第三章[1]
 広場のざわめきが、こんな路地裏まで伝わってくる。
 普段より賑やかなのは、つい先日掲示板に貼り出された手配書のせいだろう。指名手配を受けているのはこのところ首都を騒がせている怪盗だというが、今のソーニャにとってはどうでもいいことだった。いや、それどころではなかった、という方が正しいか。
「もう、どいてよ!」
 精一杯大声を上げてみても、路地を塞ぐように佇む三人の不良は動こうともしない。後ろには煉瓦の壁が立ちはだかり、せめても身を守るように握り締めた籠には売れ残りの蝋燭が数本転がっているだけ。これでは到底この男達に太刀打ちできるはずもない。どうやってこの場を切り抜けよう、と必死に考えるも、名案はちっとも浮かんではこなかった。
「なあソーニャ、確かこの間も忠告したはずだよなあ」
「そうそう、ここいらで商売したいなら、まず俺達に話を通すのが筋ってもんだろ?」
「だから、あんた達みたいなチンピラに渡すお金なんてないって、何度言ったら分かるの? さっさとあっち行きなさいよ!」
 毅然と言い放つが、震える声が全てを台無しにしていた。しかし、こんな奴らに売り上げを巻き上げられるわけにはいかない。家には病弱の母や幼い兄弟達が彼女の帰りを待っているのだ。
 しかし、男達がそんなソーニャの家庭事情を考えてくれるはずもなく、彼らは下卑た笑みを浮かべながらにじり寄ってくる。
「チンピラたあ、ひでぇ言われ様だなあ」
「俺達がこうして見回ってるから、ここで安心して商売できるんじゃねえのか、おい」
「むしろ感謝してほしいくらいだよなあ」
 よくもまあ、ぬけぬけと。ソーニャは唇をかみ締め、男達を睨みつけた。なんてことはない、ちょっと腕力に自信のある若者らが徒党を組んでいるだけだ。後ろ盾もなければ度胸もない、弱い者を脅して金を掠め取り、その日その日を楽しく過ごせればいいと思っている不良達。警備隊が来れば、こんな奴らすぐに尻尾を巻いて逃げていくのに。
 しかし、その頼もしい警備隊の面々はここのところ指名手配者の捜索にかかりっきりで、こんな路地裏まで巡回にやってきたりはしない。この男達もそれを知っていて、これ幸いと小金を稼ごうとしているのだろう。そう思うと、それまで興味がなかった指名手配の人間に対する怒りが急激にこみ上げてきた。
(……もう、ほんと大迷惑! 早く捕まっちゃえばいいのに!)
 まだ十歳になったばかりのソーニャは字を読むことが苦手だ。だから文字ばかりで似顔絵もない手配書の内容はいまいちよく分からなかったが、怪盗《月夜の貴公子》が王女をさらって逃走中だということだけは理解できた。なんでもその正体はユーク神官らしいが、黒髪の青年だということくらいしか手配書には記されていない。
 しかし、どこにいるかも分からない怪盗よりも、目の前の不良達の方がよほど脅威だ。そんな彼らは口を閉ざしたままのソーニャを見て、大げさに肩をすくめてみせた。
「あんまり聞き分けのないこと言ってると、痛い目見ることになるぜ?」
 そう言って、これ見よがしに腰の短剣に手をやる男。鞘から覗く刃は、薄暗い路地裏でもぎらりとした光を放っている。
「せっかくのかわいい顔に傷つけたくないだろう?」
 そんな脅し文句に、さしものソーニャも息を呑んだ。こいつらに人を傷つけたりする度胸なんかない。ただの脅しに決まってる。そう頭では分かっていても、いざ刃物を目の前にしたソーニャの体は強張り、半ば無意識のうちに後ずさる。途端に煉瓦の壁が背中に当たって、逃げ場がない事実を改めて思い知らされた。
(こんな奴らに……!)
 ぎゅっと籠を握り締めるソーニャの目に悔し涙が滲んだ、その時。

「……え?」
 立て続けに鈍い音がしたと思ったら、次の瞬間まるで糸の切れた操り人形のように地面へと倒れていく男達。それぞれ後頭部やら脇腹やらを押さえ、一人などは白目を剥いてひっくり返っている始末だ。
 一瞬の出来事だったために、何が起きたのかさっぱり分からなくて、ただ呆然と三人を見つめるソーニャ。と、
「どこでもチンピラのやることは変わんねえな、たく」
 前方から響いてきたその声は、若い男のものだった。
 聞き覚えのない声に恐る恐る視線を上げると、そこには夕日を背に受けて佇む男の姿。
「大丈夫か? 怪我はないよな」
 すらりとした長身を着古した風の外套で覆い、その背中から覗くのは長剣の柄。それだけでも物珍しい風体だったが、何より目を惹いたのは、不思議な模様が染め抜かれた布を巻いた頭。鮮やかな模様は、じっと見ていると目が痛くなりそうなほどだ。
 別の大陸から渡ってきた冒険者なのかもしれない。どこか異国情調漂うその姿に思わず見とれていると、男はチンピラ共を容赦なく踏みつけながらソーニャの目の前までやってきて、同じ言葉を繰り返す。
「なあ、大丈夫か? 怪我は……」
「は、はいっ! 大丈夫です」
 慌てて答えるソーニャ。そしてお礼の言葉を続けようとした次の瞬間、男はすっと振り返り、ようやく立ち上がってきた三人を睨みつけた。その鋭い眼差しに射抜かれて、男達の動きがぴたりと止まる。
「一応聞いとくが、実は芝居の練習だったとか、兄弟喧嘩だったりはしないよな?」
 振り返ることなく尋ねてくる彼に、勿論そんなわけがないとソーニャは首を振った。
「こいつらはこの辺をぶらついてる、ただの不良! 弱い人間を脅して金を巻き上げることしか出来ないチンピラよ」
 なるほどね、と呟く男。嘲るように鼻を鳴らし、三人をぐるりと見回して続ける。
「小金欲しさに人を脅して、しかもなんだ、女の子相手に刃物ちらつかせるなんざ、ほとほと見下げた奴らだな」
「何をっ、このっ!」
「おい、やめろよ!」
「やばいって、こいつ……」
 憤る一人を他の二人が押さえつけ、男達は怯えた様子でじりじりと後ずさっていく。そうして表通りまであと少し、というところまで辿り着いた辺りで急に威勢を取り戻した三人は、
「おいソーニャ、今日のところは見逃してやるよ」
「畜生、てめぇ覚えてやがれっ!」
 などという捨て台詞を残し、すたこらと走り去っていった。
 その逃げ足の速さに呆れつつ、ソーニャは手にした籠を抱え直す。今日の売り上げを巻き上げられずに済んで本当に良かった、とほっとした矢先、
「もういいか?」
「らう、おわった?」
 物陰からひょい、と顔を覗かせた二人の少女に、ソーニャは目を丸くした。
「ああ、いいぞ」
 男の声に答え、足早に駆け寄ってくる少女達。一人は大きな帽子を、もう一人は柔らかな金髪をしきりに揺らし、男のもとへとやってくる。
「見事な逃げ足だったなあ」
 感心したような声を出しているのは、大きな帽子を被った少女。ソーニャよりは年上だろう彼女は紫色の瞳をきらきらと輝かせて、あっという間に三人を地面に沈めた男の腕前をしきりに褒めたてている。
「らう、つおい!」
 一方、男の足にしがみついて楽しげにはしゃいでいるのは、まだ五、六歳だろう柔らかな金髪の少女。こちらは見つめてくるソーニャに興味を覚えたのか、小鳥のように小首を傾げてみせた。
「だぁれ?」
 可愛らしい声に、張り詰めていた緊張の糸が解ける。強張っていた顔に笑みが戻り、そしてソーニャはようやくお礼の言葉を口にすることが出来た。
「あの、本当にありがとうございました。わたし、ソーニャっていいます」
「るふぃーり♪ いもうと!」
「姉のローラだ」
 嬉しそうに名乗る二人の少女。そんな彼女らを横目に一人黙々と頭布を直していた彼は、悪戦苦闘の末になんとか結び目を整えると、じゃあな、と手を振って踵を返そうとする。
「待って! あ、あの、お礼を……」
 慌てて呼び止めると、男はなぁに、と笑ってみせた。
「大したことしたわけじゃないんだ、気にすんな」
「でも……」
「本当に気にしないでくれ。そもそも、あんな奴らが野放しになっていることがおかしい。全く、警備隊は一体何をやっているんだ? 人々の安全を守ることこそが彼らの使命だろうに」
 自分のことでもないのにそう憤慨してみせるのは、ローラと名乗った少女。確かに彼女の言う通りだ。いつもなら警備隊が四六時中ここらを見回ってくれているから、奴らも大っぴらに絡んでくることはない。それなのに……。
「警備隊の人達ったら、あの怪盗を探すのに躍起になってて、わたし達のことなんかそっちのけなんだから」
 いやになっちゃうわ、とぼやくソーニャの前で、彼らは何とも気まずそうな顔をする。何かおかしいことを言っただろうか、と首を傾げたソーニャだったが、男はすぐに表情を和らげて、何事もなかったように話を変えた。
「ところで、この辺りでいい宿屋を知らないか? 正門近辺の宿はみんな満室だって言われてな、さっきから探してるんだ」
 それなら、とソーニャは一軒の心当たりを挙げた。あまり上等とは言いがたい宿だが、男はそれで充分だと頷く。一方、二人して何だかんだとはしゃいでいた少女二人は、ふとソーニャの籠の中身を覗き込んで、
「これ、なぁに?」
「蝋燭と、あとはなんだ、これは糸か? ソーニャは何をしている人なんだ?」
 そう尋ねられて、ソーニャはつい、珍しいものを見るような目で姉の方を見上げた。
「わたしは明かり売りよ。蝋燭や角灯の芯なんかを売ってるの」
 魔法の照明があまり普及していない北大陸では、どんな小さな町にも一人は存在する行商の一種だ。これから日が伸びるにつれ需要は減るものの、蝋燭一本も売れないという日は滅多にない。儲けは微々たるものだが確実に収入を得られ、力を必要としないからソーニャのような子供でもなんとかやっていける。
「なるほど、色々な商売があるのだな」
「そういうことだ。ほら、行くぞ」
 妙に感心している少女の背中を叩いて、男はくるりと踵を返した。
「もっと、みるぅ!」
「私ももう少し、ソーニャと話がしたいぞ」
「あほ。日が暮れるまでに宿を取らないと、町中で野宿する羽目になるぞ。早く歩け」
「ぶぅ~」
 二人をどやしつけて表通りへと歩いていく男。途中、何度も振り返っては手を振ってくる少女達の名残惜しそうな顔に、ソーニャは少し迷ったものの、すぐに彼らを追いかけて走り出した。
「待って! 宿まで案内するわ」
 悪い人ではなさそうだし、何より助けてもらった恩もある。駆け寄ってきたソーニャに、男は助かるよ、と屈託のない笑顔を覗かせ、妹の方は嬉しそうに小さな手を伸ばしてきた。
「そーにゃ、いっしょ、いく?」
「宿屋さんまでね。この辺は道が入り組んでるから」
 そうして、小さな手を握りしめ、二人の少女が発する様々な質問に答えながら歩を進める。
 何度目かの角を曲がった時、唐突に視界が開け、通りの向こうに沈む夕日が目に飛び込んできた。思わず目を逸らした拍子に、ふと隣を歩く男の背中が目に留まる。
(黒い、髪……?)
 色鮮やかな頭布に気をとられて気づかなかったが、首の後ろで一本にくくられたその色は、まるで夜空のような深い闇の色をしていた。この辺りではあまり見かけない髪の色だ。
(うわあ、いいなあ)
 自分のお下げ髪に目をやり、小さくため息をつく。母親譲りの茶色い髪が嫌いなわけではないが、この国に生まれた女なら誰しも一度は、初代ローラ姫のような緑なす黒髪に憧れを抱くものだ。
 そんな珍しい髪の色に見とれているうちに、うっかりお目当ての宿屋を通り越していたらしい。慌てて足を止めると、ソーニャは行き過ぎてしまった一軒の建物を指差した。
「ここよ」
 煉瓦造りの建物はかなりの年月を感じさせる。その開け放たれた玄関の上には、これまた年代物らしい看板がぶら下がっていた。入ってすぐの帳場には顔見知りの従業員がいて、客と気づいていそいそと出迎えにやってくる。
「ソーニャ、お客様かい?」
「そうよ。正門の方は満員なんですって」
「そりゃあ難儀なこった。でもご安心、うちならまだ充分に空いておりますよ。豪華絢爛なお部屋とは言えませんが、夜露を凌ぐには充分でさぁ。それに今ならうちの料理人自慢の晩飯を熱々のうちに食べられると来た! これはもう、お泊りになるしかないでしょう! ねえ?」
 よく回る舌に苦笑いを浮かべ、男は頼むよ、と頷いてみせる。
「はい、三名様でお泊りですねえ。どうぞどうぞ!」
 促されるままに扉へと歩きかけて、男はふとソーニャに視線を向けた。
「案内してくれてありがとな。もう暗くなる、気をつけて帰れ」
 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その瞳はとても優しくて、ソーニャはこくんと頷いて踵を返した。男の言った通り、西の空には夕闇が迫っている。完全に暗くなる前に家へ帰ろう。そして、みんなに話してあげるんだ。まるで風のように颯爽と現れてソーニャを助けてくれた、風変わりな旅人のことを。
(そう言えば、名前を聞くのを忘れたわ)
 今更聞くのもおかしいかしら、と思いつつ振り返ったその時、開け放たれた扉の奥から、宿帳を確認する従業員の声が響いてくる。
「ええと、ラズ=ウルク様、でよろしいんですね?」
「ああ。部屋は一部屋でいい。すぐ食事に出来るか」
「もちろんですとも!」
 ラズ=ウルク。不思議な響きを持つその名前を胸に刻み込んで、再び歩き出す。大分遅くなってしまったから、きっと家族は心配していることだろう。
(早く帰って、みんなに話してあげなきゃ!)
 夕空には気の早い月が顔を覗かせ、店の入り口には明かりが灯り始める。
 弾むような足取りで家路を辿るソーニャを追いかけるように、闇の帳が町を包んでいった。