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第七章[8]

 最初に感じたのは、身も凍るような水の冷たさ。
 一瞬遅れて、全身を駆け抜ける痛みが訪れ、ラウルの意識は急速に覚醒した。
「くっ……」
 傷口に冷水がしみる。まどろみの中忘れていた痛みが一気にラウルの体を蝕んでいく。
「この状況で眠れるとは、随分と図太い神経の持ち主だ」
 目の前にいた『影の神殿』の青年が、呆れたように言ってきた。その後ろには、空の桶を持った仮面の男が佇んでいる。ラウルに水を浴びせたのは、この男のようだった。
 男爵と呼ばれた男、そして陰気な司祭の姿はなかった。そのことに少々ほっとする。あの成金趣味の男爵や陰気な司祭と口を利くくらいなら、この二人を相手にした方がまだましというものだ。
「……お褒めに預かり光栄だよ」
 自重で枷が手首に食い込み、擦れた傷口から血が滲んでくる。いつの間に吊り上げられたのか、すでにラウルの体は昨日と同じく宙吊りの状態にされていた。もっとも、昨日という表現が正しいかは分からない。地下牢には明り取りの窓などなく、連れてこられた時と同じ薄闇が部屋を支配している。
 あれからどのくらい経ったのか。半日かもしれないし、たったの一刻かもしれない。
(結構寝られたのか……? 大分楽になってるしな)
 手当を受けたせいもあり、傷の痛みは大分薄れている。今は水がしみて痛いが、昨日ほどではない。闇の術を使ってしっかりと体を休ませられたのも良かった。
「あの間抜けな司祭様はお休みか?」
 からかうように言ってやると、青年が鋭い目つきでラウルを睨みつけた。
「……お前には関係ないことだ」
「そうでもないさ。あいつにちょっと聞きたいことがあったんだ」
「聞きたいこと?」
 眉をひそめる青年。ラウルは、駄目で元々と言葉を続けた。
「あんたでもいいか。エルドナの神殿を任されていたバルトス司祭って人を知ってるか? 前に尋ねて行った時には、すでに亡くなっていると聞かされた。それが本当かどうかを聞きたかったんだがな」
 青年はしばしラウルを凝視していたが、ふと息をついて答える。
「我らの理想と相容れぬ老人には、退いていただいた。今頃はユーク様に見守られて安らかな眠りについていることだろうよ」
「そう、か……」
 そう呟き、口の中で短く鎮魂の祈りを唱えるラウル。 自然死にしては不審すぎた。しかし、せめて影と関係ないことで亡くなっていたのなら、少しは救われただろうが。
 しかし、死して尚利用されるよりはよほどいい。

 目の前で冷静に言葉を紡いでいる神官に、サイハは憤りを隠せなかった。 エルドナに潜伏する同志から卵の奪取に成功したと報告があった時は、これで悲願が成就すると喜びにむせた。ところがすぐに卵が贋物だったことが知らされ、更には本物の隠し場所を吐かせるため、神官を捕らえると言うではないか。
 馬鹿なことを、と慌てて駆けつけてみたが、すでに件の神官は捕らえられ、鎖に繋がれていた。そんな状態でも強い意志の力を瞳に滾らせ、余裕の表情を崩さない彼に、次第に怒りと苛立ちが募る。
 それは、野望を妨げられた怒りではなく。
 自らを危険に晒してまで卵を守ろうとする彼の、その高潔なまでの意志が憎らしいのだと、彼自身恐らく気づいていない。
「……なぜ」
 口をついて出た言葉に、ラウルが顔を上げる。
「なぜお前は、それほどまでにあの卵を庇う? お前にとってどんな価値があるというのだ?」
「そんなことを聞いてどうする」
「質問しているのはこっちだ。答えろ!」
 思わず怒鳴りつけてしまうサイハに、ラウルは穏やかな瞳で答えた。
「……命の価値は、どれも同じだろ」
(なに?)
 思わず眼を剥くサイハに構わず、彼は続ける。
「お前らの教義なんざ知らねえが、本家本元のユーク神殿じゃそう教えられるんだ。どれも大切な命。それを、妙な儀式に使われると分かっててみすみす渡したりなんか出来るかよ」
「それが、お前をこんな目に遭わせる原因だったとしてもか」
「違うな」
 一言で切って捨てるラウル。
「そもそもお前等があの卵を狙ったりしねきゃ、すべて丸く収まってることだ。俺を危険な目に遭わせてるのは、卵じゃなくてお前等だろうが」
 ぐっと押し黙るサイハ。憎々しげな目でラウルを睨むが、彼はびくともしない。
「一旦関わっちまったんだ。見殺しになんてしたら、後味が悪くてやってられねえよ」
「そんな理由で、自分の命まで危険に晒すというのか」
「それが俺の信念だ。曲げることなんて出来ねえな」
「……そんな口をいつまで利いていられるか……おい、やれ」
 仮面の男に命じるサイハだが、仮面の男は動かない。
「おい!」
「……我等盗賊ギルドは、男爵に雇われている身。『影の神殿』から命令を受けるいわれはないな」
 何を、と息巻いてみせたが、仮面の男は取り合おうとしない。代わりに淡々とした口調で言ってきた。
「そちらも影の暗躍者と異名をとる集団。自白させる術ぐらいは持っているのだろう? 我らに頼らずとも、それを使えばいい」
 その言葉に、憮然とした表情を浮かべるサイハ。
「……殺してもよいなら、な」
 彼ら『影の神殿』には、死者から思念を引き出す術が伝えられている。しかしそれは生者には通用しない。
 思わず身構えるラウルの様子が見てとれて、つい口の端を歪める。同じ術は表のユーク信者にも授けられていると聞くが、彼らはそれを禁呪として固く戒めているらしい。まったく、折角の術を有効に利用しないなどと、サイハには考えられないことだ。しかし、彼は残念そうに肝心の一言を付け足した。
「もっとも、私にその術の心得はないが」
 ラウルが小さく息をつくのが聞こえ、仮面の男も肩をすくめてみせた。
「……仕方ない」
 仮面の男はサイハに下がっているよう指示すると、手にしていた鞭を床へ垂らす。
「なあ、いくらやったところで無駄だぜ?」
 相変わらず軽口を叩くラウルだが、二人ともその言葉に取り合おうとはしなかった。

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