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第五章[4]

 舗装などされていない田舎道を、土埃を上げながら荷馬車は進む。
 その乗り心地が存外悪くないのは、荷物が酒樽ということもあって速度を出していないからだろう。慎重に運ばなくては、折角の酒の味が落ちてしまう。
 ガタゴトと単調な拍子を刻む幌馬車の中、ぎっしり詰め込まれた酒樽の隙間にどうにか座り込んで、三人は朝食がてら情報交換に勤しんでいた。適度な騒音と他人の目を気にすることのない環境は、内緒話をするには実にうってつけだ。
「……というわけで、ローゼル一座と別れを惜しみつつシグルの町を後にした私達は、再び街道を北上し、とうとうエンリカまで辿り着くことができたんだ!」
 メアリアにせがまれるまま、王都脱出からエンリカまでの壮大な旅路を朗々と語った王女は、傍らの男がげんなりとした顔で揚げパンをかじるのを見て不思議そうに首を傾げた。
「どうした用心棒? 顔色が悪いぞ」
 誰のせいだと怒鳴りたかったが、その気力すらない。彼女の語った「冒険譚」は一冊の本にまとめたいくらいに壮大で夢の溢れるものだったが、その帯には大文字で『この物語は架空のものです。実際の人物及び団体には一切関係ありません』という注釈をつけなければならないような代物だったから、頭痛を通り越して眩暈すら覚えるのも無理はないだろう。
「……今の話は忘れてくれ。こいつの妄想だ」
 疲れた口調で手を振るラウルに、メアリアはご心配なくと笑ってみせた。
「はじめから三割ほど差し引いて拝聴しておりますから」
 思わず吹き出すラウルの横で、ひどいじゃないかと頬を膨らませる王女。しかし、すぐに機嫌を直してメアリアにずずいと迫る。
「さあ、今度はメアリアの番だぞ。あの夜――東の渡り廊下で落ち合えなかった時から、ずっと心配していたんだからな。もしかして、企みが露見して先に捕まってしまったんじゃないかとか、隠し通路で迷って出られなくなってしまったんじゃないかとか……」
「ローラ様ではあるまいし、いくらなんでも迷子になったりはしませんよ」
 むう、と唇を尖らせる王女を楽しそうに見つめ、そしてこほんと咳払いを一つしてから、メアリアは静かに語り出した。


 王女が怪盗《月夜の貴公子》を装って城を飛び出したあの日。あの満月の夜が全ての始まり――ではない。
 あの脱出劇から現在に至るまでの旅路は、すべて一年以上前から計画されていたことだと、メアリアは懐かしそうに語る。
「私がローラ様から相談を持ちかけられたのは、ソフィア様が亡くなられて半年ほど経った頃でしたか。『理由は話せないけれど、王都からトゥールの村まで、誰にも王女だと悟られずに旅をして戻ってくるにはどうすればいいか』ということでした。そこから二人で色々と考えた結果、怪盗《月夜の貴公子》という架空の存在を作り出し、誘拐されたように見せかけて王城を脱出することにしたのです」
 そのためにはまず、怪盗《月夜の貴公子》として存在を知らしめる必要がある。故に、王女は黒髪のかつらを被って城下町を飛び回り、貴族達から「初代ローラ王女の宝」を奪って回ったわけだ。
 素人の小娘に翻弄された貴族や王都守備隊の面々にとっては迷惑極まりない話だが、企んだ当人達はまるで芝居の感想でも語るかのように当時を振り返る。
「そうそう、オイラー男爵の屋敷に忍び込んだ時が一番厄介だったな。首輪を飼い犬の首にかけて守らせていて……」
「あら、ホラント公爵の時も大変だったと仰っていませんでした? 当主が勘違いをしていて、全く違うものを初代ローラ姫の宝だと吹聴して回っていて……」
「ああ、小さい姫が人形の着せ替えに使っていたやつが本物だった時だな。お宝の反応が違う部屋からするからおかしいと思ったんだ」
 実に楽しげに語っていた王女だったが、ふと懐かしそうに目を細める。
「怪盗ごっこも楽しかったが、トゥールまでの行程を考えるのも楽しかったなあ。地図を広げて、案内書と首っ引きで、こっちの方が近道だとか、あそこは名物料理があって目の毒だから迂回しようとか……地図の上を一緒に旅しているようだった」
「ローラ様は好奇心旺盛ですから、あちこちに引っかかって先に進まないようでは困りますもの」
 澄まし顔のメアリアに、なるほどと苦笑を漏らすラウル。道理で王女の示す道程が的確だったわけだ。
「箱入り娘が提案するにしてはよく考えられていると思ったら、指南役がいたわけか」
「それだけじゃないぞ。城を抜け出す方法も二人して考えたんだ。まあ、ちょっと……いやかなり、誤算はあったけど」
「全くだな。巻き込まれた俺の身にもなれ」
 その言葉に、心底申し訳なさそうに頭を下げるメアリア。
「その件につきましては、大変申し訳なく思っております。私が予定通りに動けていれば……」
 そう、ここからが本題だ。
 事前準備も滞りなく終わり、あとは本命の「王女誘拐」を待つのみとなった満月の夜。実際のところ、王女は自ら城を抜け出しているわけだが、誘拐らしく見えなくてはここまでの苦労が水の泡だ。そこで二手に別れ、「王女が怪盗にさらわれた」という体裁を整えることにした。
「私は隠し通路を使って東の塔へ向かい、かねてより用意しておいた眠りの呪符で警備兵を眠らせました。そこまでは良かったのですが……」
 あとは王女を待つばかりとなったところを、たまたま通りかかった召使いに見咎められてしまったのだとメアリアは悔しそうに語る。
「幸い、どうにかその場を言い繕うことは出来たのですが、手が空いているなら晩餐会の後片付けを手伝ってくれと言われてしまって……。そこで拒否するのも変ですし、このまま立ち話をしていたらローラ様が来てしまうかもしれないと思い、とにかくその場を離れることにしたんです」
 抜け出す機会を窺っているうちに城内が騒がしくなり、警備兵達が右往左往するのを見て、王女が脱出に成功したことを悟ったメアリアは、動揺する同僚達を宥めつつ、内心では胸を撫で下ろしていたという。
「どうにか無事に脱出されたと分かってほっとしましたわ。地下道で迷われたらどうしようと思いましたが」
 図星を指された王女はわざとらしく咳をして言及を避け、さり気なく話題を逸らした。
「それにしても、よく一人で追いかけてこられたよなあ。私なんて、用心棒がいなかったらここまで辿り着けたかどうか分からないぞ」
「お前なあ。最初は一人旅の予定だったんだろうが」
「抜け出してしまえばこっちのもの、何とかなると思ってたんだ」
 楽観主義もいいところだ。呆れ果てるラウルの目の前で、メアリアも苦笑を隠せないでいる。
「私には追っ手もかかっておりませんでしたし、人目を憚る必要もありませんから、さほど大変ではありませんでした」
 朗らかに語るメアリアだったが、若い娘の一人旅は危険極まりないものだ。よくぞ無事に辿り着いたと感心する一方で、そんな危険を冒してまで追いかけてきた理由が気にかかる。
「しかし、どうしてこいつを追いかけてきたんだ?」
 さりげない問いかけに、メアリアはそれまでの、どこか楽しそうな表情をすいと拭い去り、居住まいを正す。
「申し訳ございません。役目を果たせませんでした」
「どういうことだ?」
 小首を傾げる王女の、そのきらきらと輝く双眸を真っ直ぐに見据え、そしてメアリアは悲痛な面持ちで続く言葉を搾り出した。
「すでにお聞きかもしれませんが――国王陛下は何者かに《死の眠り》の呪いをかけられ、覚めぬ眠りに就いておられます。あの夜からずっと――」
 王女の顔が白く凍りつく。そしてその傍らで、ラウルもまた顔色を失った。


 国王が襲われたのは闇の三刻過ぎ、王女が怪盗にさらわれたのとほぼ同時と推測される。推測しかできないのは、目撃者がいないせいだ。寝室を守る近衛兵もまた術によって眠りに就かされ、巡回の兵士に叩き起こされるまで前後不覚に陥っていたのだから。
 そして異常を察知した警備兵が駆け込んだ王の寝室で、ヴァシリー三世は絨毯の上に倒れていた。外傷はなく、ただ眠っているだけと思われた国王は、あれから一月経った今も目を覚まさない。
「ハルマン高司祭様も、かの呪いを解くことはできませんでした。民を無闇に混乱させぬようにと、表向きは心労で伏せていることになっておりますが……」
 いかにノレヴィス公爵が見事な手腕で代行を務めても、国王が長く伏せ、王女がさらわれたままとあっては面目が立たない。国民の不安も募る一方だ。
「あれから一月以上、父上は眠ったままなのか……」
 力なく項垂れる王女の横で、ラウルは頤に手を当て、じっと考え込んでいる。
「せめて、手紙だけでもお渡しできれば良かったのですが、それも叶わず……。結果、用心棒さんに濡れ衣を着せる羽目になったばかりか、今では国中に指名手配まで……」
「いや、メアリアのせいではないのだから、気に病むことはない」
 そう慰めはしたものの、王女の表情は暗い。
 計画を思いついた時は、ちょっと騒ぎを起こして城の外に出られさえすれば、あとは何とかなると思っていた。誰にも迷惑をかけず、使命を果たせると思い込んでいた。そんな自分の浅薄さを思い知り、恥かしさと悔しさで胸がいっぱいになる。
「……私は本当にわがままで世間知らずの甘えん坊だ。こんなにも皆に迷惑をかけて、それなのに一人では何も出来なくて、メアリアや用心棒に辛い思いをさせて、しまいには父様にまで……!!」
「ローラ様、私はいいんです。ちっとも迷惑だなんて思っていませんもの。用心棒さんだって、本当に迷惑だと思っていたら、ここまで同行して下さらなかったでしょう」
 沈痛な王女の独白に、慌てて言い募るメアリア。同意を求めようと振り返れば、ラウルは二人の会話など耳に入っていない様子で、何やらブツブツと呟いている。
「……あれがこの国にあるとも思えないし……じゃあ誰が……?」
「用心棒?」
「ん? ああ、いや……」
 我に返ったように顔を上げ、目を瞬かせたラウルだったが、すぐに真顔になって二人へと向き直る。その、まるで抜き身の刃のような鋭い視線に射抜かれて、さしものメアリアも一瞬怯んだように身をすくませた。
「――メアリア、国王が襲われたのは闇の三刻過ぎと言っていたな」
「は、はい。故に、まず王を襲った怪盗が王女を誘拐し、そして逃走したのだと、ヴァレル隊長はお考えのようですわ」
「まあ、状況証拠だけ見ればそうなるよな」
 しかし、現実にそのようなことは起きていない。ならば、国王を襲い禁呪をかけたのは一体何者なのか。
「その、なんとかいう呪いは、そんなに解くのが難しいものなのか?」
 困惑した様子の王女に、ラウルは眉間に皺を寄せて苦々しく答えた。
「かなり難しいだろうな。真っ当な神官ならまず無理だ。禁呪を解くには、その禁呪そのものを理解していないといけない。しかも《死の眠り》ときたら、閲覧すら神殿長の許可が要る第一級禁書にしか載っていない呪文だし、その本自体、中央大陸の本神殿にしか保管されていないはずだ」
「……それじゃあ、この国にはその禁呪を解くことの出来る者はいないということか」
 悔しそうに歯噛みするローラの前で、ラウルは何故かばつの悪い顔をして、いいやと首を振った。
「いるには、いる」
「誰だ!? 知っているなら紹介してくれ!」
 掴みかからんばかりの勢いで言ってくる王女を待て待てと押しとどめ、困ったような照れくさいような、珍妙な表情になったラウルは、逡巡ののち、まさに渋々といった様子で口を開いた。
「――俺だよ」
「なんだって!?」
 大声を上げた瞬間、まるで声に驚いたように馬車が大きく揺れて、よろめく王女。慌てて手を差し伸べたラウルの、その長旅ですっかりくたびれた外套の合わせ目から覗くユークの聖印に、ああ、と間の抜けた声を上げる。
「そう言えば、用心棒はれっきとしたユーク神官だったな。すっかり忘れていた」
「忘れるな! つーかお前、今の今まで誰に禁呪の説明を受けてたと思ってるんだ!」
 むっとしながら、支えていた手を離すラウル。気が抜けたようにぺたんと座り込んだ王女は、いやほら、用心棒は物知りだから、などと苦しい弁明をしつつ、それにしても、と眉をひそめる。
「なんで用心棒がそれを解けるんだ!? というより、どこでそんなもの覚えてきた?」
 至極もっともな問いかけに、いやその、とラウルは言葉を濁らせる。まさか、昔こっそり本神殿の書庫から件の禁書を持ち出して読んだことがある、などとは言えない。ぽりぽりと頬を掻きながら、慎重に言葉を選んで弁明する。
「その、昔、ちょっと……必要に迫られてな。その禁書を読んだことがあるんだよ。だからその術も知ってるし、解呪も恐らく可能だ。まあ、実際にやったことはないから確実とは言えないが……」
 呆気にとられる王女を前に、ラウルは些かげんなりした顔で、だから、と続けた。
「俺ならその呪いを解けると思うんだが、まず対象者が目の前にいないと無理だ。しかし、そうそう近寄らせてなんてくれないだろうし、大体そんなこと言おうもんなら、ますます俺が犯人扱いされちまう」
 これ以上汚名を着せられるのはまっぴらごめんだ。しかし、《死の眠り》は放っておけばやがて衰弱し、最悪の場合は死に至る危険な術。首都の分神殿を預かるハルマン高司祭ですら解けなかったとすれば、恐らくこの北大陸にはラウルのほかに解呪できるものはいない。
(いや……一人はいるか。確実にな)
 それは、国王ヴァシリー三世に禁呪をかけた張本人だ。禁呪を操ると言えばまず思い浮かぶのは、因縁もある『影の神殿』だが、昨年の一件で国内の勢力は一掃されたはずだ。
(残党がいたか? いや、それでも国王を狙う理由がないな。王家に恨みを持つ誰か……?)
 そうなるとラウルにはお手上げだ。むしろメアリアの方がこういった『お家事情』には詳しいだろう。
「なあ、メアリア。禁呪のことはひとまず置いておいて、だ。誰か国王か王女に恨みを持っているような人間に心当たりはないか」
 率直な問いかけに、しかしメアリアは困惑した様子で首を横に振る。
「これを王位継承権を巡る争いと考えるなら、疑うべくは継承権の上位に連なるお方でしょうが……」
 その筆頭は言うまでもなくロジオン王子とローラ王女だが、市井で噂されているような後継者争いは、実際のところ行われてなどいないとメアリアは断言した。それは王女の口からも聞かされていたことだから、ラウルもそうだよな、と相槌を打つ。
「ただ……臥せりがちのロジオン様よりも、生まれてこの方風邪一つひいたことのないローラ様を推す方もいらっしゃいますし、宮廷行事をすっぽかして市井の者と戯れてばかりのローラ様には国を任せることなど出来ないと考える者もおります」
「メアリア……褒められている気がしないぞ」
「あら、私は事実を述べたのみですわ」
 王女の抗議を柳に風と受け流し、真面目な顔で続けるメアリア。
「実務的な面を思えばノレヴィス公爵を、とお考えの方もいらっしゃいます。公爵は亡くなられた第一王妃エディセラ様の弟君ですが、王家の血を引く方ではございませんから、筆頭公爵といえど継承順位は決して高くはありません。他にも、公爵家へ降嫁された国王陛下の妹君もいらっしゃいますし、そのお子様方の中には成人されている方もおられます。言い出したらきりがありませんわ」
 やれやれと頭を掻いて、ラウルは大仰に溜息をついてみせた。
「王家ってのは色々と面倒だな。俺は一般市民で本当に良かったと思うよ」
「大げさだな。何も面倒なことはないぞ。兄上が次の国王になって、私はどこかに嫁に行く。それだけのことじゃないか」
「お前を嫁にもらってくれる、心の広い男が見つかればの話だろうが」
 真顔で指摘されて、さすがに抗議の声を上げようとしたローラだったが、気心知れた侍女までもが「本当ですねえ」と溜息をつくので、とうとう河豚のように膨れてそっぽを向いてしまった。
 その子供じみた仕草に、ここにはいない金髪の少女の面影を無意識に重ねてしまい、やれやれと苦笑いを浮かべながら、紅茶色の頭をわしっと掴む。
「そう膨れるなよ。ちょっとからかっただけだ」
 柔らかな髪をくしゃりとかき混ぜ、ラウルは見事に脱線した話を元に戻すべく、表情を引き締めた。
「とにかく、今の俺達に出来ることを考えよう。どう頑張ったって、ここから王都まで戻るよりトゥールに行った方が早い。一刻も早くトゥールの村で目的を果たして、さっさと王都へ引き返そう」
「そうだな」
 言葉少なに、しかし断固たる決意を込めて、しかと頷くローラ。その瞳には最早、迷いはない。
「あの満月の夜から一月余り……。本当に、本当に長い道のりだった。でも、それも今日で終わる。いよいよなんだ、メアリア」
「はい。ローラ様」
 感慨深げに頷き返すメアリア。そのまま、ひしと手を取り合って歌い出しそうな雰囲気を、ラウルが放り投げた揚げパンの袋が見事にぶち壊す。
「ほらほら、感動的な台詞は目的を果たしてからにしろよ。着く前にさっさと飯を食って、荷物の整理をしておけ」
「……用心棒。最近、私の扱いがぞんざいじゃないか?」
「気のせいだろ。ほら、さっさと腹ごしらえをしておけよ。トゥールに着いたはいいが、腹が減って動けませんでした、じゃ話にならん」
 至極もっともな言葉に気を取り直し、揚げパンにかじりつく王女。従順な侍女も主に倣い、しかしこちらは上品にパンを千切って口に運ぶ。
 一方、さっさと腹ごしらえを済ませていたラウルは、籠もった空気を入れ替えようと幌の合わせ目に手を差し入れた。
 途端に飛び込んできた風は氷のようにひんやりとして、ここが北限の地であることを改めて思い知らされる。
 アシュトの話では、トゥールは小高い丘を越えた先、小さな湖のほとりに佇む村だという。
 幌の合わせ目からぐいと身を乗り出して前方を窺えば、小高い丘が間近に見えた。
 目指すトゥールの村は、もうすぐそこだ。

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