第六章[3]
『……私は止めたのです! しかしナジード隊長が、私を村に置き去りに!!』
 水鏡の向こうから響く言い訳がましい報告に、ジェドーはやれやれと呟くと、握りしめていた杖を静かに持ち上げる。
「もうよい。別命あるまで待機せよ」
『そんなっ、こんな辺境の地で、どう――』
 喚き声がぷつりと途絶え、疲れた顔で杖を降ろしたジェドーは、勿体をつけるようにゆっくりと執務机を振り返った。
「勝手に捜索隊を解散した挙句、隊員のおよそ半数を連れて離反、と……。いかがされますかな、公爵」
「放っておけ。元より、捜索隊など形だけのものだ」
 驚いた様子も見せずに答えた公爵に、ジェドーもまた平然と言葉を返す。
「傭兵崩れに騎士のような忠誠心を期待する方が無駄、ということですなあ」
 喉の奥から乾いた笑声を響かせて、そして執務室の隅に控えるもう一人の人物へと視線を送る。
「いかがですかな、近衛隊長殿。貴殿とナジード隊長とは長い付き合いだったはずだが、此度の件について、どのようにお考えで?」
 からかうような声。しかし、壁際で直立した近衛隊長ヴァレルからの応えはない。
 近衛隊の鎧を身に纏い、微動だにしない姿は、まるで王宮の廊下に並ぶ鎧のようだ。
 そんな彼に、ジェドーは大仰な身振りまでつけて、ぺらぺらと喋り続ける。
「おやおや、ヴァレル殿はご友人思いでいらっしゃる。ナジード隊長には何か考えがあってのことだと、そう仰りたいのでしょうなあ。そうでしょう、そうでしょうとも。顔を合わせれば衝突ばかりしている貴殿らが、こんなにも互いを理解しているとは、実に興味深い。いやはや、人の感情というのはなかなか推し量れぬものですな」
 ひとしきり喋り倒して満足したのか、ジェドーは執務机へと向き直ると、どこか誇らしげに語りかけた。
「見張りをつけておいて大正解でしたな。王女の正体どころか、この茶番劇の幕切れまでも知ることが出来たのですから」
 茶番劇という単語に、僅かに眉を動かしたものの、それ以上の感情を表すことなく、公爵は机上に置かれた日めくりへと手を伸ばす。
「期限は六の月三十日。その日までに契約更新が終わらなければ――『奴』は消滅する。そうだったな」
 自らの手で剥奪した敬称はおろか、名を呼ぶことすら厭わしいとばかりに、公爵は『奴』と、そう呼んだ。その短い言葉に込められた怨嗟に気づきながらも、ジェドーは静かに頷いてみせる。
「その通りにございます。魔術士ギルドにはすでに通達を出しておりますし、そも魔族との契約が出来るほど高位の魔術士など、今のローラ国にはおりませぬ」
 平静を保てたのはそこまでだった。杖を持つ手が震えはじめ、紡がれる言葉に怒りがみなぎっていく。
「なにせ、この国から魔術士を排斥したのは、誰であろうソフィアとオーグの二人なのですからな!」
 憎しみに満ち溢れた声に呼応するように、その全身から蒼く滲み出る、魔の波動。可視化されるほどに練り上げられた力に、纏った長衣が大きくはためき、深く被った頭巾が捲り上がる。
「オーグよ、愚かなる老いぼれよ! あの時、この私を仕留めそこなったことを、今こそ後悔するがいい!」
 曝け出された醜い火傷の跡、それこそがジェドーを突き動かす、全ての源。
「落ち着け。その蒼き炎で何もかも燃やし尽くすつもりか」
 冷ややかな声に、はたと我に返ったかのように、杖を握りしめるジェドー。瞬時に、その全身から吹き出ていた魔力が掻き消えて、青く照らされていた執務室が再び優しい午後の日差しに包まれる。
「失礼、いたしました……」
 ぜいぜいと息を切らすジェドーを哀れむような瞳で見つめながら、公爵はふいと窓の外に目を向けた。
「あの日――お前を拾ったのは、まさに僥倖だった」

 十五年前――。
 公爵の屋敷のそばで倒れていた男を発見したのは、ちょうど勤務時間を終えて交代したばかりの門番だった。最初は浮浪者かと思い、邪険に追い払おうとしたが、その男が全身に火傷を負い瀕死の状態であることに気づき、慌てふためいて公爵に注進したのが、そもそもの始まりだった。
 どうにか一命を取り留めた男は、自らを宮廷魔術士ナイジェルと名乗った。そして訝る公爵に、こう訴えたのだ。『王妃の秘密を知ったが故に、消されそうになった』と――。
 彼が知ってしまった秘密。それは、公爵にとって世界が崩れ散るほどの衝撃をもたらした。
 しかし、もたらされたのは絶望だけではない。
 望むことすら許されなかった、ほんのわずかな希望が、絶望の闇を切り裂く一条の光となってもたらされた。
 いつ消えるともしれない、ほのかな光。それだけを支えに、この長い復讐劇を演じてきたのだ。

「あの神官が割り込んできた時はどうなるかと思ったが、今となっては感謝したいくらいだな。あのお転婆をうまく転がして、真実まで辿り着かせることが出来たのだから」
 王女が国王の子ではないという事実を裏付ける確たる証拠を見出せなかったことのが、この復讐劇を長引かせる要因となっていた。
 しかし、オーグが死に、ソフィアまでもがこの世を去った時。
 ソフィアが死の淵で取り付けた一つの約束こそが、全てを動かす鍵となった。
「我が娘の尽力も、どうかお忘れなきよう……」
 おずおずと付け足すジェドーに、分かっていると頷いてみせる公爵。
「あの娘を傍仕えとして潜り込ませることができたからこそ、あの脱出計画を利用することが出来たのだからな」
 それにしても、と口の端を引き揚げる公爵。
「お前に女がいたことすら驚きだったが、まさか子どもまで成していたとはな。娘を手駒に、と言い出した時は、とうとうおかしくなったかと思ったくらいだ」
「なに、魔術士とてただの人間、愛欲に溺れもすれば、子も成しますわい」
 開き直ったようなその口調に、公爵はおやおやと目を瞠ってみせる。
「子どもが生まれていたことすら知らなかったくせに、よく言ったものだ」
「それは仰いますな。よもや、度重なる求婚を断り続けた恋人が、子どもを身籠ったことすら連絡を寄越さず、そのまま産み育てていたなどと、思いも致しますまい」
 苦心して、ようやく行方を探し当てた時には、彼女はすでに流行り病でこの世を去っており、残された子どもは酒場の下働きとして扱き使われる毎日を送っていた。
「娘を、どこに奉公させても恥ずかしくないよう育てて下さった公爵様には、感謝の言葉もございません」
「なに、あの娘の素養が抜きんでていただけのことだ。今でもマルロに零されるぞ。手塩にかけて育てた優秀な人材を王宮に奪われた、とな」
 家令の名を出して僅かに微笑み、そしてついと手を顔の前に組む。
「しかし、あの夜以降、連絡が途絶えたきりなのだろう?」
「は、はあ……。連絡用の魔具が壊れたのかもしれません。もしや、連絡したことを気付かれて捕らえられたか、それとも……」
 顔を曇らせるジェドーに、公爵は表情一つ変えずに言い放った。
「役目を終えた道具の行く末を気に掛ける暇があるなら、一刻も早く奴の所在を突き止めることだ」
 その言葉にびくりと肩を震わせ、何か言おうと口を開きかけて、しかしジェドーはゆっくりと息を吐くと、ぐっと杖を握りしめた。
「……仰せのままに」
 掠れた声でそう答え、しかし、と付け加える。
「すでに、奴らに打つ手はございません。このまま自滅するのを待ってもよいのではありませぬか?」
 その言葉に公爵は、いいやと頭を振った。
「彼奴が滅する様をこの目で見ないことには、安心して夜も眠れんよ」
 冗談めかして答える公爵の瞳は、まるで星無き夜の如く。
 その底知れぬ闇に、無意識のうちに身を震わせながら、ジェドーはそうそう、と話題を切り替えた。
「手配書の賞金額に目がくらんだのでしょうな、賞金稼ぎ共が躍起になって奴らを探しているようですが、残念ながら有力な情報はなかなか上がってきませんなあ」
「なに、もとより期待などしてはおらんよ。手配書が出回ることで奴らの動きを牽制できればそれでよい。まかり間違っても、国王陛下に目通りを、などと城に押しかけてこられては困る」
 そこで初めて、公爵は片隅に控える近衛隊長へと視線を向けた。
「ヴァレル。今まで以上に警戒して城内の警備に当たれ。特に国王陛下並びにロジオン殿下の周囲は、鼠一匹たりとも近づけぬようにな。国王に仇なす魔物の侵入を許してはならん」
「御意」
 淡々と答え、踵を鳴らして執務室を後にするヴァレル。その背中に問いかけるように、ジェドーがわざとらしく声を上げる。
「離反したナジードの代わりに、新たな首都警備隊長を任命せねばなりませぬなあ」
「セイン神殿と相談せねばならんが、留守番を任されていた副隊長のライナーを据えることになるだろうな」
 執務机の上に置かれていた呼び鈴に手を伸ばし、軽やかに振る。間もなくやってきた侍従にセイン分神殿長を呼ぶよう申し付けて下がらせると、公爵はジェドーにも下がれと命じた。
「お前も少し休むといい。顔色が悪いぞ」
「お言葉ですが、公爵様も決して、顔色が良いとは申せませぬぞ。ロジオン殿下からも、根を詰めないよう釘を刺されておいでなのでしょう?」
 これは痛いところを突かれた、と苦笑を漏らして、再び呼び鈴を取り上げる。
「分かったわかった。少し休憩を取るとしよう。……ああ、紅茶と何か軽く摘まめるものを……おや」
 やってきた侍女が携えていた盆には、まさに今申し付けようとしていたものが載っていたものだから、公爵ばかりかジェドーもが目を瞠った。
「ロジオン殿下よりご伝言です。『叔父上がまた、食事も取らずに執務室に籠っておいでのようだから、そろそろ休憩を取って欲しい。お茶の一杯くらい飲んでも、執務に差し支えはないはずだから』とのことでございます」
 手際よく茶器を並べ、にっこりとほほ笑む侍女に、これは参った、と顔を撫でる公爵。
「殿下は何もかもお見通しか。分かった。これをきちんと片づければ、確かに休憩を取ったことをお前が証言してくれるのだな?」
「勿論ですわ。では後程、茶器を下げに参りますので、なるべくゆっくりとお召し上がりくださいませ」
 優雅に一礼して去っていく侍女を呆然と見送って、ジェドーはやれやれと肩をすくめた。
「殿下の慧眼には叶いませぬなあ」
「あの侍女の度胸にもな。ほら、お前も付き合え」
「は? 私がでございますか」
「茶器も菓子も、二人分用意されているだろう。一人で片付けるのは大変だ」
 それでは失礼して、と椅子に腰かけ、おずおずと焼き菓子に手を伸ばすジェドー。一口齧って、ほのかな甘みと香ばしい木の実の風味に、毒気を抜かれたように呟く。
「……旨いものですな」
 しみじみとした言葉に、どこか呆れたように鼻を鳴らす公爵。
「初めて食べたわけでもあるまいに」
「いえ……甘いものなど、久しく食べておりませんでしたから」
 懐かしそうに焼き菓子を頬張るジェドーを横目に茶器を傾けつつ、公爵は窓の外に目を向けた。
「……あと、半月……」
 長いようで短かった月日に思いを馳せ、溜息を溶かした紅茶を飲み下す。
「……あともう少し。もう少しです。……姉上」