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2.滅魔の紋章
 びええええええ、と子供のような泣き声が、廊下にまで響いている。
 確認するまでもなく、彼女が在室していることは明らかだったので、扉をガンガンと叩いて注意を惹くが、果たして聞こえているかどうか。
「おい、ミア。入るぞ」
 返事を待たずに扉を開ければ、威力を増した泣き声が耳に突き刺さる。
 粗末な小部屋の寝台に突っ伏して、駄々っ子のように泣いているのは、白い外套に身を包んだ少女。振り乱された銀の髪はぐしゃぐしゃで、気配に気づいてのろのろと上げた顔は、涙と鼻水で酷い有様だ。
「ふえええ、リューくん」
 その顔のままがしっと縋りついてきた少女を容赦なく引き剥がしにかかりながら、リューグはああもう、と溜息を吐く。
「いい加減、慣れろっての」
「慣れるわけないでしょ!」
 涙目で頬を膨らませる少女こそ、《茨の聖女》ミアティス。彼女が《滅魔の紋章》を授かり、瘴魔討伐の要として戦場へ赴くようになって、すでに半年が経過していた。今回のように大規模な討伐戦だけでなく、突発的な戦闘も含めれば、『封印』を行った回数は優に二十回を超える。
「おいこら、人の服で鼻水を拭くな!」
 抗議の声を無視し、リューグの服に顔をぐりぐり押しあてながら、ミアはなおも涙を零す。
「あれほどやめてって言ってるのに、みんな瘴魔そっちのけで私のこと見てるしいいいいい!」
 無理もない。これが例えば、鍛え上げられた屈強な戦士の尻に宿った紋章だったなら、隊員達もそっと視線を逸らし、瘴魔が滅されるのをじっと待ったことだろう。
 しかしミアは若干十七歳の――しかもすこぶる美しい――乙女だ。透き通るような白い肌、月光を紡いだような髪。けぶるような長い睫毛に縁どられた大きな瞳は星空を磨き上げたように輝いている。そんな彼女の美しさを最大限に引き立てるよう、特別に誂えられた《聖女の戦装束》は、とても街中では着られないような際どい代物だが、それには勿論理由があった。
 彼女が宿す《滅魔の紋章》は、その全体が露出していないと効果を発揮しないという、実に厄介な代物だ。故に、紋章の力を振るう時はあのように臀部を露わにせねばならず、そのたびに彼女は羞恥心と戦っている。発動直前まで全身が隠れるような外套を着ているのも、瘴魔を滅した後は逃げるように砦へ引っ込むのも、すべてそのせいだ。
 当初は、封印を直視するのは危険だからとか適当な理由をつけて、《聖女》を見ないようにというお達しが出ていた。しかし、何度目かの討伐戦で、たまたま目を逸らすのが遅れた隊員が紋章を目にしてしまったことで、『尻に紋章を宿した聖女』の話は一気に広まってしまったわけだ。
「絶対! 『半ケツの聖女』とか、『茨の痴女』とか、陰で言われてるんだあああああ!」
「言わねーよ」
 泣きじゃくるミアの頭を撫でながら、なんとか機嫌を取ろうと、努めて明るい声を出す。
「ほら、さっさと泣き止んで、大司教様のところへ報告しに行こうぜ。帰りにお前の好きな蜜菓子買ってやるから」
「やだ。リューくんが一人で行ってきて」
「お前ね。たかだか小隊長ごときにそんな大それた任務を押しつけるんじゃねえよ」
「だからリューくんが討伐隊長になれば良かったのに! マリク隊長だって最初からそう言ってるのに、リューくんが嫌がるから!」
「当たり前だろうが! 俺はただの警備兵あがりだぞ! 小隊を率いるのだって苦労してるってのに、討伐隊長なんて勤まるわけねえだろ」
「それ言ったら、私だってただの治癒師見習いだったのに!」
 それが今では、かたや瘴魔を滅する《茨の聖女》、かたや討伐隊随一の実力を誇る小隊長として、共に討伐隊には欠かせない人物となっている。
「半年前まで……ただの、普通の女の子だったのに」
 涙と共に零れた呟きが、じわりと胸に染み込んでいく。慰めの言葉も見つからず、リューグは嗚咽を漏らすミアの背中を、ただ撫でてやることしかできなかった。


 つい半年前まで、二人の関係はただの「幼馴染」でしかなかった。
 家が隣同士だった二人は兄妹同然に育ち、遊びに行くにも、学校へ行くにも、いつも一緒だった。リューグが大聖堂の警備兵になってからは会う機会も減ったが、その翌年にミアが治癒師見習いとして大聖堂付属の治療院で修業を開始してからは、また顔を合わせる回数が増えた。
 そんな二人が暮らす大聖堂は、岬の先端にそびえる荘厳な建物だ。《瘴気の森》によって分断される前は、大陸中から巡礼者や観光客が訪れ、柱や梁の細部にまで施された美しい装飾の数々や、稀代の石工が彫り上げたという巨大な創世神像に感嘆の息を漏らしたものだった。
 そんな大聖堂は聖者ガラハドが眠る場所としても有名だ。ガラハドは三百年ほど前に起こった未曽有の大災厄に際し、《滅魔の紋章》の力をもって立ち向かった人物で、大災厄を封じてからはこの岬で余生を過ごしたという。
 今から一年ほど前、大陸の北方にある森から瘴気が溢れ出し、近隣の村や町を次々と飲み込んでいるという報告があった時、人々が真っ先に思い出したのは、ガラハドが鎮めたという『未曽有の大災厄』だった。
 何しろ三百年も昔のことで、詳細な記録も残ってはいないのだが、数々の伝承からそれが瘴気の塊――瘴魔であったことは明らかだった。そして伝承にある通り、瘴魔は何もかもを飲み込んで、勢力を拡大していった。
 瘴魔に立ち向かうには《滅魔の紋章》の力を借り受けるしかない。しかし、ガラハドがどこで紋章の力を手に入れたのか、そして彼が亡くなったあと紋章がどうなったかは、公の記録には残っていなかった。
 人々は迫りくる瘴魔に怯え、なすすべもなく半島の端へと追い詰められていった。
 ――そして、半年前のある日。
 大司教に呼び出された六人の男女が、大司教と共に大聖堂の地下深くを目指していた。
 その中にはリューグとミアの姿もあり、互いに大司教の前で素っ頓狂な声を上げ、緊張感がないと窘められたことをよく覚えている。
 大聖堂の地下はほとんど迷宮となっており、鼠や虫以外にも得体のしれない怪物が多々巣食っていた。それらを退けながら地下迷宮を彷徨うこと、およそ半日。ようやく辿り着いた最深部には、厳重に封印された石の扉が待ち構えていた。
「大司教様、ここは……?」
「聖者ガラハドの墓所だ」
 その言葉にどよめきが起こる。ガラハドの墓は大聖堂の地下にあるとされていたが、その場所は非公開となっており、代々の大司教のみが入ることを許されているとだけ聞かされていた。
「まさか、私の代でこの封印を解くことになろうとはな……」
 大司教が震える手で封印を解けば、重い石の扉が勝手に動き出した。
「危ない!」
 呆然と立ち尽くしていたミアを引っ張り、扉から引きはがす。
「あ、ありがとう、リューくん」
「ぼさっとするな。こんなところで扉に轢かれて死んだら目も当てられないぞ」
「ひどい!」
 いつものどつき合いに発展する二人の前で、扉はギィギィと耳障りな軋みを上げながらゆっくりと開いていき――そして、扉の奥に広がっていたのは、がらんとした石造りの空間。
 恐る恐る足を踏み入れれば、壁に設置された松明がひとりでに灯り、部屋の中央に安置された石棺を照らし出す。石棺には絡みつく茨の紋章が刻まれており、またその奥には、古代神語がびっしりと刻まれた巨大な石碑が建っていた。
「あれは……まさか、《滅魔の紋章》!?」
 そんな声を上げたのは誰だったか。
 次の瞬間、石棺の上にふわりと浮かび上がった男の姿に、その場にいた全員が言葉を失った。
『おやおや、久しぶりの客人だ』
 鍛え抜かれた褐色の肌。長く伸ばした白銀の髪。向こう側が透けていることから、実体でないことは明白だ。そんな男は精悍な眼差しで集まった者達をじろじろと眺め回して「やれやれ」と溜息を吐いてみせた。
『また、紋章の力が必要な事態が起きちまった。そんな顏してるな』
 張りのある声に、我に返った大司教が大きく頷く。
「聖者ガラハド。貴方が守り抜いたこの世界を脅かすものが、再び現れてしまいました」
「ガラハド!? マジかよ!」
 思わず状況を考えずに大声を上げてしまい、大司教に物凄い目で睨まれたリューグだったが、当の聖者は『ああ、マジもんのガラハド様よ』と快活な笑い声を上げながら、剥き出しの上半身に刻まれた紋章を指差してみせた。薔薇の花と絡みつく茨を象った紋章は、左肩から左胸、腹を横断して右の腰近くまで伸びており、半透明の霊体であるにも関わらず圧倒的な存在感を見せつけている。
『俺は《紋章》との相性が良すぎてな。この身はとうに朽ち果ててるってのに、《紋章》のせいでこの世に留まり続けちまってるんだ。この状態でうろうろしても迷惑なだけだろうから、頼み込んでここに居候させてもらってるってわけだ』
 なるほど、彼の墓所が秘匿されていた理由が分かった気がした。霊を鎮める立場にある大聖堂の地下に、気さくに語りかけてくる聖者の霊が居座っているとなれば、大聖堂の沽券に関わる問題だ。
「聖者ガラハド。どうか、その《紋章》の力をお貸しください」
 石棺の前に跪き、深々と首を垂れる大司教に、ガラハドは困ったように頬を掻いた。
『貸してやりたいのは山々なんだがよ、肉体を失った今の俺には、この《紋章》の力は振るえない。それなのに、この《紋章》と来たら選り好みが激しすぎて、なかなか次の器を決めてくれねえんだよ。お前さんらの中に、こいつが気に入るやつがいればいいんだが』
 ただの警護で呼ばれたはずだったのに、いつの間にか《紋章》継承の話に巻き込まれていることに気づいて青ざめる六人を尻目に、大司教はすべて納得ずくの表情で、大きく頷いてみせる。
「わずかな可能性でもいい、そこに賭けてみたいのです。どうか……お願いします」
『おうよ。俺もとっとと眠りたいしな。じゃあ行くぜ!』
 心の準備をする間も与えられず、紋章から放たれた閃光が部屋を覆い尽くす。
「きゃあああああああ!」
 すぐ隣から聞こえてきた悲鳴。眩い光の中、無我夢中で手を伸ばせば、細くて柔らかい何かが指先に触れた。咄嗟にそれを掴み、ぐいと引き寄せる。
「ミア!」
「リューくん!」
 華奢な体を掻き抱き、瞼を貫くような眩い光に耐える。そうしてどれほどの時間が経過したのか、ふと眩しさが消え、白く塗り潰された視界が徐々に色を取り戻し、そして――。
「リューくん、苦しいっ」
「お、おう。悪い」
 腕の中でもがいているミアから慌てて手を離し、ほっと息を吐く。しかし、安心したのも束の間、再び耳を劈く悲鳴が響き渡った。
「きゃああああああ、なにこれっ!!」
 床にぺたりと座り込んだミアの目の前で、ゆらゆらと揺れているのは、ガラハドの胸に刻まれていたはずの《滅魔の紋章》――。
『おお、《紋章》はお嬢ちゃんを気に入ったらしいな。長い間、俺みたいなおっさんについてたからなあ、無理もないってか』
 がっはっは、と能天気な笑い声をあげるガラハド。その声に応えるように、紋章がくるくると回転を始める。
『ああ、先輩から一つだけ助言をしておこう。この紋章は目立ちたがり屋でな。服や鎧で隠れてると発動しないんだ。そのせいで俺は上半身裸で戦場を駆ける羽目になって、冬場なんてえらく苦労したもんよ』
 しみじみ語るガラハドの目の前で、ミアの顔色が青から白、そして赤へと忙しなく色を変える。
「は、裸って……!! そんなの、困る!!」
 確かにそれは困る。いくら瘴魔を倒すためとはいえ、戦いのたびに胸丸出しでは、若い乙女としては失うものが多すぎる。せめて背中……いや、それも駄目か。顏や腕では多分収まりきらない。ならば足はどうだ。足だけで足りぬなら――そうだ、尻はどうだろう。面積もそこそこあるし、普段は誰かに見られることもない。
『――ああ、それはいいな』
 唐突に相槌を打たれて、ぎょっと顔を上げれば、半透明の聖者はリューグに向かってぱちりと片目を瞑ってみせた。
『ほら、宿るぞ』
 ミアの前でくるくる回っていた紋章が、ふわりと解けてミアの体にまとわりついたかと思うと、唐突に掻き消える。
「あれっ……?」
 一瞬の出来事に、悲鳴を上げることも忘れてきょとんと眼を瞬かせるミア。どういうことかとガラハドを問い詰めようとしたが、その姿はすでに消えていた。
「おっさーん!! 詳しい説明もなしかよ!!」
 思わず石棺に向かって吠えるリューグの横で、ミアはまず袖をまくり、次に襟元から胸元を覗き、そして最後に長衣の裾をそっと持ち上げて、困惑した表情で首を傾げた。
「……どこにもない……?」
「そんなわけはなかろう。よく探すんだ」
 慌てたように促す大司教だったが、ここに鏡でもあればともかく、それ以上は自分の目で確かめようがない。見かねた女剣士が男性陣を部屋から追い出し、確認すること数分。
「いやああああああああ!!」
 再び響き渡った悲鳴に、何事かと部屋に駆け込んだリューグ達が見たものは、床にへたり込んで泣きじゃくるミアと、それを必死に慰める女剣士の姿だった。
「どうした、紋章はあったのか?」
 恐る恐る問いかける大司教に、女剣士はつい、と目を逸らす。
「あるにはあったんですけど……」
「それは喜ばしいことではないか! なぜミアは泣いている?」
 それがその、と言葉を濁す女剣士を横目に、ミアは戻ってきたリューグに縋りつくようにして、えぐえぐと幼子のように嗚咽を漏らす。
「リューくん、どうしよう……」
「何がだよ」
 嫌な予感を覚えつつも、平静を装って尋ねれば、いいから耳貸して! と強引に屈ませられる。そして真っ赤な顔で囁かれた言葉に、リューグは「あちゃあ」と天を仰ぎ、顔を覆った。
「もうやだあああああ!! お嫁に行けない!!」
 涙まみれの顔を擦りつけるようにして泣き叫ぶミア。その背中を撫でてやりながら、どうにかして慰めようと言葉を探す。
「まあその……尻で良かったじゃねえか。これが胸だったら大変なことになってただろ?」
「どっちにしても大変なことだもん!!」
 絶叫するミア。胸を晒すよりよほどましだと思うのだが、きっと男女で羞恥の感覚が異なるのだろう。
「いや、そうだけどよ。ほら、紋章を使う時ってことは、周りにいるのは瘴魔なわけだろ? ってことは人じゃねえんだから、ちょっとくらい見られたって問題――」
「ありだよ! 大ありだよ!」
 ぼかすかと胸板を叩かれて、どうしたものかと頬を掻く。その頃には、大司教をはじめ周囲の人間達も漏れ聞こえた単語から状況を把握したらしく、それぞれ何とも言えない顔で首を捻っていた。
「なんにせよ《滅魔の紋章》は手に入ったわけだし、これで瘴魔討伐が可能になった訳ですから」
「討伐隊の編成を急ぎましょう。警備兵だけではとても足りない。志願者を募らねば」
 実務的な話を始める警備兵達を横目に、大司教はとても信じられないという顔で、なおもさめざめと泣き続けるミアにそっと声を掛ける。
「ミアティス・ラング。辛い役目を負わせてしまったが、これも神のお導き。世界を救うために、どうかそのし――《紋章》の力を振るってくれたまえ」
 最後の方は若干声が震えていたが、さすがは大司教、威厳ある表情だけは崩していない。
「大司教様! 他人事だと思って!」
 猛然と抗議するミアだったが、その言葉はさらりと受け流され――そして今日に至る。

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