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第五章[3]

 扉を開けた途端、耳に飛び込んできたのは、朗らかに響く少女の笑い声。
 すっかり聞き慣れた声は、いつになく浮かれていて、まるで祭りにはしゃぐ幼女のようだ。
「また無駄話してやがるな」
 誰とでもすぐに打ち解けてしまう彼女が、道を尋ねるつもりでうっかり話し込んでしまうのは常だったが、それにしても今日は随分と話が弾んでいるようだ。
 いらっしゃいと声を掛けて来た女将に待ち合わせだと告げ、声のする奥の席へと向かう。てっきり女将と話し込んでいるのだと思ったが、どうやら相手が違うらしい。
(哀れな犠牲者はどこのどいつだ……?)
 仕切りの向こうをひょいと覗き込んで、思わず目を見開く。
 視線に気づいて顔を上げたのは、燃え立つような赤毛の女性。年の頃は二十代前半か、涼やかな目元のほくろが実に色っぽい。
 女性は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、声を上げるようなことはせず、向かい合って座る少女の手をそっとつついた。それでようやっと隣に立つラウルの存在に気づいたらしい少女は、それまでの勢いそのままに椅子から立ち上がると、ふんぞり返ってこうのたまうではないか。
「用心棒! 遅かったじゃないか! いつまで経っても帰ってこないから、心配したんだぞ」
 嘘をつけ、と思いつつ、はいはい悪かったなと適当にあしらいながら、さり気なく赤毛の女性に視線を走らせる。
 どこぞの熱血竜を思い出させる炎のような髪は緩やかに、しかし上品に結い上げられており、抜けるように白い肌は上質の陶器のように滑らかだ。質素だが仕立てのいい服はよく見れば旅装束だし、茶器を傾ける仕草にもどことなく品がある。その垢抜けた雰囲気からして、間違っても宿の看板娘や一人旅の冒険者といった様子ではない。
「――そちらの美女は?」
「メアリアだ! ほら、前に言っていただろう? 私の侍――」
 本人が口を開くより早く、興奮した様子でまくし立てる少女の口を大急ぎで塞ぎ、ラウルは眉を吊り上げて囁いた。
「大層なご身分だな、お前は。今の立場を思い出せよ」
 もがもがと喚いていた少女がその一言でぴたりと黙り込んだので、やれやれと手を離す。そしてこほん、と咳払いをした少女は、今度は慎重に説明を始めた。
「ええと、その、このメアリアは、私の世話をずっとしてくれた、姉のような存在なんだ!」
 どうだ! と言わんばかりの少女。その傍らで、優雅に会釈をするメアリア。
「メアリア=ロートウィックと申します。この度はお嬢様が大変お世話になりまして、本当にありがとうございます」
 そつのない自己紹介は、さすがというべきか。この『お嬢様』の面倒を長年見てきた者だけのことはある。
 しかし、その『お嬢様』はまだ不満顔だ。
「お嬢様はよせ。ローラでいいと言ったろう?」
「せめてもの妥協案だと言ったでしょう? これ以上は譲れません」
 さらりと返すメアリア。納得が行かないと言わんばかりに唸っている少女を横目に、ラウルは失礼、と空いた椅子に腰掛け、そして改めて自己紹介をした。
「あんたのお嬢様の用心棒を仰せつかった風来坊だ。ラズでも用心棒でも、好きに呼んでくれればいい。育ちが悪いもんで、かしこまった喋りが苦手でね。あんたのお嬢様にも大分荒っぽいことを言ってるが、まあそこは勘弁してくれると嬉しいな」
 わざと砕けた物言いをしてみたが、聡い侍女は眉一つ動かさなかった。むしろ楽しそうに、いえいえと首を振る。
「私も片田舎で育った身ですから、どうぞお気遣いなく。お嬢様もこの通り、いつまで経っても少年のような言葉遣いを改めようとなさいませんし、遠慮はいりませんわ」
 さり気なく苦言が練りこまれている辺り、さすがである。それを分かっているのかいないのか、少女は興奮した様子で、聞いてくれ用心棒、と詰め寄ってきた。
「メアリアはな、私を心配してここまで追いかけて来てくれたんだ! あのあと――」
 長くなりそうな話に、ちょっと待てと釘を刺す。
「話はあとだ。出立の準備をしてくれ。顔馴染みが気を利かせてくれてな、トゥール行きの馬車に同乗させてくれることになったんだ」
 出鼻をくじかれて不満顔の少女に水袋を押しつけ、水をもらってこいと言いつけてから、改めて赤毛の侍女へと向き直ったラウルは、急展開に目を丸くするメアリアにすまん、と頭を掻いた。
「盛り上がってたところに水を差して悪いが、時間がないんでね。詳しい事情は道々聞かせてもらうとして、だ。あんたはこれからどうするつもりだ?」
 率直な問いかけに、メアリアは迷いなく答えた。
「ご迷惑でなければ、同行させてくださいませ。その方が追手を欺けるでしょうし、私もお嬢様の旅を見届けたいのです」
 お願いします、と頭を下げられて、やめてくれよと手を振る。
「ついてくるも来ないも、あんたの自由だ。目的地は目と鼻の先だしな。それじゃ、悪いがあんたもすぐに出立の準備をしてくれるか?」
「はい、すぐに。それと、私のことはどうぞメアリアとお呼びくださいませ」
 にっこりと微笑まれ、これは失礼と大仰に一礼してみせるラウル。
「初対面の女性にあんた呼ばわりは無礼千万だったな。それじゃメアリア、準備をよろしく。俺はちょいと外で朝食を調達してくるから、出立の準備が出来たらあいつと一緒に宿の外で待っててくれ」
 それじゃあなと手を振り、足早に宿を出て行くラウルの背中をじっと見つめていたメアリアだったが、すぐに我に返って立ち上がる。荷物は上の階だ。急いで取ってこなければならない。
 足早に階段へと向かうメアリアに、ちょうど戻ってきた少女が慌てた声を出した。
「メアリア? どこへ行くんだ? 用心棒はどうした?」
「用心棒さんは朝ご飯を買いに行くと仰って、出て行かれました。出立の準備が出来たら宿の外で待っていてくれ、とのことですわ」
 途端、ぷうと頬を膨らませる少女。
「朝ご飯を買ってくると言っていたくせに忘れるなんて、酷いヤツだ」
 自分のことは棚に上げ、ぷんぷんと怒る『お嬢様』に苦笑をこぼしつつ、荷物をまとめてきますと言い置いて階段を上がる。
「メアリア! 私に手伝えることはないか?」
「大丈夫ですよ、荷物と言っても少しだけですから。先に外へ行って、待っていてください」
「分かった」
 素直に頷く少女に微笑んで、階上へと消えていくメアリア。その軽やかに揺れる裾を見送って、少女もまた、席に置きっぱなしにしていた自分の荷物を担ぎ直すと、さてこの水袋はどこに括りつけたらよいものかと思案を巡らせ始めた。

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