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第三章[12]

(くそ、まだ匂いが取れねえ……)
 袖口をくんくんと嗅ぎながら、顔をしかめる。四日前にかぶった酢の匂いはなかなか強烈だった。なめし革の胴衣は洗濯できるものではないので、風通しの良いところに陰干ししておいたが、あまり効果はなかったようだ。
(あの神官め……タダモンじゃねえな)
 中央大陸から来た神官だというが、この間遭遇した時の物言いといい、仕掛けられた罠といい、ごく真っ当な人間とは到底思えない。それなのに、耳に入ってくる噂はいいものばかりで、その差にも疑問が募る。
 仕事用の靴も片方トリモチに持っていかれてしまったし、胴衣はこんな状態だし、全くついていない。
 だからこそ。
(今度こそ卵を盗んで、あのいけ好かねえ神官の鼻を明かしてやる!)
 強く決心し、居間の窓辺に立つ。すでに時刻は真夜中を一刻ほど過ぎている。今日帰ってきたあの神官は、つい半刻ほど前にお祈りを終え、明かりを消して寝入っているようだ。
(よし……)
 最初に侵入した時と同じ手口で窓の鍵を跳ね上げ、そっと開く。真っ暗だった居間に月明かりが差し込んで、がらんとした室内を照らし出す。
(よし、大丈夫だな……)
 先日の書斎の二の舞にならないよう、足元などを確認し、中へと侵入する。
「早かったな」
 突然の声に、心臓が止まりそうになった。はっとして声の方を見ると、居間から寝室に続く扉が開いており、そこに黒髪の神官がもたれかかってこちらを見ていた。
(ちくしょう、寝てなかったのか!)
「忘れ物を取りに来たのか?」
 にやにやと笑う神官の手には、先日トリモチに絡め取られた靴の片方。
「来なかったら届けてやろうと思ってたのに。残念だな、シリン=マルロー」
「なっ……」
 驚きのあまり、顔が紅潮していくのが自分でも分かる。
「なんで、オレの……」
 逃げることも忘れて尋ねるシリンに、ラウルは靴を指で振り回しながら、
「ダレスで聞いたのさ。緑色の屋根の家にいる、銀髪に灰色の目の男は何てヤツだってね」
(何てこった……)
 実家まで知られてしまっていると知って、シリンの顔に緊張が走る。
「親切な人達だなあ。聞いてもいないのに色々教えてくれたぜ。都会で一旗上げるんだって言って、二年前に家を出たっきりこないだまで全然帰ってなかったらしいじゃないか。フォルカの街で真面目に働いてるんじゃなかったのか?」
 どうせ近所の話し好きなおばさん連中が喋ったのだろうが、見事に家庭の事情がバレバレである。
「うるせえ!」
 田舎暮らしに嫌気が差し、都会に憧れ家を出て早二年。しかし、憧れていた都会は無情にも、シリンを受け入れてはくれなかった。特出した技能がある訳でもない人間を雇う者はなく、ありつける仕事とくればきつい、汚い、厳しいの三重苦。憧れだけでは暮らせない町。それが都会というものだ。
「北大陸の田舎町に出たくらいで音を上げるんじゃ、どんな場所に行ったって成功しねえさ。この世知辛い世の中、憧れだけで渡っていけるようなら苦労しない。考えが甘いんだよ、ガキ」
「オレはガキじゃねえ!」
 噛みつかんばかりの勢いで言うシリンに、ラウルは意地の悪い笑みを浮かべた。
「ガキはみんなそう言うな」
 ぐっと詰まるシリンに、尚も畳み掛ける。
「一旗上げるつもりが大した仕事にありつけなくて、こそ泥に成り下がったのか。そんなことしてギルドに知られたらどうなると思う? 盗賊ギルドの掟くらい、子供だって知ってるだろう?」
 ギルドのシマを荒らした場合、良くて追放、悪くて死が待っている。
「うるさい!」
 破れかぶれに腰の短剣を抜き放ち、ラウルへと構える。しかしその手は震えており、腰も引けて、素人ですと言っているようなものだ。
「お前、命が惜しくなかったら――」
「惜しいさ」
 あっさりシリンの言葉を遮り、次の瞬間ラウルは一気にシリンとの距離を詰めた。腕を掴んで引き離し、同時に反対の手で腰から引き抜いた小刀をシリンの喉に突きつける。そこまで、ほんの瞬きをする間の出来事だった。
「ひっ……!!」
 顔から血の気が引いていくのが自分でも分かる。喉に当てられた刃の冷たさ、そして鋭さが、首の皮一枚を隔ててひし、と伝わってくる。あと少し力を込めれば、それは簡単に彼の喉に食い込むだろう。
「……刃物ってな、こう使うんだ。分かったか」
 言葉を失って立ち尽くすシリンの手から短剣をもぎ取って床に投げ捨てると、ラウルは拍子抜けするほどあっさりと小刀を戻し、腰の鞘に収めた。そして、
「ったく、慣れないもん振り回すんじゃねえよ」
 乱暴にシリンの体を突き放し、やれやれと天井を仰ぐ。
(こ、こいつ……)
 ただの神官が、素人相手とはいえあんな真似が出来るのだろうか。それとも都会の人間というのは皆、こんな感じなのか。愕然とした顔でラウルを仰ぎ見ているシリンに、ラウルは衝撃的な言葉を突きつけた。
「母親の体調がよくないんだろ?」
「……なんで、それを」
「この辺りには医者もいないし、ガイリアの神官もいないっていうしな」
 そう。この辺りには病気や怪我の治癒を行える人間がいない。大きな街に行けば勿論いるのだが、治療費が馬鹿にならない。
 シリンの母はもともと体の弱い人だったが、この冬の寒さがたたってずっと寝付いてしまっているという。薬草に詳しい村の老婆に煎じてもらった薬も効かず、ほとほと困り果てた父親が、シリンに病状を知らせる手紙を遣してきたのがつい一月ほど前。
 シリンを心配して、家を出てからもしきりに手紙を遣してきた母。一人息子のシリンが町に出たいといった時、強硬に反対する父親を説得してくれた母。その母が臥せっているという手紙を貰った時、シリンは激しく狼狽した。
 盗賊団をやっていた頃は金に困ることのなかったというシリンの家だが、祖父の時代に些細な仲間内の喧嘩から内部分裂し、解散に追い込まれた。それからのマルロー家は、畑を耕し、鶏を育てて日々の糧を得る、真っ当な農家を営んできたのだ。しかし、その生活では金など溜まるはずもない。それが嫌で飛び出したシリンだが、結局はその日の暮らしにも困る日々を送っている。母親を医師に見せる金など逆さに振っても出てこない。
 何か言いたそうに睨んでくるシリンに、ラウルは肩をすくめた。
「お前、昨日から家に帰ってないだろ」
 唐突な言葉にシリンはきょとん、とラウルを見つめる。
「あ、ああ……」
 二回とも侵入段階で失敗した為、シリンは卵が小屋にないことを知らなかった。そのため、昨日の夕方からこの小屋近辺に隠れ、機会を窺っていたのだ。
 卵がラウルとともに旅に出ており、今日戻ってきたことを知ったのは、なんとも情けないことに今日の朝なのだ。それがどうした、と言うシリンに、ラウルは、
「お前の母さんはじきによくなるよ」
 さっきまでとはうって変わった優しい口調に、シリンの目が大きく見開かれる。
「なんだって?」
「もともと体が弱いところに、冬の冷え込みで肺をやられたんだな。それをそのままにしてたから、寝込む羽目になったんだろう。薬の処方箋を村のばあさんに渡しておいたから、言いつけ通りに飲み続けりゃ大分良くなるはずだ。後は栄養を取って、ゆっくり休めば大丈夫だ」
「あんた……」
 ラウルはふん、と胸を張る。
「俺はユークに仕える者。ユークはガイリアと対を成し、闇と死を司る神だが、死なずともいい運命の人間をみすみす見殺しにするわけには行かないだろ。だから病気や怪我の治療法も神殿で教わるのさ。治癒の術こそないけどな」
 ユークというと葬儀屋という印象しか持っていない人間が多いが、その実ユーク信者には医者や薬師なども多い。光の女神ガイリアも闇の神ユークも命を司るという点では同じ性質のものだ。怪我や病気を神の力で癒すことこそ出来ないが、心を落ち着かせたり、人を眠らせたりする術はユーク特有のものである。もっとも、そういった術は力のある者にしか使いこなせない為、世間的にはあまり知られてはいない。
「もっとも、ちゃんとした医者じゃないから、大したことは出来ないがな」
 今日の昼頃、隣町ダレスに立ち寄ったラウル達は、村の広場で多少の聞き込みをした後に、シリンの実家である緑の屋根の家を尋ねた。 病気で臥せっていたシリンの母親は、ラウルの訪問に驚いていた様子だったが、シリンの知り合いだというと警戒心を解き、色々な話を聞かせてくれたのだ。隣村に赴任してきたユークの神官であることを説明し、多少医術の心得があるので診察させて下さいというラウルの申し出に、母親はびっくりしたようだったが、シリンに頼まれたというと、その双眸に涙をにじませた。
 てきぱきと診察をし、薬の調合を村の薬師に依頼するラウルを、三人組は珍しいものを見るような目で見ていたが、アイシャが一言、
「本当に、女には優しいな」
 と呟いた為、残る二人がなるほど、と思いっきり納得したものだから、ラウルがアイシャを怒鳴りつけたという一幕もあったのだが、それは置いておいて。
「それに!」
 ラウルがびしっとシリンを指差す。
「息子の顔が見たくてちょっと大げさに病状を伝えてきたことぐらい汲み取れ、馬鹿息子」
 目をしきりと瞬かせ、ラウルを見上げるシリン。
「な、なんだよ、それ」
「別に命に関わるほどの病気じゃなかったよ。だけど、病に倒れると人は気弱になる。元気で働いていると手紙では言ってるが、詳しいことは全く書いてこない息子のことが気になって、せめて顔を見たいと思うのが親心ってもんだろう。顔を出した時に気づいとけ」
「そんな……」
 がっくりと肩を落とす。しかし、それと同時に安堵が胸いっぱいに広がって、泣き笑いのような奇妙な顔になるシリン。
 そう言えば先日、逃げるように帰った(いや実際逃げたのだが)二年ぶりの実家で、床に臥せった母はとても嬉しそうにシリンを見ていた。あの時はラウルに見つかってしまった自分への怒りでろくに家のことを見ていなかったが、父親もシリンに対して何も言わずにいたし、母親も臥せってはいながら何かとシリンに話し掛け、しまいには起き上がって料理をすると言い出し、慌てて止めたものだ。
「ホントに元気になるのか?」
「ああ」
「いくら取った?」
「大したことはしてないんだ、金なんか取るか。大体、困ってる女性から金をふんだくるなんざ、野暮な奴のすることさ」
 自身も金に困っているくせに、こういうところがお人好しと言われる所以だろう。
「……馬鹿」
 シリンの呟きに、ラウルが何だとっ、と眉を釣り上げるが、シリンは首を横に振る。
(馬鹿だよ、オレは……)
 泥棒などという真似をしなくても、死ぬ気で稼ごうと思えば出来たはずだ。それなのに安易な道に走ってしまったのは、ラウルの言うようにガキだったからかもしれない。苦労を避け、日々楽しく暮らせればそれでいい、という考えがあったことは確かだ。 祖父が若い頃使っていたという胴着や靴も駄目にしてしまって、結果がこれだ。親どころか、先祖にも顔向けできない大失態をやらかしてしまった訳である。
 何やら落ち込んでいるシリンに、ラウルは苦笑を隠せない。
「ま、これで懲りただろ。もう二度と卵に手ぇ出すんじゃねえぞ」
 ラウルの言葉に、シリンは神妙に頷く。そして、はっと弾かれたようにラウルに縋りついて、懇願した。
「頼む! 家族や村の人間に言わないでくれ! オレが泥棒まがいのことをしてたって知ったら……」
 祖父が盗賊団の一員だったことで、肩身の狭い思いをしていた両親。 だからこそ人一倍真っ当に働いて質素な暮らしを営んできたのだ。それが嫌でフォルカに逃げ出し、結局こそ泥にまで落ちぶれてしまった自分。しかし家族にそんなことが言える訳がない。だからこそ、必死に真っ当に暮らしているように言い繕ってきたのではないか。 その家族にこのことが知られたら、どうなるだろう。母は泣くだろう。父はきっと許してくれないだろう。そして村の人間は、血は争えないとか、泥棒の子は泥棒などと口々に噂するに違いない。
「言わねえよ。そんなこと言いふらして、お前はともかくお前の母親が悲しんだら困る」
 あくまでも女性本位のラウルだったが、その言葉にシリンはほっと胸を撫で下ろした。
「その代わり教えろ。誰がお前を唆した?」
「誰がって……」
 鋭い眼差しで自分を見つめるラウルの黒い瞳に、シリンは一瞬身をすくませた。それは、大人の瞳。それも、世の中の綺麗な所も汚い所も見て来た者だけが持つ瞳だ。
(はなっから、かなうわけなかったんだな……)
 観念して、シリンは洗いざらい話し始めた。フォルカにも広まってきた卵の噂。それを欲しがる好事家の話。そして、すでにフォルカではそこそこ知られる顔になっていたシリンに持ちかけられた話。
「あのクソ親父か」
 依頼人の名前を聞いて、ラウルはそう言い捨てた。そう。シリンに話を持ちかけたのは、フォルカの宝石商ドルセン。先日ラウルに卵を譲ってくれと押しかけてきたあの親父だった。
「あの業突張りめ。金を出しても駄目なら盗むってのは、どういう了見だ」
 拳を固めて怒るラウルに、しかしシリンはこう付け加える。
「いや、その後ろに唆した奴がいたみたいだぜ」
 ドルセンに卵の噂を持ち込んだのは、この辺りの調査をしているというケルナ神官だという。その頃すでに卵の噂は町に入ってきていたが、時間と距離が開くと歪むのが噂というもので、気味が悪いとか、怪物が孵るかもしれないという悪印象が強かった。しかし神官から話を聞いたドルセンが、 「そんな珍しい卵なら、きっと素晴らしいものが孵るに違いない。高い金を積んでも我が物にしたい」  と言い出したものだから、途端に卵は聖獣のものだとか、幸せを呼ぶのだとか、どんどん尾ひれをつけた噂が広まった。そんな彼はラウルにきっぱりと断られ、すごすごとフォルカに帰っては見たものの、やはり諦め切れずにシリンに話を持ちかけた、という寸法だ。
 その話を聞いて、ラウルは眉をひそめる。
「ケルナの神官? この辺りの調査をしてるって?」
「ああ、二月くらい前から時々見かけたんだけどな。町中聞き込んでたんで覚えてるよ。路地裏でぶらついてた俺にまで話しかけてきたからな。あの突風について調査してるって言ってたけど……。親父にその話をしたのは半月くらい前らしいぜ」
(村長が言ってたヤツか……)
 ケルナは風の女神。その神官なら、季節外れの奇妙な突風について調査するのはおかしいことではない。
 しかし、何かが気にかかる。
「その調査に来たヤツってのは、もういないのか?」
「ああ、もう別の場所に行ったみたいだ」
「そうか……」
 取り越し苦労だといいのだが、どうにも卵が誰かに狙われているような気がしてならない。しかも、何かの意図を持って。
「ああ、そうだ。ギルドは今回のお前の仕事を大目に見るそうだ」
 突然の言葉に、シリンが驚きの表情を浮かべる。
「何だって?」
 ラウルは服の隠しから手紙を取り出して、シリンに放り投げた。訝しげに手紙を広げるシリン。
 手紙は盗賊ギルドの長が直々に書いてよこしたものだった。今回の一件にギルドは介入していないこと、そしてギルドには今までも、今後も竜の卵を狙う意思はないことを述べた上で、もぐりの泥棒シリンに関してこんなことを書いてきていた。
「『件の泥棒に関して、盗賊ギルドは一度の恩情を与える。本人には追ってこちらより沙汰を下すが、もし差し支えなければ貴殿の手足として存分に活用して頂きたい……』? なんだ、こりゃ? 冗談にしちゃタチが悪いぜ」
「印を見ろ。本物らしい。そのうちお前の所にも使いが来るだろ。ま、神妙にしとくことだな」
 ラウルに言われて封蝋に押された印を眺め、すーっと青ざめるシリン。鍵や縄を模った印は、誇り高き盗賊ギルドの証。かつて祖父から聞いたことがある印だ。
「その手紙によれば、俺はお前をこき使っていいことになる。てなわけで、頼みたい」
「何をだよ」
 恐る恐る尋ねるシリンに、ラウルは大したことじゃない、と笑顔を見せる。
「お前、情報を集めるのは得意か」
 その問いかけに、シリンは戸惑い気味に頷いた。フォルカで裏稼業に手を染めて二年弱。ギルドに所属していないものの、それなりの人脈は持っているつもりだ。
「まあ、一応は」
「ならちょうどいい。調べてもらいたいことと、広めてもらいたい噂がある」
 そう言ってラウルが耳打ちしてきた内容に、シリンは憮然とした表情を浮かべる。
「調べるのはともかく、その噂は気にくわねえな」
「なに言ってやがる。ホントのことバラしたっていいんだぜ? それともギルドでも警備隊にでも突き出すか?」
「あ、いや。やりますやりますっ」
 慌てて承知するシリンに、ラウルはにやりと笑顔を浮かべた。
「よし。それじゃ明日から頼んだぜ。ちょくちょく報告に来いよ」
「分かったよ」
 そう言って玄関から帰ろうとするシリン。
 扉を開けようとして、ふとシリンは振り返った。
 窓から差し込む月明かりに照らされて、ラウルが静かに佇んでいる。
 穏やかにこちらを見つめてくるその姿は、まるで闇の神ユークのようだとシリンは思った。
 北大陸では珍しい漆黒の髪と瞳。月の光に照らされて、どこか青みがかって見えるそれらは、この世のものとも思えない美しさを放っている。 その柔和な表情に、言い損ねていた言葉がするりと唇から滑り出す。
「あの……」
「なんだ?」
「お袋を診てくれて、ありがとう」
 その言葉に、ラウルは微笑を浮かべる。その笑顔の中に、口が悪く女好きな外面の裏に隠された本当の彼が見えた気がして、シリンは静かな感動を覚えた。
 しかし次の瞬間、
「女性を助けるのは、男として当然のことさ。それにお前のお袋さんはけっこう別嬪さんだったし、役得ってやつだな」
 にやりと笑みを浮かべるラウルに、眉を釣り上げるシリン。
「お袋に色目使ったりしたら承知しないぞ、このすけべ神官!」
 肩を怒らせ、どかどかと去っていくシリンの後姿に、ラウルは意地悪い笑みを浮かべた。
「からかい甲斐のあるヤツだなぁ」
 今から帰るのでは、ダレスに着くのは朝方になってしまうだろう。泊まっていくかと言おうかと思っていたのに、シリンは迷うことなく帰路に就いた。
 元気になったであろう母に会う為に、どんな暗く険しい道でも彼は突き進むだろう。
(うるわしき家族愛だな)
 ラウルにはとんと縁のないものだが、その良さくらいは分かる。打算のない愛は、とても美しいものだ。
 さて、とラウルは寝室に戻る。そこには、籠に収められた卵が待っていた。
――ぴぃぃっ――
 楽しそうな声に、ラウルはこいつめと卵を叩きながら寝台に潜り込んだ。
(しかし、こりゃ大変なことになってそうだな……)
 広まる噂や気になる調査員、卵専用おんぶ紐に新米盗賊と、不穏なことばかりだ。
(ま、なんとかなるさ……)
 気楽に考えるラウルを、睡魔がゆっくりと眠りに誘っていった。

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