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第七章[7] |
「……減らず口を……」 ラウルの体が完全に鎖によって天井から吊り下げられた形になったのを確認し、鉄格子の片隅に取り付けられた鍵を開けると、明かりを持って中へと入っていく。その明かりを壁にかけると、暗かった部屋の中が照らし出された。 「……あんまりいい趣味じゃねえな」 ラウルが嘲笑するのも無理もない。 部屋の中には、ありとあらゆる拷問道具が並べられていた。しかも、使い込まれた様子がありありと見られる。今までどんな人間が、「お客」としてこの部屋に滞在していたのか、気になるところだ。 「そうかね? 私は気に入っているのだが」 棚の上から黒くしなる鞭を手に取り、ゆっくりと歩み寄ってくる男。しかしラウルは余裕の表情を崩さない。 それが気に食わなかったのか、男は前置きなしにひゅん、と鞭を振るった。 黒い神官服がぱっと斜めに裂け、その下から現れた皮膚に赤い線が走る。先端がかすめた頬にも細い血の筋が走り、そこから滲み出る赤い血が頬を滑り落ちて床に散った。 しかしラウルは悲鳴一つ上げず、にやりと笑いすら浮かべてみせる。逆に男は、裂けた神官服の奥から現れた肌を見て驚きの表情を浮かべていた。 「その傷は……」 露出した肌には、幾筋もの古傷が走っていた。鞭による裂傷の跡から、刃物による傷まで、まるで歴戦の戦士であるかのような様相を呈している。 「さっきそいつが言っただろ? 俺は貧民街生まれで、死傷事件を起こして神殿に引き取られたってな」 苦い記憶が蘇ってくる。それは、十年以上経った今もラウルの心を縛る鎖。 「そうさ、俺はあの時、人を殺した。殺さなきゃ、自分が殺されてた。あそこは……そういう場所だ」 栄光の都市、黄金の都などという名を冠するラルス帝国首都ラルスディーン。その輝かしい繁栄の裏には、どこよりも暗く深い闇が存在していた。 ラルスディーンの北端に位置する貧民街。街の警備隊も足を踏み入れないそこは、まさに無法地帯だった。喧嘩や抗争は日常茶飯事。八歳の幼い少年もそんな諍いに巻き込まれ、人を殺めた。そして自分も死に掛けていた。そこを、救済活動中のユーク神官達に保護されたのだ。 あの時彼らが来なかったら、少年はあの希望のひとかけらも見出せない場所で、生きる意味も死ぬ意味も分からぬまま、そこらに転がるゴミと同じように朽ちていっただろう。 そして。生死の境を彷徨い、ようやく意識を取り戻した先に待っていたのは、これまでとは全く正反対の、清潔で厳格で、窮屈な神殿での日々だった。 当然、それまで自由気ままにやってきた少年の肌に合う訳もない。 「……神殿に入ってからもよく懲罰房に入れられて罰を受けてたからな。とても乙女のようなまっさらな肌、とはいかねえよ」 背中や肩、挙句は上腕部にまで及んでいるこれらの傷を隠すために、ラウルは暑い夏でも長袖の服で通していた。村人達に見られたら何かと思われてしまう。となれば折角の苦労が水の泡だ。 「あんた、どこのお貴族様だか知らねえが、そんなんじゃ俺の口を割らせる前にそっちが怪我するぜ」 鞭は武器としてだけではなく動物の調教道具としても使われるが、取り扱いが難しい代物としても知られている。使いこなすにはかなりの訓練が必要とされ、素人が使えば自分を傷つけることは間違いない。また刃のない武器としては破壊力が強いことから、一歩間違えれば大怪我を引き起こしかねない。目に当たれば一発で失明は必至だ。 この男はそれなりに取り扱いには慣れているようだったが、一体今まで、何に鞭を使っていたのか勘繰りたくなるというものだ。 「な、なにを……!」 ラウルの言葉に憤り、再び鞭を振るう男。空気を引き裂く音が牢に響くが、ラウルは声を上げるどころか、余裕の表情を崩さない。 「おいおい、折角こんなところまで招待しておいてこれか? つまらねえな」 鞭の傷は見た目もひどいが痛みもかなりのものだ。しかしこの程度なら声を上げない自信がラウルにはあった。こういう悪趣味な輩は、相手が反応すればするだけつけあがる。わざわざ喜ばせてやることはない。 「き、貴様……っ!」 息を切らしながら怒声を上げる男に、すっと横から仮面の男が進み出る。 「男爵様、宜しければ私が……」 むっとした表情の男に、仮面の男は畏まりながら、 「このような仕事は、我等卑しい者の勤めでございましょう」 と言ってくる。その言葉に納得したのか、男爵と呼ばれた男は手にしていた鞭を渡し、憎々しげにラウルを見た。 ラウルも男爵に視線を合わせて、不敵に笑ってみせる。しかしその笑みが、次の瞬間凍りついた。 いつの間にかラウルの背面に移動していた仮面の男が、何の前触れもなしに鞭を振り下ろしていた。先ほどまでとは比べ物にならない鋭い音が、牢に響き渡る。 「て、めえ……!」 悲鳴を上げることだけは避けられたが、苦痛に顔を歪めるラウルに、容赦なく男は鞭を振るい続ける。 (こいつ……かなり熟練してやがる……案外、ギルドの刑吏だったりしてな) 背中を走る衝撃に歯を食いしばりながら、ラウルはそんなことを考えていた。ギルドの「死の制裁」は相当に酷いものだと聞いているから、専門の人間がいてもおかしくない。 「隠し場所を言え」 低く尋ねる仮面の男。しかしラウルは答えない。 (言えるわけ、ないだろう……) ラウルの中で孵化の時を待っているなどと言ったところで、彼らが信じるとも思えない。まして信じてくれたところで、物理的に「取り出そう」とされたらたまらない。第一そんなことが出来るのかすら怪しいところだ。 (そういや……俺が死んだら、こいつどうなるんだろう……) ふとそんなことを考えるラウルに、再び鞭が振り下ろされる。 肉を裂く嫌な音が響き、ラウルの足元には次第に血溜りが出来ていく。 「お、おい……あまりやり過ぎては……」 あまりの勢いに気圧されたのか、男爵がそんなことを言い出す。しかし仮面の男は、 「この程度で死ぬような男ではありません」 と断言してのける。その間も、手を休めることはない。 (……こいつはちょっと、やばいかもな……) 激しい痛みが全身を駆け抜け、食いしばる唇の端が切れて血が滴る。 しかし、次第にその痛みが和らいできていることに、ラウルはふと気づいた。 いや、痛み自体がなくなった訳ではない。しかし、攻撃の手が緩められているように感じる。容赦なく繰り出される鞭。音は派手だが、威力が弱められている。そんな感じがする。 (どういうつもりだ?) 仮面の男を窺いたかったが、背後に回られている為にそれも叶わない。 「隠し場所を言え」 繰り返す仮面の男。その口調からは、何の感情も感じられない。 「……知るかよ」 呟くように答えるラウル。その背中に、また鋭い一撃が加えられる。呻き声を必死に堪えるラウルの表情には、先ほどまでの余裕など微塵も存在しなかった。 「わ、私はそろそろ休む」 男爵が、堪り兼ねたようにそう言い出したのは、間もなくのことだった。 「このまま続けても宜しいので?」 鞭を振るう手を止めて、仮面の男が尋ねる。 「適当なところでやめておけ。何もそう急いでいるわけではない」 そう言って、同意を求めるように『影の神殿』の司祭を見る男爵。司祭も、 「そうですね。何も今日中に何としてもというわけではありませんし……」 と逃げ腰の発言をする。 まさかここまでラウルがしぶとく粘るなどとは夢にも思っていなかったのだろう。ちょっとばかり痛い思いをさせれば、すぐに卵の場所を話すだろうと高を括っていたに違いない。 「しかし、事は急を要する。儀式の日までそう時間があるわけではない。何としても吐かせるんだ」 一人、『影の神殿』の青年だけが、感情のこもらない声でそう命じた。その言葉に仮面の男は頷き、ひとまず三人を見送るために牢の外へと出て行く。 地下牢に静寂が訪れ、ラウルは静かに息を吐いた。 (……こりゃ、結構きついか……でも) どうも、盗賊ギルド側には何やら思惑があるようだ。 小屋で聞いた村長の言葉や、仮面の男の態度。一見あの男爵と呼ばれている男に従っているように見えるが、忠実な部下という訳ではなさそうだ。 すぐに、足音もなく仮面の男が戻ってきた。しかし牢には入らずに、部屋の隅にあるらしい巻き上げ機に向かう。 (お……?) すぐにがらがらという音が鳴り出して、吊り上げられていた両手にかかっていた力が緩められていく。 たまらず床に膝をつくラウルを、操作を終えて牢に入ってきた仮面の男はしばし無言で見下ろしていたが、すぐに部屋の隅に向かって何かを手にすると、ラウルのところに取って返した。 「……今日のところはこれでおしまいか?」 傷の痛みに耐えつつ皮肉をこめて尋ねるラウルに、男は黙って手にしていた箱を床に置くと、引き裂けてズタズタになったラウルの上着を脱がせにかかる。血に塗れて皮膚に張りついている部分もあったが、男は丁寧に布を剥がしていった。 「随分とおやさしいことで」 「まだそんな口が利けるとは、噂以上にしぶとい人間だ」 低く、押し殺した声が答える。その間も手を止めることはない。 上着を完全に脱がせると、男は床の箱――どうやら薬箱らしい――を 開けて、なんとラウルの手当を始めるではないか。 「お、おい……どういう風の吹き回しだ」 慌てるラウルに、男はふん、と鼻を鳴らす。 「死なれては困る」 そう言って、丁寧に傷を消毒して薬を塗りつける。さすがに包帯までは巻いてくれなかったが、これだけでも大分違う。手際よく手当を終えると、男はどこからか毛布を持ってきてその場に放り、牢から出て行った。 その後姿に、ラウルが声を投げかける。 「なあ、あんたんとこのギルド長に言っといてくれよ」 男の歩みがぴたりと止まる。 「……口約束でも守るのが、ギルドの方針だよなってな」 あの時、村長は確かに言った。 『悪いようにはしませんから』 『心配しないで下さい。卵くんの安全はちゃんと私が保証します』 その言葉を、どこまで信じていいものかは分からない。しかし、なぜか信じてみようかと思ってしまう。 ラウルの言葉に、仮面の男が、くすりと笑ったような気配がした。 「……伝えておこう」 そう言って、男は廊下の彼方へと消えていった。 薄暗い牢屋に、ラウルの呼吸音だけが響く。 (死ぬような傷じゃねえ。手当も受けられたしな。あとは……) これがいつまで続くか。それにかかっている。 季節はすでに冬。この地下牢の冷たさに体力を奪われ続けたら、いかなラウルでもそうはもたない。 (何か考えがあるんなら、とっととどうにかしやがれよ、村長……) あれだけの目に遭わされたというのに、どうもあの村長に対して恨みだの憎しみだのといった感情を持つことが出来ないでいた。 日向でまどろむ猫のように細められた瞳は、何を考えているのか読み取れない。その柔和な笑顔の奥に隠されていた、本当の顔。しかしそれでも、どこかおどけた調子はそのままだった。 仮面の男が置いていった毛布の上に体を横たえ、不自由な両手で毛布に包まる。それだけでも激痛が体を走るが、ここで少しでも体力を回復しておく必要がある。 長い時間吊り下げられていたせいで、両手が痺れて動かない。手首にはくっきりと枷の跡がつき、幾度も加えられた衝撃に擦れて血が滲んでいる。 その手をなんとかして持ち上げ、簡単な印を結んだ。 『闇を統べる者よ、我に安寧をもたらしたまえ』 間もなく、闇の波動が伝わってきた。闇はどんな場所にも存在するもの。世界を覆い尽くし、命を眠らせる力。 波動が体に満ちる。心地よい眠りの力が、傷の痛みから彼の意識を解放してゆく。 (ひとまず、今日はゆっくり休ませてもらうとするか) どんな時も、決して前を見ることをやめたりしない。例え辛い日々しか待っていなくとも、後ろを見る暇があるなら、一歩でも先に進め。 明けない夜はない。暮れない日はない。動き続ける限り、未来は変わり続ける。 そんな生き方を教えてくれたのは、幼い日に彼の命を救った司祭。今は本神殿長の座に就くラウルの養い親。立派な仕立ての服が血まみれになるのも構わず、幼い彼を抱きかかえて神殿へと走った司祭は、その間ずっと言い続けた。 生きろ。安易に命を手放すな。どんなに辛くても諦めてはいけない。生き続けることこそが、お前が殺めた人間への、唯一の償いなんだ、と……。 (ああ……諦めないさ。最後の最後まで、絶対な……) |
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