみさんに逃げられた』だの『借金取りに追われてる』だのと勝手に決めつけやがって!」
 怒りに満ちた言葉に、三人は顔を見合わせる。
「……そんなことまで言ったか?」
「いや、言ってねえよ。なあ?」
「やかましいっ! いいから聞け!」
 そして、ぶつける相手がいなかったせいで溜まりに溜まっていた文句をぶちまけること、約十分。
「……つーわけで」
 一通り怒鳴り散らした後、ようやく本題を思い出し、ラウルはすっかり気勢を削がれて黙り込んでいる三人を見回した。
「ただでさえ余計な神経すり減らして気が立ってるんだ、手加減出来ないかもしれないが、構わないよな?」
「そ、そんなあ……」
「とんだとばっちりじゃねえか!」
「あのっ、お客さん! 揉め事は困りま、す……」
 恐る恐る割って入ろうとする従業員を一瞥して黙らせ、スタスタと扉をくぐるラウル。そして、未だ床に転がったままの三人をさわやかな笑顔で手招きした。
「ほら、来いって!」
「は、はいぃ……」
 反論する気力もないのか、男達はやけに素直な様子でその言葉に従い、部屋を後にする。最後にきちんと扉を閉めていった辺り、案外マメな不良達であった。
「あのー、私は一体どうすれば?」
 一人取り残された従業員は、おずおずと少女達へ問いかける。すると、
「ここで待っていればいい。すぐに戻ってくる」
「らう、つおい。だいじょぶ!」
 連れの心配など全くしていない様子で答える少女達に、従業員は何とも言えない顔で、しかし彼女らの言葉に従った。
 そして待つこと、ほんの数分。
 出て行った時と同じ軽い足取りで部屋へ戻ってきたラウルは、ぽかん、と口を開けて立ち尽くす従業員に窓の外を指し示し、
「表に転がってるから、警備隊に突き出すなり何なりしといてくれ」
 まるでゴミの始末でも頼むような口調で言ってのける。その言葉にはっと我に返り、あたふたと頷いて部屋を飛び出していく従業員。その背中を見送って、ラウルはやれやれ、と扉を閉めた。
「ちんぴら、やっつけた?」
「ああ。いやー、あまりにも弱すぎて腹ごなしにもならねえ。ソーニャの言う通り、ただのゴロツキだな、ほんと」
 ぼやきながら頭布をむしり取ると、緩んでいたらしい紐までが解けて黒髪が踊る。それを鬱陶しそうにかき上げながら寝台に腰掛けたところへ、
「らう。ぜげん、なに?」
「……」
 少女が放った素朴な疑問に、思わず固まるラウル。
 しばし考えた挙句に彼は、「知らなくていい」とだけ答えてやった。女を売り買いするということすら、彼女には理解できまい。
 一方、こちらはどうやらチンピラ退治に参加したかったらしく、不満げな顔をみせている王女。
「ずるいぞ、一人だけ。次からは私にもやらせてくれ」
 王女の言葉とは思えないほど物騒な台詞だったが、ラウルは分かったよ、と手を振った。
「ほら、もう寝るぞ。明日も早いんだからな」
 目的地まではあと半月ほどかかる。手配書が追いついてきた以上、これまで以上に速度を上げなければ、いつかは捜査網にかかってしまうだろう。そうなる前に何としてもトゥールの村とやらに辿り着かなければならない。何とも先が思いやられる話だが、ラウルの苦悩などどこ吹く風の少女達は、楽しげに何か囁きあっている。仕方なしに軽く睨みつけてやると、二人は首をひゃっとすくめて眠る準備にとりかかった。
「今日の夕飯はとても美味しかったからな。明日の朝が楽しみだ」
「たのしみだっ」
 賑やかに着替えを終え、ようやっと寝台に滑り込む少女達。宿代節約と万が一のことを考え、これまでずっと部屋は一つしか取ってこなかった。大抵の部屋には寝台が二つしかないから、当然誰かが一緒に寝なければならない。そうして、今日もまたお馴染みの光景が繰り広げられる。
「らうっ!」
「だから、何でいっつも俺のとこに来るんだ!」
 さり気なく隣に潜り込もうとしていた少女の首根っこを捕まえ、王女の方へと放る。布団の上にぽん、と着地して、彼女はぷんぷんと頬を膨らませた。
「いっしょに、ねるぅ!」
「駄目だ!」
「いやぁっ、いっしょ!」
「だから、駄目だっつってるだろ!」
 エストにいる時から繰り返されてきたやり取り。まだ一緒に旅をするようになって日が浅い王女ですら、そろそろ聞き飽きてきた感のある会話は、今日もやはり平行線に終わったようだ。
「いいじゃないか、一緒に寝るくらい。寝台は広いのだし、二人で寝た方が暖かいぞ?」
「そういう問題じゃない! 大体、俺はこいつの親でも何でもないんだぞ、何で一緒に寝なきゃならない!」
「頑固だなあ……」
 呟きつつ、王女は足元で拗ねている妹を手招きした。
「おいで、我が妹。一緒に寝よう」
「ぶぅ~」
 渋々ながらその言葉に頷き、もぞもぞと隣に寝転がる少女。あっという間に瞼を閉じ、すやすやと寝息をたて始めた少女のあどけない横顔に、ふふ、と笑みをこぼす。
「もう寝てしまった。相変わらず寝つきがいいな」
「ああ、そいつは夜に弱いからな。こんな時間まで起きてただけでも珍しいくらいだ」
 彼女が夜に弱いのは、光の竜であるせいなのだろう。朝日と共に起き出し、日が沈む頃にはもう瞼が重くなっている。日によって多少のずれはあるものの、真夜中まで起きていられた試しはない。しかしそんなことを知るはずもない王女はただ、
「寝る子は育つという。いいことだ」
 そんな言葉に鼻を鳴らすラウル。
「早いとこ育って欲しいもんだ」
 実感のこもった言葉に苦笑を浮かべ、王女は傍らで眠る少女におやすみ、と呟くと、枕に頭を落とした。
「おやすみ、用心棒」
「ああ……消すぞ」
 小机に置かれた燭台の炎を吹き消すと、深い闇が部屋を閉ざす。階下の喧騒もここには届かず、聞こえてくるのは規則的な少女の寝息だけ。
 そんな中、寝転がったまま心の中で夜の祈りを捧げていたラウルは、ふと視線を感じて隣の寝台を見やった。
「……なんだ、寝てないのか?」
 てっきり眠ったのだとばかり思っていた王女は、煌めく瞳をぱっちりと開けて、こちらを見つめていた。その双眸は闇の中にあっても輝きを失うことなく、不思議な光を湛えている。
「早く寝ろよ。明日も早いんだぞ」
「ああ……」
 どこか上の空で答えた王女は、訝るラウルの視線を受け、おもむろに口を開いた。
「……本当に、すまない。私はお前に負担ばかりかけている」
 唐突な言葉に首を傾げるラウル。何を今更、と言いかけて、はたと思い当たった。
「なんだ、さっきあいつらに言ったこと、気にしてるのか?」
 『好きでガキのお守りをやってるわけじゃねえんだよ』と、確かに彼は言った。その後も延々と、この道中で起こった出来事に対する不満をぶちまけた。しかし――。
「あんたのことじゃない。そこのチビのことを言ってるんだ。気に病む必要はない」
 二人とも世間知らずで世の常識に欠けることは確かだが、それでも王女の方がまだ思慮分別がある。それに彼女は、図らずも同行することになった幼い少女を本当の妹のように可愛がり、何かと面倒を見てくれていた。それはラウルにとってもありがたいことだったし、彼女にも少なからずいい影響を与えているようだ。
「でも……」
「なに、多少の苦労は覚悟してる」
 そもそも、少女を連れてエストを出た時点で、何事もない平穏な日々が過ごせるとは思っていない。何もかも悟ったような顔で、ラウルは王女へと言いつけた。
「俺の心配をしてる余裕があるなら、この先のことを考えろ。手配書が出回ってる以上、これからはかなり動きづらくなる。今のうちに食糧を多めに仕入れておかないとな」
 今後は町や村に立ち寄ることを最小限に抑え、人目につかぬように旅を続ける必要がある。ちゃんとした寝台で眠れるのも、もしかしたらこれが最後かもしれない。
「しっかり体を休めて、明日に備えるんだ」
「分かった」
「あともう一つ。もう謝るな。いいな?」
 そう言ってごろり、と背を向けるラウル。王女はしばしその背中を見つめ、そして呟くように答えた。
「……分かった」
 そっけない言葉。しかしそれは、どんな叱咤や激励よりも胸に染みた。
 彼は優しい。本当に、優しい。
 だからつい、その優しさにつけ込んだ。面倒に巻き込んでおいて『手を貸してくれ』だなんて、我ながら虫が良すぎる話と思ったのに、彼は何だかんだと文句を言いつつ、こうして一緒に旅をしてくれている。もう謝るなと、過ぎたことは気にするなと言ってくれる。
(お前は、本当に優しい……)
 しかし、それを言ったらラウルはきっと照れて、こっぴどく怒鳴ってくるだろうから、王女は布団を頭の上まで引き上げると、おやすみ、とだけ囁いた。すると、
「ああ……よい夢を」
 という珍しくも神官らしい一言が返って来て、思わずくすりと笑みを漏らしてから、ゆっくりと瞼を閉じる。
(よい夢、か……)
 彼女が見る夢は、いつも決まって同じものだ。見たことのない幻想的な風景と、どこからともなく聞こえてくる不思議な歌。
 それは、聞いたことのない言葉。それは、知るはずもない旋律。何度も聞いて耳にこびりついているはずのその歌は、しかしどういうわけか起きている時にはちっとも思い出すことが出来ない。
 幼い頃から繰り返し見る夢。それが何を意味するものなのか、彼女は一度だけ、母である王妃ソフィアに尋ねたことがある。しかし、その質問を投げかけられた母は悲しそうな、それでいて嬉しそうな顔をして幼い王女をぎゅっと抱きしめ、結局何も教えてはくれなかった。
(あの夢は……)
 そう言えば、つい最近もあの夢を見た覚えがある。いつもと同じ光景、同じ歌。しかし、あの時の自分は一人ではなかった。誰か知らない人間がそばにいて、同じように歌を聞いていた……ような気がする。
(……あれは一体、誰だったんだろう?)
 何とか思い出そうと四苦八苦しているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
 目覚めた時には、いつ移動したのやら、隣の寝台に潜り込んでいた少女とラウルの激しい舌戦が繰り広げられており、それを見て笑い転げているうちに、不思議な夢のことはいつしか頭の片隅に追いやられていた。
「だーかーら、何度言ったら分かるんだ、チビ!」
「ちび、ちがう! るふぃーりだもん!」
「あー、もう……そうじゃなくて! ローラと一緒に寝てたんだろ? なんでわざわざこっちに来るんだ!」
 首都を発って八日目の朝。窓の向こうに広がる空には、雲一つない。
「今日もいい天気だ。楽しい一日になるといいな」
 呑気な王女の呟きは子供じみた言い争いに紛れ、二人の耳には届かなかった。