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第五章[20]

 もう朝ですよ、と優しく告げる声を聞いた気がして、ぱちりと目を開く。
 まだ薄暗い部屋はしんと静まり返っていて、では先程の声は誰のものだったのかと首を傾げたところで、隣の寝台が視界に入った。
「メアリア!?」
 思わずがばっと上体を起こし、そっと隣を窺う。
 狭い部屋に急きょ運び込まれたもう一つの寝台は、皺ひとつなく整えられていた。慌てて辺りを見回せば、昨夜床に散らばっていた荷物はすっかり姿を消しており、そして彼女自身が散らかしたままにしていたはずの物もまた、きれいにまとめられて部屋の片隅に置かれている。小机の上には脱ぎ散らかした旅装がきちんと畳まれて、寝台の脇には靴が揃えてあった。
 それなのに、それらの作業をてきぱきとこなした人物の姿だけが、そこにない。
「メアリア!!」
 寝台から飛び降り、素足のまま部屋を飛び出したところで、ちょうど隣の部屋から出てきた男とぶつかりそうになって、互いの口から悲鳴が飛び出した。
「うわあっ!!」
「うぉっ、危ねえなあ、ちゃんと――」
「用心棒! メアリアは!?」
 縋りつくような視線に、口から飛び出しかけた文句を飲み込んだラウルは、その必死な形相を見下ろして小さく息を吐いた。
「――先に行くってよ」
 それを聞いた途端、ほっと表情を緩ませたローラは、なぁんだと気の抜けた声を出す。
「そうか。それならいいんだ」
 何か納得したような顔で頷いて、そこでようやく自分の恰好に気づいたらしい。寝間着姿を見られることに恥じらいを覚えるような彼女ではないが、とても今すぐ出立できる恰好でないことはすぐに飲み込んだようだ。
「すぐに支度する!」
 勢いよく閉じた扉を見つめ、やれやれと頭を掻いたラウルは、担いでいた荷物を床に降ろすと、のろのろと壁にもたれかかった。
(……そっちを選んだか)
 昨夜、夜風に混じって聞こえた声。その単語を繋ぎ合わせれば、彼女が何の役目を担っていたかは容易に想像がつく。
(しかしあの道具……そう簡単に手に入れられるもんじゃないはずなんだが)
 遠く離れたところと会話することが出来る魔具があることを教えてくれたのは、『北の塔』に住まう魔女姉妹だ。実際にその魔具を貸与され、こっぱずかしい合言葉を唱えされたことはまだ記憶に新しい。
 制作費用と手間がかかるこから世間一般には普及していないが、魔術士の塔やギルドには通信用の魔鏡が常設されていて、素早い情報交換や緊急時の連絡手段として役立てられていると聞いた。
 それを一介の侍女に携帯させ、事の次第を報告させていた人物――少なくとも、相当の財力または人脈を持っているとみて間違いない。
(相手は誰だったのか――まあ、いいさ)
 いずれにせよ、今はとにかく王都に向かうしかない。姿を消した赤毛の侍女がどこへ向かったのか、そしてこれから先、何が起こるのか――それを追及する暇すらも惜しい。

 約束の刻限まで、あと二十五日――。


「お気をつけて」
 見送りはいらないと言っておいたのに、気のよい村長夫妻はわざわざ村の入り口まで見送ってくれ、更には約束通り腕によりをかけた弁当まで用意してくれていた。
「ローラちゃんの好きなもの、たくさん入れておいたからねえ」
「ありがとう! 楽しみだなあ」
 満面の笑みで籠を受け取るローラの横で、ラウルは村長へと向き直って頭を下げた。
「お世話になりました」
「なに、こちらこそ村の憂いを拭い去っていただいたこのご恩、決して忘れません」
 伸ばされた手を力強く握り返し、そして声を潜める。
「……もしかしたら、近々警備隊がこの村にやってくるかもしれません。何か尋ねられたら、包み隠さず話して下さって構いません」
 おやおや、と眉を動かし、村長は別れを惜しむ女性陣を横目にとぼけた声を出す。
「隠し立てすることは何一つありませんでなあ。神官様はまこと村の救世主であると、褒めちぎってやりますわい」
「……いえ、そこまでしていただかなくとも」
「この村のことは気になさらず。あなた方は、成すべきことを成されませ」
 全てを見通すような深い眼差しに、しかと頷いてみせる。その様子を満足げに見つめていた村長は、ふと思い出したように服の隠しに手を突っ込むと、何か小さな袋のようなものを取り出してラウルの手に握らせた。
「これをお持ちください」
 咄嗟に受け取ってしまってから、小さいながらも重量感のある小袋に首を傾げる。
「これは?」
「昨日、棚を整理していて見つけたんですが、まあソフィアの形見のようなものですわ」
 まるで朝食の献立を告げるようにさらりと言われたので、そうなんですかと頷きかけて、ぎょっと目を剥いた。
「そんな大層なものを受け取るわけには……!」
 慌てふためくラウルに、村長はいやいや、と手を振った。
「なに、そう大したものではありませんが、道中の暇潰しにはなるでしょう。わざわざ訪ねてきてくださったお礼です。ぜひお受け取り下さいませ」
 柔らかな、しかし有無を言わせぬ口調でそう言われてしまっては、無下に断ることも出来ない。戸惑いつつも礼を言い、袋を懐にしまい込む。それを見届けて、村長は未だ話の尽きない妻を優しく諌めると、節くれだった手をそっと伸ばし、紅茶色の頭を愛おしげに撫でた。
「また遊びにおいでなさい」
「……うん。ありがとう」
 そう頷いて、名残惜しげに踵を返す。そして歩き出した二人の背中に、ああそうだ、と楽しげな声が投げかけられた。
「アシュト殿によろしくお伝えください、卵神官様!」
 その言葉に目を瞬かせ、顔を見合わせる二人。
 逡巡の末、ラウルはひょいと肩をすくめると、片手を挙げてそれに応えた。
 そして振り返ることはせず、細い一本道を辿り始める。
「……気づいてたんだな」
「そうみたいだな。まったく、村長ってのは食えない人間ばっかりだぜ」
「??」
 小首を傾げるローラに、こっちの話だ、と苦笑を漏らし、さてと空を仰ぐ。薄曇りの空を低く舞う小鳥達。こういう時は雨が降りやすいと教えてくれたのは、話し出すと止まらない知識神の神官だ。
(……あいつら、今頃どこにいるんだか)
 首都で予期せず離れ離れになってしまった三人組だが、彼らも一人前の冒険者だ。ラウルが指名手配された後は独自に動いているはずだが、生憎とお互いに連絡を取る手段がない。
(こういう時に、あの魔鏡があれば……!)
 昨年末の一件で『北の塔』の魔女姉妹から貸与されたままの魔鏡は、メアリアの使っていた手鏡と違い、対になった鏡としか連絡が取れない代物だったが、本来はこういう時にこそ実力を発揮するのだろう。
 そんな便利道具は、昨年末から寝室の衣装箱にしまい込んだままだ。あの一件以来バタバタしていて、頼まれていた事後報告どころか、鏡の存在すら忘れていた。
(あのチビ魔女、忘れてたなんて言ったら怒るだろうなあ……。ん……? いや、待てよ……)
 何やら黙り込んでしまったラウルの袖を引いて、おずおずと話し掛けるローラ。
「なあ用心棒。まずはエンリカに戻るんだったよな?」
「ああ」
 硬い表情で頷いて、ラウルはおもむろに速度を上げた。
「時間との勝負かもしれない。急ぐぞ」
「え? 用心棒、ちょっと待ってくれ!
 あっという間に引き離されて、ローラは大慌てで白茶けた地面を蹴って走り出した。

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