第六章[4]
 雲間から覗く太陽が、起伏のない大地を優しく照らす。
 のどかな昼下がり。港町リトエルへと続く街道は、今日もなかなかの賑わいを見せていた。
 港に着いた荷物を運ぶ隊商や荷車。観光客を乗せた乗合馬車。幌なしの荷馬車は近在の農家のものだろう、新鮮な野菜を山積みにして、近隣の町へと向かっている。
 もちろん、金のない者は自らの足で街道を進むこととなるが、中には行き交う馬車を呼びとめて交渉を始める強者もいた。
「すまんねえ。こっちも前金もらっちまってるから、強く言えないんだよ」
「いや、こっちこそ無理言ってすいません」
 爽やかに頭を下げる若き旅人に手を振って、手綱を繰る御者。二頭立てのしっかりした馬車は定員八名の中型だが、現在の乗客は二人だというから、馬達も心なしか気楽な面持ちだ。
 土埃を巻き上げながら走り去っていく馬車を見送りつつ、少し離れたところで待機していた仲間のところに戻った青年は、途端に非難の声を浴びる羽目になった。
「なんだよ、結局は交渉決裂かよ!」
「任せとけって言ってたくせにー」
「いやあ、人のよさそうなおっさんだったから行けるかと思ったんだけど、残念ながら貸し切りなんだとさ」
「貸し切り! 豪勢なこって」
 調子外れの口笛を吹いてみせる仲間に、まったくだと相槌を打つ。
「なんでもお偉い術士様らしいぜ。えらく気難しい方で、相乗りお断りなんだと」
「ケチー!」
「ちょっとくらいいいじゃないねえ」
 ぶうぶうと文句をたれる仲間達をまあまあと宥めつつ、青年はとっておきの情報を開示した。
「おっさんが教えてくれたんだけど、ここから半刻くらい歩いたところにある町から乗合馬車に乗れるってよ。そこまであとひと踏ん張り、頑張ろうぜ」
 やれやれ、と立ち上がる仲間達。一人、長衣の裾を踏んで難儀している魔術士に手を貸しながら、すでに豆粒ほどの大きさになってしまった馬車へと目を向ける。
「お偉い術者様、ねえ……。これだから術士系は世間から嫌われるんだよなあ」
「何か言った!?」
 耳聡い魔術士に凄まれて、何でもないよと手を振ってみせる。そうして若き旅人達は、賑やかに街道を辿り出した。

* * * * *

 伝わってくる振動で、馬車が速度を増したことが分かる。
 恐らくは、想定外の交渉事で遅れてしまった分を取り戻すべく、御者が馬を駆っているのだろう。
(急ぐ旅ではないのだがな)
 無理を言って貸し切った馬車だが、急げという指示は出していない。しかし、立ち寄れる村や町が限られている以上、時間を気にしなければいけないのは致し方ない。
「もうじき次の町へ着くぞ」
 膝の上ですやすやと寝息を立てる少女に呼びかけるも、答えが返ってくる気配はない。
 光の竜ルフィーリ。彼女と行動を共にするようになって――否、半ば強制的に連れ去って、すでに半月ほど。当初、連れ去られた意味をまったくもって理解していなかった少女は、繰り返される男の言葉に一切耳を貸そうとせず、口を開けば「らう、どこ? るふぃーり、かえる」の一点張り。話は平行線を辿り、馬車ばかりがあてもなく先を急ぐ。そんな道中だった。
 それでも、最初は食べ物につられて笑顔を見せることも多かった少女。しかし、その溌剌とした表情が翳り出し、日中でもうつらうつらと居眠りを始めたのは、再会して五日ほど経った頃だったか。
 最初は、ただ旅の疲れが出たのだと思っていた。しかし、それにしては様子がおかしい。体調を崩しているというよりは、活力そのものが減少しているような消耗ぶりで、その異変に気付いた時にはもう遅かった。
「ねしうす、るふぃーり、ねむい……」
 最後に聞いたのはそんな呟き。以来、新緑のような瞳の輝きは瞼の奥に隠され、少女は今もネシウスの膝を枕代わりにして、ただひたすらに眠っている。
(何故だ……どうして、光の竜であるお前が……)
 光の精霊は太陽の下で活発に動き、夜は力が発揮できずに眠ってしまう。それは上位精霊である竜も同じことだ。その法則に当てはめれば、この時間は最も元気なはずの少女が、こうして何日も昏睡状態に陥っている。これは明らかに異常事態だ。
(……やはり、強制的に精霊力を抑えたせいか?)
 赤子のように握りしめられた手、その細い手首に揺れる腕輪をちらりと窺い、目を伏せる。
 細紐を編んだその腕輪は、誰であろうネシウス自身の髪を編み込んで作ったまじないの腕輪だ。『迷子にならないためのおまじない』と言い聞かせて彼女に贈り、彼女は何の疑いもなくそれを受け取った。――それが彼女自身の力を弱める代物だと、気づきもせずに。
(いや、仕方ない。あの人間との繋がりを絶つためには、これしか――!)
 ぎり、と唇を噛みしめ、やり場のない感情を拳に押し込める。
 彼女を救うため。そう己に言い聞かせて行ったことが、結果的に彼女自身を苦しめている。それはまるで――あの『女』の言い草そのもので。

 ――貴方のためよ。そう、すべては貴方の幸せのため――

 絡みつく甘美な響き。それは呪いだ。数百年経った今も彼を縛りつけ、絶望の淵へと誘う声。
「……!!」
 沸き上がる感情のままに、がん、と拳を壁に打ちつける。その行動に驚いたかのように、がたんがたん、と大きく揺れる馬車。その反動で膝から転げ落ちそうになった少女を慌てて抱きかかえ、揺れが収まるのを待つ。
「すんませんねえ。この辺りは道が悪くて」
 窓の外から響いてきた御者の声に「大事ない」と答え、短く息を吐く。
(私としたことが……)
 怨嗟の残滓を振り払うように頭を振り、どうにかして平静さを取り戻したところで、少女の唇から苦しげな呻き声が漏れる。
「おっと、すまない」
 少女を強く抱きしめたままだったことに気づき、慎重に元の位置へと戻す。寝苦しくないように頭の位置を整え、最後に乱れた髪をそっと払い除けてやったところで、ネシウスはハッと息を飲んだ。
「これは……!?」
 柔らかな金の髪。緩く波打った髪の先が、まるで墨を吸いこんだかのように黒く変色していく。じわじわと、まるで闇が太陽を飲み込むように――。
「なんてことだ……! ルフィーリ、小さき光よ! お前は光、闇を払う一条の光! それが――どうして……」
 耳元で大声を出しても、肩を掴んで強く揺さぶっても、固く閉じられた瞼はぴくりとも動かない。
 昏々と眠り続ける少女は、ゆっくりと――しかし着実に、闇へと染まっていく。
(このままでは……!)
 迷っている暇はなかった。体を捩るようにして小窓から顔を出し、驚いた様子の御者に向かって声を荒げる。
「止まれ! 行先を変える!」
「はあ? そりゃ構いませんがね、もうじき次の町だってのに……」
 不満げな御者は、無造作に放られた金貨にころりと態度を変えた。どうにか受け取った金貨を懐へとしまうと、馬車を道の端に寄せ、邪魔にならないところに止める。
「ところで、一体どちらへ?」
「そうだな……」
 目を瞑り、気配を辿る。そうしてゆっくりと目を開いたネシウスは、道なき道――南西の方角を指し示した。
「あちらの方向――距離は、そう……二百クレイルといったところだな」
「はあ……」
 なんとも曖昧な指示だが、冒険者――とりわけ術士というのは突拍子もないことを言い出すものだから、いちいち驚いていたら身がもたない。第一、これだけ気前のいい客を逃す手などない。世慣れた御者はそう自分に言い聞かせて、荷物入れから年季の入った地図を取り出した。
「ここから南西に二百って言ったら、この辺りですかね」
 いくつかの町を指差してみせたが、男はただ「とにかく向かってくれ。進路がずれたらその都度指示を出す」としか答えない。これは深く追及しても無駄だと諦めて、御者は地図をしまい込んだ。
「となると、さっきの分かれ道まで戻らにゃなりませんがね」
 なにせ、単騎で早駆けをするのとは訳が違う。馬車はある程度整備された街道しか進むことが出来ないから、進路は自ずと限られてくる。
「それでいい。やってくれ」
「承知しやした。お前達、休ませてやれなくて悪いな。もう一踏ん張り、頑張ってくれ!」
 威勢のいい掛け声に応え、馬達がゆっくりと動き出す。ご褒美は弾んでくれるんだよね、とでも言いたげな顔でちらりと振り返る愛馬達に「後で美味いリンゴでも食わせてやるから」と囁いて、御者は手綱を握り直した。