辛気臭い雨音が、窓の向こうから聞こえてくる。
一向に止む気配のない雨は、今日で二日目。つい数日前までの好天が嘘のように降りしきる雨のおかげで、罰掃除をしないでいいことだけが幸いだ。
珍しく時間を持て余すラウルの横で、半刻ほど前からがさごそと部屋をひっくり返しているのは、誰であろう養父ダリスだ。
「なあ、もういいって」
呆れ顔でそう声をかけると、ダリスはいやいや、と埃に塗れた手で額の汗をぬぐった。
「そうは言ってもお前、何か代わりの紐をつけておかないと使えないだろう」
数日前、底意地の悪い神学生達に引き千切られてしまった聖印の革紐。休みの日に町で代わりの紐を買う話になったのだが、それまで何か他の紐で代用しようということになり、かくしてダリスは自室をひっくり返すことになったわけだ。
「普段からもっと整理しろよな」
共に暮らすようになって二年。一人用の個室に無理やり寝台を追加したせいで、ただでさえ狭い部屋はますます狭くなっている。しかしそれ以上に部屋を狭くしているのは、ダリスがろくに片付けずに詰みまくっている本や書類、用途不明の雑貨類の数々だ。
「確かここに、旅をしていた頃にもらった組紐か何かがあったはずなんだが……」
そんなことを言いながら行李の底を漁るダリス。掘り返したものを適当に周囲に放るものだから、今度は床に直接積み上がった本の塔が崩れて、ただでさえ足の踏み場もない床を埋め尽くす。
ああもう、と立ち上がり、本を拾い集める。殆どはダリスの私物だが、中には神殿の図書室から借りてきたものも混じっており、三冊目を手にしたところで「禁帯出」の印がついた本を見つけてしまったラウルは、どっと深い溜息をついた。
と、まるでその溜息を掻き消すかのように、軽快に扉を叩く音が響き渡る。
「エバスト司祭、ラウル、そこにいらっしゃいますか?」
弾んだ声はラウルの教育係オーロのものだ。
「ああ、いるよ」
気さくに答えるダリス。その声を聞いて、失礼しますと扉を開けたオーロは、目の前に広がる惨状に悲鳴を上げそうになり、慌てて口を押えた。
「……何をやっているんです!」
「なにって、探し物をしているに決まっているだろう?」
「泥棒が家探しをしているようにしか見えませんよ! ああもう、ラウル! 窓を開けてください!」
「開けたら雨が入るだろ」
「雨が入ることより、この埃まみれの空気を吸い続けることの方が問題ですよ!」
ずかずかと部屋に上がり込み、問答無用で窓を開け放ったオーロは、まったくもうと腰に手を当てた。
「司祭は日頃から整理整頓をしないから、こうなるんです!」
「これでも、どこに何があるかは把握しているんだぞ」
「……半刻も紐を探してる人間の言うことかよ」
ラウルの突っ込みに、ばつが悪そうに頭を掻くダリス。一方、ラウルの言葉で自身の目的を思い出したらしいオーロは、そうでした、と神官衣の隠しから何かを大事そうに取り出した。
「聖印の紐が切れてしまったと聞いたので……。この紐、使えませんか?」
そう言って差し出したのは、年代物の首飾り。楕円形で金属の蓋がついており、その蓋部分には精緻な細工が施されている。
こういった首飾りには通常、細い鎖がついているものだが、そこについていたのは天鵞絨の細帯だ。黒に近い濃紺色の帯は艶やかで、黒猫の毛並みを想起させる。
「小さい頃、祖母からいただいた首飾りなんですが、ずっとしまい込んでいたんですよ」
懐かしそうにそう語りながら、オーロは手際よく細帯を本体から取り外していく。
「天鵞絨は意外に強いので、そうそう千切れたりしませんから」
ほら、貸してくださいと促され、戸惑いながらも枕の下に手を突っ込み、しまい込んでいた聖印を取り出す。
「ほらよ……でもそれ、大切なものなんだろ」
「この紐は後からつけたものですから」
そう答えて、ふと何か思い出したように笑うオーロ。
「……最初はね、これにもちゃんとした鎖がついていたんですよ。でも二つ上の姉と些細なことで喧嘩して、引っ張り合いになった時に切れてしまって。さすがに悪いと思ったんでしょう、両親にこっぴどく叱られた姉が謝りに来て、鎖の代わりにこれをつけてくれたんです」
上質の天鵞絨は、子どもの小遣いで買えるものではない。お洒落な姉が両親にねだって、誕生日の贈り物として買ってもらったものだということを知っていたから、焦って辞退しようとしたのだが、姉は頑として譲らなかった。
「これなら千切れないから、安心して喧嘩が出来るわね」
そんな物騒なことを言いながら、紐を付け替えてくれた姉。そんな彼女も数年前に結婚し、今では二児の母だ。
「姉の保証つきですから、安心して使ってください」
長さを調節して端を固く結び、ひょいと少年の首にかけてやる。数日ぶりに定位置へと戻ってきた聖印は、どこか誇らしげに輝いているようだった。
「本当にいいのかよ?」
「ええ。こういうものは使ってこそ価値があるものです。箪笥に眠らせておくより、あなたに使ってもらった方が、その紐も、姉も喜ぶと思います」
その言葉に、泣いているような怒っているような、実に複雑な表情になった少年は、耐えきれなくなったようにそっぽを向いて、何かごにょごにょと言葉を紡いだ。
不器用な少年の、精一杯の謝辞をきちんと聞き取って、どういたしまして、と微笑むオーロ。
「……ところで、そっちには何が入ってるんだ?」
一方、捜索の手を止めて二人のやり取りを見守っていたダリスは、蓋の中身に興味津々だ。こういった蓋つきの首飾りには恋人の細密画や髪の毛をしまっておくものだから、そういう話を期待しているのだろう。
「ご期待には沿えないと思いますが……」
苦笑いを浮かべて、オーロは慎重な手つきで蓋を開けてみせた。
現れたのは、青年の凛々しい横顔を描いた細密画。年の頃は二十歳くらいか、緩やかにうねる金髪を後ろに流して、伏し目がちの瞳は海を思わせる青。抜けるような白い肌は僅かに紅潮して、英雄像の如く完璧すぎる造形に生き生きとした命を吹き込んでいる。
「……誰だこれ?」
予想外のものが出てきて目を丸くするラウルとは対照的に、ダリスは琥珀色の双眸を細めて、懐かしいな、と呟いた。
「これは若かりし頃の皇帝陛下だ――当時はまだ皇太子殿下だったが」
ラルス帝国皇帝、ラルス八世は御年五十五歳。今でこそ大分ふっくらしているが、皇太子時代はすらりとした長身で、その整った顔立ちと見事な金髪から「黄金細工の君」などという綽名がつけられ、その細密画は若い娘中心に飛ぶように売れたという。
「祖母の、娘時代の宝物だそうですよ。『まるで御伽噺から出てきたような隙のなさ。まさに王子の中の王子』なんて言ってました」
さすがに結婚してからは身につけることはなくなったものの、娘時代の思い出の品として大事に取っておいたらしい。
「陛下は生まれてこの方風邪一つ引いたことがないほど強健な方。私は子どもの頃、何かと熱を出して寝込んでいたので、祖母がお守り代わりにとこれを持たせてくれたんです」
そのおかげかどうかが分からないが、病弱な少年はすくすくと成長し、次第に寝込むこともなくなって、無事成人を迎えることが出来たわけだ。
「なるほど。陛下の頑強さにあやかるのはいいが、女癖の悪さまであやかるんじゃないぞ」
大声では言えないことを堂々と言ってのける司祭に、大慌てで首を横に振るオーロ。
「何て恐れ多いことを言うんです! そもそも、あやかろうにも相手がおりませんよ!」
まったくもう、とぷりぷり怒りながら蓋を閉め、大事そうに懐へとしまい込む。そして、一人話題に取り残されてきょとんとしているラウルへ、さあ行きましょうと声をかけた。
「料理長が新作料理の味見を頼みたいそうで、さっきからあなたを探しているんですよ」
「またかよ。あのおっさん、十回に一回はゲテモノ料理を出してくるから怖いんだよなあ」
「今回は『挑戦』してないって言ってましたから、大丈夫でしょう」
「おい、私は?」
精一杯悲しげな顔を作って訴えるダリスに、オーロはぷいとそっぽを向く。
「司祭は部屋の片づけが終わらないので、今回は残念ながら辞退しますと伝えておきますね」
「オーロ!」
情けない声を上げる養父を鼻で笑って、ひょいと寝台から飛び降りるラウル。
「せめて行李から出したものくらいは元に戻せよな」
「ああ、図書室の本だけは代わりに返却して差し上げます。司書に泣きつかれて困ってるんですよ」
積み上がった本の山から禁帯出の印付きの本を抜き出して、十冊以上あるそれをよっこいしょと持ち上げる。
「それでは失礼します」
「早く来ないと全部食っちまうからな!」
馬鹿丁寧にお辞儀をして踵を返すオーロと、その背中を弾むような足取りで追いかけるラウル。何やら楽しそうな会話が、陰鬱な雨音を掻き消して廊下に響く。
「やれやれ。オーロも段々と容赦がなくなって来たな」
苦笑を漏らしつつ、ありとあらゆるものが散乱した部屋をぐるりと見渡したダリスは、「よし」と頷くと、目についたものを片っ端から行李に放り込み始めたのだった。