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第九章【5】

「……村長といいお前といい、なぜ窓から入ってくる」
 憮然とした顔で言い放つゲルクに、ラウルはひょい、と首をすくめた。黒い外套を翻し、窓枠に足をかけて佇むその姿は、まるで少年神ユークのよう。
「玄関からだとエリナにとっつかまって、離してもらえないからに決まってるだろ」
 書斎の床にするりと足を下ろし、ゲルクの前にやってくるラウルは、以前のように畏まることなく、ごく自然に接するようになっていた。
「それで、どうした。こんな夜更けに」
 すでに真夜中を過ぎている。警戒態勢の村ではあちこちに篝火が焚かれ、巡回の者が周囲を見張っているが、それ以外のものはすでに眠りについているはずだった。
「これを」
 そう言って外套の中からラウルが取り出した一冊の冊子を、ゲルクは訝しげにぱらぱらと捲り出すが、その綴られた文字の小ささに目を細めたかと思うと、即座に突き返した。
「読めん」
「……老眼かよ」
「やかましいわ。とっとと読んで聞かせんか!」
「はいはい」
 ため息混じりにラウルはある頁を開くと、そこに綴られた文章を淡々と読み始める。 最初はふんふんと聞いていたゲルクだったが、次第にその顔色が変わっていき、食い入るようにラウルと、そしてその手に握られた本を見つめていた。
「……以上だ」
 読み終えたラウルに、ゲルクは息巻く。
「それは……不死の呪法か?!」
 盗賊ギルドが命がけで手に入れてきた写し。それは、ユーク信者にとってはまさに忌むべき呪法の記された、禍々しいものだった。
 それは、死を超越する究極の術と記されていた。命はいつか滅びる。どんなに経験を重ね、知恵を深めても、死すればそれは永遠に失われる。いかに体を鍛えようと、細心の注意を払って暮そうと、死から逃れる術はない。
 影の神殿は、長年「死」について、そして「死者」についての研究を続けるうち、死人を生前の状態で蘇らせる術を生み出した。そしてそれだけでは飽き足らずに、「死を超越する方法」までもを求めた。結果がこの呪われた術。
「貸すんじゃ」
 ばっとラウルの手から冊子をもぎ取り、顔を押し付けるようにして読み返す。
「……かの術によって永遠を得た肉体は、決して滅びることはない。心の臓を貫かれても、半身を失っても……おお、なんとおぞましい……」
 そこに綴られていたのは、邪法を生み出し、数々の実験体に不死の術を施した者の、懺悔にも似た記録の数々だった。
 術がひとまずの完成を見せたのは、約三百年ほど前のこと。それから信者や、時にはさらって来た人間を使って実験を繰り返したと書かれている。そして、幾度も失敗を繰り返した。
 人の魂に、不死の体はあまりにも重過ぎるのかもしれない。不死であろうとも、肉体が傷つけば苦痛を覚える。苦しみや悲しみが蓄積した心で長すぎる時を彷徨う事は、想像以上に苦しいことだろう。
 この術によって不死を得た者の大半は、その呪われた肉体に魂を蝕まれ、やがて人間としての自我すら失い、ただひたすらに殺戮と破壊を繰り返す怪物に成り果てたという。
 彼らを解放する手段は一つ。不死の儀式においてその体に埋め込まれ、死の運命から魂を解き放つ力を秘めた、小さな水晶を打ち砕く事。 それは無数の魂と血とを凝縮し閉じ込めた、親指の先ほどにも満たない小さな水晶片。
「そんなものが……」
「水晶片は術によって肉体の奥深くに定着され、一度埋め込まれれば取り出す事は不可能。そして、術をかけられた本人がいかに望んでも、その水晶を自ら砕く事は出来ない」
 水晶片は埋め込まれた瞬間から宿主を呪縛する。それにより、どんなに望もうと、宿主は決して自らに傷をつける事すら出来ない。
「埋め込む場所は……ここか」
 そう言ってゲルクが指差したのは、ラウルの首にかけられた聖印のあたりだった。胸の真ん中。首から拳二つ分ほど下になる。それを正確に打ち砕かない限り、本人が望む望まないに関わらず少女は何度でも蘇る。例え肉体が完全に粉砕されたとして、その水晶片さえ無事であれば、長い時の果て、何度でも元通りの姿に戻ってしまうというのだ。
「なるほどな……」
 苦々しく吐き捨てるゲルクの脳裏には、六十年前の巫女の姿がありありと蘇っていた。ゲルクの長剣に胸を刺し貫かれても笑っていた少女。しかし彼女は、痛みを感じていないわけではなかった。苦しみを感じていないわけではなかった。それでもあんな空虚な笑みを浮かべていたのは、すでに死を、そして生を諦めていたからか。
「水晶片を砕くには闇にて清めた武器でなければならない、か。お主、用意はあるのか」
 ゲルクの言葉にラウルは、外套の中から鞘ごと引き抜いた小刀を差し出してみせた。それを見て、眉をひそめるゲルク。
「これで奴らと渡り合うつもりか?」
 彼らと渡り合うには、この小刀は些か力不足に思えた。しかしラウルは首を横に振ってみせる。
「長物は苦手でね。ずっとこいつで戦ってきた。今更別のもんに持ち替える気はない」
「お主がそういうなら構わんが……随分と年代物じゃのう」
 呟きながらそれを丁重に受け取り、そっと抜き放つ。 それは幼い頃からずっと彼を守ってきた小刀。どこで手に入れたかも覚えてはいなかったそれは、柄も鞘も大分痛んではいたものの、肝心の刃は常に研ぎ澄まされていた。
 そして、その刃から滲み出る闇の波動。それを感じる事の出来ないゲルクのはずだったが、なぜか刃に宿る静かな力をその手に、その体に感じた気がした。
 自然ならざるものを滅する力。それを宿した白刃を鞘に戻し、ゲルクはラウルへと小刀を戻す。
「頼む。あの娘を……悲しき運命を背負わされ、全てを憎んでいる可哀想な少女を、救ってやってくれ」
 真摯な瞳を向けてくるゲルクに、ラウルは悲しみを帯びた瞳で言葉を返す。
「……俺には、人を救うような資格なんてない」
「ラウルよ……」
「それでも、俺はあいつを倒す」
 力強い言葉。決意溢れる眼差し。戦いに挑む青年の姿に、ゲルクはまぶしそうに目を細めた。 そんなゲルクを不思議そうに見たラウルだったが、もう一つゲルクに伝えるべきことを思い出して、口を開く。
「そうだ。村長が一緒に来ると言ってる。その間はマリオに村を任せるってんだが、どうにも頼りないしな。隠居中のところを悪いんだが、村のこと……」
「ワシには、その力はないよ」
「は?」
 目を丸くするラウルに、ゲルクは淡々と語った。
「今まで言わんかったが、ワシは六十年前にすでに、神の声を聞くことが出来なくなっているんじゃよ。神を降ろそうなどという過ぎた行いをした代償か、それともユークに見限られたか、理由は分からんがの……」
 一大決心をしてのゲルクの告白だったが、ラウルはあっさりとそれを笑い飛ばした。
「神の力がなくても、今まで戦ってこられたんだろ。だったら、これからだって戦えるはずだ。どっかの小僧が言ってたじゃないか。『何も出来ないから戦えない訳じゃない。何もしないから戦えないんだ』ってな」
 あの時、マリオの一言はラウルはおろか、村人全ての胸に深く突き刺さった。
 そう、戦いとは、何も武力を以ってするだけではない。挫けない意思を持つ事。何があっても諦めない事。戦いとは即ち、立ち向かう心を持ち続ける事に他ならない。
 ゲルクもまた、この地で六十年の長きに渡り戦い続けてきた。そして今も、戦い続けている。
「俺はあんたのそのど根性だけは、他の誰よりも買ってるんだがな」
「やかましいわ、このクソ坊主が……ぬ、なんじゃ」
 ラウルがごそごそと取り出した紙切れの束を見て、ゲルクは眉をひそめる。
「ひとまずこれだけあれば、多少の役には立つだろう?」
 渡されたそれは、破邪の呪符だった。ラウルの手製だけあって、綴られた字はとても上手とは言いがたかったが、死者を縛り、眠りへと導く闇の力が丹念に練りこまれている。二十枚以上あるこの呪符を作るのには、相当の時間を必要とするはずだ。
「……へたくそな字じゃな」
 思わず呟くゲルク。
「うっせー。いらないなら返せよ」
「誰もいらないなどと言っておらんわ。ありがたく受け取ろう。これならワシにも扱えるからの。おう、そうじゃ、忘れておった」
 そう言って今度はゲルクが、書き物机の引き出しをごそごそとやり始める。
 しばらくしてようやくお目当てのものを探し当てたゲルクは、布に包まれたそれをラウルに放った。
 片手で受け取り、布を解く。中から出てきたのは、銀で拵えられた短剣だった。緻密な細工が施されている。抜き放つと、清廉な輝きが現れた。
「銀は不浄なるものを退ける。司祭の位を授かった時に本神殿から頂いたもんじゃが、こんなところで眠らせておくのも勿体無い。何かの役に立つかもしれん。持っていけ」
「ああ。ありがたく使わせてもらう」
 頷いて短剣を布で包み、ラウルはそれを懐にしまった。
「……して、出立はいつになる?」
 ゲルクの問いかけに、さあな、と嘯くラウル。
「近いうちさ」
「そう、か……」
 窓の外に視線を移す。
 煌々と地上を照らす月。その透き通った光の中に浮かび上がった世界は、どこまでも穏やかに見えた。


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